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第5話 邂逅

 白い何かが、黒い殻の中で蠢いていた。

 濡れた糸の束のようにも見えた。虫にも見えた。だが、そのどちらとも違う。一本一本が別々に動いているようで、全体として一つの生き物にも見える。

 俺は、それから目を離せなかった。

 離さなければならない。

 分かっている。

 目の前にはゴブリンがいる。粗末な刃物を振り上げ、こちらへ駆けてきている。行き止まりに追い詰められた俺には、逃げ場もない。

 それなのに、視線は右手の中に釘付けになっていた。

 黒い殻が崩れていく。

 音もなく、乾いた泥が割れるように、指の間から剥がれ落ちていく。その奥から現れた白いものが、ゆっくりと身を起こした。

 小さい。

 それなのに、俺の体は動かなかった。

 その白さが、異様だった。

 石室の暗さの中で、そこだけが浮いて見える。ライトの光を反射しているわけではない。自分で光っているわけでもない。ただ、黒い殻の中に閉じ込められていたはずの白が、そこにある。

 ありえないほど、白い。

 次の瞬間、それが跳ねた。

「――っ」

 声は出なかった。

 白いものは、俺の手から顔へ向かって伸びた。

 避ける暇はなかった。

 瞬きする余裕すらなかった。

 大きく見開いていた目に、冷たい何かが触れた。

 そして、入ってきた。

 痛みはなかった。

 そのことが、逆に恐ろしかった。

 目の表面に触れたはずなのに、刺されたような痛みはない。焼けるような痛みもない。ただ、冷たい糸が眼球の奥へ滑り込んでいく感覚だけがあった。

「う、あ……」

 喉の奥から、情けない声が漏れた。

 目の奥で、何かが蠢いている。

 まぶたを閉じても消えない。こすっても取れない。そもそも、触れる場所にいない。眼球の裏側。頭の中。神経の隙間。そんな、存在しているはずのない場所を、細いものが這っている。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 俺はゴブリンのことを忘れていた。

 刃物を持った化け物が目の前にいることも、左腕から血が流れていることも、行き止まりに追い詰められていることも、一瞬全部どこかへ消えた。

 今、自分の中に何かが入った。

 その事実だけが、頭の中を埋め尽くしていた。

 吐きそうだった。

 目を抉り出したくなった。

 だが、体は動かない。

 恐怖で固まっているのか、それとも入ってきた何かに止められているのか、それすら分からない。

 その間にも、ゴブリンは近づいてきていた。

 石を蹴る足音が、少しずつ遅くなる。

 最初は走っていた。獲物を逃がさないために、短い足を忙しなく動かしていた。だが、俺が行き止まりで動けないと分かったのだろう。

 ゴブリンは速度を落とした。

 口を大きく歪め、刃物を見せつけるように揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。

 笑っている。

 そう見えた。

 こいつは、俺が自分に怯えていると思っている。

 逃げ場を失い、震えている獲物をいたぶるつもりなのだろう。俺の目が見開かれているのも、息が荒いのも、足が動かないのも、全部自分への恐怖だと思っている。

 違う。

 違うんだ。

 お前じゃない。

 俺は、お前どころじゃない。

 目の奥で、白いものが動いた。

 その瞬間、頭の中に冷たい感覚が広がった。

 氷水を流し込まれたような冷たさではない。熱くなりすぎた思考の一部を、無理やり押さえつけられるような感覚だった。

 恐怖が消えたわけではない。

 怖い。

 今でも怖い。

 だが、その恐怖が、体を縛らなくなった。

 息が整う。

 視界が狭まる。

 それまでぐちゃぐちゃに暴れていた思考が、急に一つの方向へ揃っていく。

 生きる。

 そのために、動く。

 俺はゴブリンを見た。

 改めて見ると、小さい。

 子供ほどの背丈。細い手足。大きすぎる口。刃物を持っているとはいえ、体格だけなら大人の男よりずっと小さい。

 もちろん、危険だ。

 さっき俺の左腕を裂いたのはこいつだ。人間ではない。力も、速さも、普通の子供とは比べものにならないはずだ。

 それでも。

 目の奥に入り込んだ白いものに比べれば、まだ理解できる恐怖だった。

 俺は右手を見た。

 黒い殻は、ほとんど崩れていた。手のひらには黒い欠片が残っているだけで、さっきまであった重さは消えている。

 右手が動く。

 動いた。

 俺はリュックの横に固定していた折りたたみのトレッキングポールに手を伸ばした。伸ばしている暇はない。固定具を乱暴に外し、短いまま引き抜く。

 ゴブリンが、こちらの動きに気づいた。

 口を歪めたまま、刃物を振り上げる。

 来る。

 そう思った瞬間、妙な感覚があった。

 速い。

 速いはずだ。

 なのに、見えた。

 ゴブリンの肩が動く。肘が上がる。手首が返る。石片のような刃が、どの角度で振り下ろされるのかが、目で追えた。

 見える。

 なぜか、見える。

 俺はトレッキングポールを横から叩きつけた。

 金属と石がぶつかる乾いた音が響く。

 刃物の軌道が逸れた。

 ゴブリンの目が、わずかに見開かれる。

 俺自身も驚いていた。

 当たった。

 今のが、見えて、当たった。

 だが、考える暇はなかった。

 ゴブリンは刃物を弾かれた瞬間、すぐに体勢を変えた。小柄な体を低く沈め、こちらの腹へ飛び込むように距離を詰めてくる。

 組みつく気だ。

 ポールを振り直す余裕はない。

 押し返すにも、左腕は使いにくい。左上腕の傷が熱を持ち、少し動かすだけで血が流れる感覚がある。

 近い。

 ゴブリンの口が開く。

 黄ばんだ歯が見えた。

 腐ったような息が届く。

 次の瞬間、右腕が動いた。

 殴ろうとしたわけじゃない。

 格闘技なんてやったこともない。

 ただ、気づいた時には、右拳が前に出ていた。

 拳が、ゴブリンの側頭部に当たった。

 鈍い音がした。

 軽い体が、信じられない勢いで横へ飛んだ。

 ゴブリンは壁に叩きつけられた。頭から石壁にぶつかり、跳ね返るように床へ落ちる。手に持っていた刃物が転がり、乾いた音を立てて止まった。

 ゴブリンは動かなかった。

「……は?」

 自分の口から、間の抜けた声が出た。

 何が起きたのか分からなかった。

 今、俺が殴った。

 それは分かる。

 だが、あんなふうに吹き飛ぶはずがない。

 相手が小柄だったとしても、俺は格闘家でもなければ、鍛え上げた探索者でもない。三十歳の元会社員だ。必死になって殴ったところで、化け物を壁に叩きつけて動かなくするような力が出るわけがない。

 右手が震えていた。

 拳に痛みがある。

 だが、それよりも腕全体に妙な熱が残っていた。筋肉の奥に、今まで使ったことのない力が通ったような感覚がある。

 俺は一歩、ゴブリンへ近づいた。

 動かない。

 胸が上下しているのかも分からない。壁に叩きつけられた頭のあたりから、黒っぽい血のようなものが滲んでいた。

 倒した。

 俺が。

 そう理解した瞬間、膝から力が抜けた。

 その場に座り込む。

 息が荒い。

 心臓がうるさい。

 トレッキングポールを握る右手が、まだ震えている。

 助かった。

 そう思った。

 思った瞬間、左腕に激痛が走った。

「ぐ、あ……っ」

 遅れてきた痛みが、今度ははっきりと形を持って襲ってきた。

 左上腕の傷が熱い。血が服の内側を伝っている。さっき右拳を出した反動で体が大きく動いたせいか、傷口がさらに開いたのかもしれない。

 まずい。

 止血しないと。

 そう思ったのに、俺の意識は左腕ではなく、目の奥へ向いていた。

 何かがいる。

 まだ、いる。

 白い何かは、消えていなかった。

 痛みでも、幻覚でもない。

 目の奥。頭の奥。そこからさらに深い場所で、細いものがゆっくりと広がっていく感覚がある。

 それは俺の痛みに反応するように、わずかに震えた。

 次の瞬間、左腕の痛みが少しだけ遠のいた。

「……なんだよ」

 声が震えた。

 助かった。

 ゴブリンは倒れた。

 俺はまだ生きている。

 なのに、まるで何一つ終わっていないような気がした。

 俺はゆっくりと右手で自分の顔に触れた。

 目はある。

 潰れていない。

 血も出ていない。

 だが、確かに入ってきた。

 あの白いものは、俺の中に入った。

 その証拠のように、目の奥で何かが身じろぎする。

 俺は、壁にもたれたまま動けなかった。

 目の前には、動かないゴブリン。

 足元には、砕けた黒い殻。

 手には、震えの止まらないトレッキングポール。

 そして、俺の中には。

 何かがいた。

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