第4話 祭壇と黒い石
横道に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
暗渠の中は湿っていた。泥と苔と、古い水の匂いがする場所だった。けれど横道の先から流れてくる空気は、それとはまるで違っていた。
冷たい。
ただ温度が低いだけではない。鼻の奥に触れる空気が、妙に乾いている。地下のはずなのに、長い間閉じ込められていた古い石室の扉を開けたような、乾いた土と石の匂いがした。
俺はライトを向けながら、慎重に進んだ。
足元は悪い。暗渠の床だったはずの場所は、数歩進むごとに泥が薄くなり、代わりにざらついた石の感触へ変わっていった。壁もおかしい。コンクリートのはずだった壁面が、いつの間にか黒ずんだ石のようなものに変わっている。
工事の跡ではない。
ひび割れでも、崩落でもない。
そこだけ、別の場所に差し替えられているようだった。
「……すげぇな…これは」
声は思ったより小さく出た。
戻るべきだ。
頭ではそう思っている。こんな場所に一人で入るのは馬鹿だ。誰かに連絡するべきだし、少なくとも入口の場所をメモして、外に出てから通報するべきだった。
けれど、足は止まらなかった。
ライトの光は、思ったほど先まで届かない。光が弱いわけではない。むしろ、買ったばかりのライトは十分に明るいはずだった。なのに、横道の奥に向けると、闇が光を吸い込んでいるように見える。
胸の奥がうるさい。
怖い。
怖いのに、見たい。
子供の頃、暗渠の奥を覗き込んだ時と同じ感覚だった。あの頃は怖くなって引き返した。けれど今は、その先に進むために会社まで辞めた。
ここで戻ったら、何のために来たのか分からない。
そう自分に言い聞かせ、俺はさらに奥へ進んだ。
どれくらい歩いたのか分からない。
十メートルかもしれないし、五十メートルかもしれない。距離の感覚がおかしくなっていた。通路はゆるく曲がり、何度か狭くなり、また少し広がった。途中でスマホを確認したが、コンパスは相変わらず落ち着かなかった。電波の表示も、一本になったり、圏外になったりを繰り返している。
外の音はもう聞こえない。
水の流れる音も、車の音も、風で草が揺れる音も、全部消えていた。
聞こえるのは、自分の息と、靴底が石を踏む音だけだった。
やがて、通路の先が少し広がった。
俺は足を止める。
そこは、小さな部屋のようになっていた。
広さは六畳ほどだろうか。天井は低く、壁も床も同じ黒ずんだ石でできている。自然にできた洞窟ではない。明らかに誰かが作った空間だった。
部屋の中央に、台座があった。
祭壇。
そう呼ぶしかないものだった。
石を積み上げたような簡素な台座。装飾らしい装飾はない。ただ、中央に置かれたものだけが、ライトの光を受けて鈍く光っていた。
黒い石だった。
手のひらに収まるくらいの大きさ。丸いようで、少し歪んでいる。宝石の原石にも見えるし、何かの卵にも見える。表面は磨かれたように滑らかで、真っ黒なのに、奥に何かを閉じ込めているような深さがあった。
オニキス。
そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
俺は近づいた。
一歩。
もう一歩。
台座の前に立つ。
ライトを当てても、黒い石はほとんど光を返さなかった。吸い込んでいる。そう思った。光も、音も、視線さえも、その黒の中に沈んでいく。
魔石かもしれない。
最初に浮かんだのは、そんな考えだった。
ニュースやネットでは、ダンジョンの内部から未知の鉱石が見つかっていると言われていた。政府は詳細を伏せているが、企業が注目しているとか、エネルギー資源になるとか、真偽不明の噂はいくらでもある。
もし、これがそうなら。
俺は息を呑んだ。
第一発見者。
未発見ダンジョン。
未知の鉱石。
その単語だけで、頭の中が熱くなる。
触るな。
そう思った。
こんなものを素手で触るべきではない。何か毒性があるかもしれない。放射性物質だったらどうする。呪いなんて馬鹿げていると思いながら、それでもそういう言葉が浮かんでしまうくらいには、この石は不気味だった。
なのに、右手が伸びた。
自分でも、なぜ伸ばしたのか分からなかった。
手袋越しの指先が、黒い石に触れる。
冷たかった。
氷のような冷たさではない。もっと奥から来る冷たさだった。体温を奪うというより、触れた部分から感覚だけが遠ざかっていくような冷たさ。
俺は石を持ち上げた。
重い。
見た目以上にずっしりとしている。手のひらに乗せた瞬間、右腕全体がわずかに沈んだ気がした。
石の表面に、白い筋のようなものが一瞬見えた。
気のせいかと思った。
目を凝らす。
黒の奥で、何かが眠っている。
そう見えた。
俺はしばらく、その石から目を離せなかった。
何秒だったのか、何分だったのか分からない。
ただ、気づいた時には、呼吸が浅くなっていた。右手は石を握りしめたまま固まっている。手放さなければならない。そう思うのに、指が開かない。
その時だった。
背後で、石を擦るような音がした。
振り返るより早く、何かが横から飛び出してきた。
視界の端に、小さな影。
次の瞬間、左腕に熱が走った。
「っ、!?」
悲鳴とも息ともつかない声が出た。
何が起きたのか分からない。反射的に後ずさりし、ライトを向ける。
そこにいたのは、子供ほどの背丈の化け物だった。
小柄な人型。
だが、人間ではない。
緑がかった灰色の皮膚。骨ばった手足。大きすぎる口。濁った目。唇の端からは涎のようなものが垂れている。右手には、石片を削って作ったような粗末な刃物を握っていた。
ゴブリン。
そう呼ぶしかないような化け物だった。
俺は左腕を見た。
上腕の外側、服が裂けていた。
その下の皮膚も、斜めに裂けている。傷口から血が滲み、すぐに線になって腕を伝った。
痛い。
はずだった。
だが、その時は痛みよりも、目の前の化け物の方が大きかった。
脳が、痛みを後回しにしていた。
ゴブリンが口を開く。
甲高い声が、石室に響いた。
俺は逃げた。
考えるより先に体が動いた。右手には黒い石を握ったまま。左腕から血を流したまま。台座を蹴るようにして横を抜け、来た道とは逆の暗がりへ走った。
どこへ向かっているのか分からなかった。
ただ、あの化け物から離れたかった。
背後から、足音が追ってくる。
軽い。
速い。
石を蹴る音が、俺の足音よりずっと細かく響いている。
俺は必死で走った。
通路は狭い。壁に肩がぶつかる。リュックが石に擦れる。何度も足を取られそうになり、そのたびに壁へ手をついて体勢を立て直した。
左腕の感覚がおかしい。
熱い。
濡れている。
だが、まだ動く。
痛みは遅れてくる。今はそれどころではない。止まったら斬られる。転んだら終わる。それだけは分かった。
途中、曲がり角を無理やり曲がった。
背後でゴブリンの足音が少し乱れる。体が小さい分、速いが、曲がり角では勢いを殺しきれないらしい。
距離が開いた。
わずかに。
それでも、開いた。
俺はさらに走った。
そして、行き止まりにぶつかった。
「嘘だろ……」
目の前には、黒い石壁があった。
左右にも道はない。天井は低く、壁には小さな亀裂があるだけ。人が抜けられるような隙間はどこにもなかった。
戻るしかない。
だが、背後から足音が近づいている。
俺は振り返り、通路の奥へライトを向けた。まだ姿は見えない。だが、来ている。確実にこっちへ来ている。
何か。
何か出さないと。
リュックを下ろそうとした。
その時、右手が使えないことに気づいた。
黒い石を、まだ握っていた。
「なんで……」
手放せ。
今すぐ捨てろ。
そう思っているのに、右手の指が開かない。恐怖で力が入りすぎているのか、石の冷たさで感覚が鈍っているのか、自分でも分からない。ただ、右手は黒い石を握り込んだまま固まっていた。
左手で開けるしかなかった。
俺は血で濡れた左手を、右手に伸ばした。
そこでようやく、痛みが来た。
「ぐっ……」
左上腕の傷が、熱を持って脈打つ。
さっきまで後回しにされていた痛みが、まとめて追いついてきたようだった。腕は動く。指も動く。だが、力を入れるたびに、傷口から熱いものが押し出される感覚がある。
それでも、やるしかない。
背後から、ゴブリンの声が聞こえた。
近い。
俺は左手で右手の指を一本ずつこじ開けようとした。血で滑る。うまく力が入らない。右手の中の黒い石は、妙に冷たく、重かった。
「開けよ……!」
声が震える。
親指が少し浮いた。
人差し指が緩む。
その瞬間、左手の血が黒い石に触れた。
ぴたり、と。
空気が止まった気がした。
ゴブリンの足音が聞こえなくなった。
自分の呼吸も、心臓の音も、遠ざかった。
黒い石の表面に、血が広がっていく。
赤いはずの血が、黒に吸い込まれていく。
次の瞬間。
石に、亀裂が入った。
細い線だった。
だが、その線は一瞬で広がった。黒い殻の表面を、蜘蛛の巣のように走っていく。俺は手を離そうとした。けれど、右手はまだ石を握っている。
亀裂の奥から、白いものが見えた。
石の中にあるはずのない白。
濡れた糸の束のようなもの。
虫にも見えた。
絹糸にも見えた。
それが、ゆっくりと動いた。
通路の奥で、ゴブリンが姿を現した。
刃物を振り上げ、こちらへ駆けてくる。
俺は叫ぼうとした。
声は出なかった。
右手の中で、黒い殻が音もなく割れていく。
その中で、白い何かが目を覚ました。




