第3話 ダンジョンを求めて
明日から探しに行く。
そう決めた翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
会社に行かなくていい朝だった。
正確には、まだ会社員ではある。退職日までは籍が残っているし、有休消化中というだけだ。だが、目覚ましに急かされて起きる必要はなかった。満員電車に乗る必要もない。上司の顔色をうかがう必要も、意味があるのか分からない資料を直す必要もない。
自由だった。
そう思った瞬間、胸が軽くなる。
同時に、胃のあたりが少し重くなった。
本当に、会社を辞めるところまで来てしまった。
部屋の床には、昨夜詰めたリュックが置いてある。ヘッドライト、懐中電灯、手袋、ロープ、水、携行食、救急セット。中身を一つずつ確認していくと、馬鹿げた遠足の準備をしているようにも見えた。
いや、遠足ならまだいい。
俺がやろうとしているのは、地図とネットの噂を頼りに、存在するかも分からない未発見ダンジョンを探しに行くことだ。
冷静に考えれば、かなり痛い。
それでも、玄関で靴ひもを結ぶ手は止まらなかった。
最初に向かったのは、川沿いだった。
ネットでは、ダンジョンの入口は水辺に現れやすい、という噂がそれなりに広まっていた。理由は誰も説明できていない。ただ、公式発表前に出回っていた画像のいくつかが、山中の沢や古い水路の近くだったから、そう言われているだけだ。
信憑性は低い。
だが、最初から確実な情報などあるはずもなかった。
駅から歩いて二十分ほどの場所にある川は、普段なら散歩中の老人か、自転車で通り過ぎる学生くらいしかいない。川幅は広くない。水も綺麗とは言い難い。護岸されたコンクリートの隙間から雑草が伸び、ところどころに空き缶やペットボトルが転がっている。
俺はスマホの地図を見ながら、橋の下や排水口の周辺を一つずつ確認していった。
結果から言えば、何もなかった。
ただの橋の下。
ただの排水口。
ただのゴミ溜まり。
ライトを向けても、奥には錆びた金網があるだけだった。近づくと泥の匂いがして、虫が飛び、靴底に湿った土がまとわりつく。
ダンジョンどころではない。
それでも俺は、昼過ぎまで川沿いを歩いた。
怪しいと思った場所には近づき、地図に印をつけ、違った場所には小さくバツをつける。誰かに見られたら、完全に不審者だったと思う。
途中、犬の散歩をしていたおばさんと目が合った。
俺は反射的に会釈した。
おばさんは、少し警戒した顔で会釈を返してきた。
その瞬間、自分が何をしているのか急に恥ずかしくなった。
会社を辞めて、平日の昼間から橋の下を覗き込んでいる三十歳の男。
客観的に見れば、かなり危ない。
一日目は、何も見つからないまま終わった。
二日目は、もう少し郊外へ出た。
古い工業地帯の近くに、使われなくなった地下通路があるという投稿を見つけたからだ。投稿者は、そこでスマホの電波が急に悪くなり、奥から冷たい風が吹いてきたと書いていた。
いかにもだった。
いかにもすぎて、嘘くさかった。
だが、俺は行った。
現地に着いてみると、そこは地下通路ではなく、ただの歩行者用トンネルだった。壁にはスプレーの落書きがあり、天井の照明は半分ほど切れている。確かに雰囲気はある。だが、通路の反対側には普通に道路が見えた。
冷たい風も吹いていた。
ただし、それは反対側から抜けてくる風だった。
スマホの電波も悪かった。
ただし、トンネルの中だからだ。
「……だよな」
自分で呟いて、自分で虚しくなった。
それでも、周辺を歩いた。古い倉庫の裏、封鎖された駐車場、コンクリートの裂け目、排水溝の奥。怪しいと思える場所は、できるだけ確認した。
何もない。
ただの現実だけが、そこにあった。
三日目には、少し慣れてきていた。
慣れたくはなかったが、慣れてしまった。
朝、地図を確認する。ネットの噂をいくつか拾う。現地へ行く。外れる。別の場所へ行く。また外れる。帰って、地図の印を増やす。風呂に入り、適当に飯を食い、また検索する。
それを繰り返す。
まるで仕事だった。
いや、仕事の方がまだ成果がある。少なくとも、決まった時間に行けば給料は出る。今の俺には、何の保証もない。
その日向かったのは、心霊スポットとして名前が出ていた廃道だった。
そこはすでに有名になっていたらしく、俺が着いた時には若い男たちが三人、スマホを片手に騒いでいた。
「ここマジで出るらしいっすよ」
「ダンジョンだったらやばくね?」
「入れたら動画伸びるって」
声が大きい。
俺は少し離れた場所から様子を見た。
彼らは肝試し半分、動画撮影半分といった様子だった。ライトを振り回し、入り口らしき場所の前でポーズを取り、笑いながら中を覗いている。
その奥にあったのは、崩れかけた古い道だった。
ダンジョンではない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
なぜ分かるのかと聞かれれば、答えられない。けれど、そこにはニュースで見た黒い入口のような、こちらを引き込むような違和感がなかった。
ただ古く、暗く、危ないだけの場所。
俺は近づかずに引き返した。
四日目には、足が痛くなっていた。
慣れない距離を歩き続けたせいで、ふくらはぎが張っている。肩にもリュックの重さが残っていた。靴擦れまではしていないが、足の裏がじんわり熱い。
体力がない。
当たり前だ。
俺は探索者でも冒険者でもない。ただの元会社員だ。デスクワーク中心の生活をしていた三十歳の男が、急に毎日歩き回ればこうなる。
駅前のベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、俺は地図を広げた。
赤い丸とバツが、少しずつ増えている。
それだけだった。
見つけたものは、何もない。
スマホには、新しいダンジョン関連のニュースが流れていた。政府は未確認入口への接近を控えるよう、改めて注意喚起しているらしい。登録制の調査員制度についても、近く詳細を発表する予定だという。
コメント欄は盛り上がっていた。
自分も探索者になる。
会社辞めるわ。
魔石で一発当てたい。
どうせ上級国民だけ得する。
危ないから一般人を入れるな。
俺はその文字列を眺めながら、少し笑った。
会社を辞める。
その冗談みたいな言葉を、俺はもう実行してしまっている。
なのに、ダンジョンは見つからない。
ただの無職に近づいているだけだ。
そう考えた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
俺は、何をしているんだろう。
その問いは、できるだけ考えないようにしていたものだった。
けれど、一度浮かんでしまうと、なかなか消えてくれない。
会社を辞めた。
次の仕事は決まっていない。
親にもまだ言っていない。
友人に話せるような理由もない。
それでいて、やっていることはネットの噂を頼りに橋の下や廃道を覗き込むことだ。
笑えない。
自分でも笑えない。
その日は、早めに帰るつもりだった。
これ以上歩いても、まともな判断ができる気がしなかった。疲れた頭で危ない場所に入れば、それこそ洒落にならない。
だから、駅へ向かって歩き出した。
その途中だった。
川沿いの細い道を通った時、ふと視界の端に古い橋が入った。
低いコンクリートの橋だった。車が一台通れるかどうかの細さで、欄干には黒ずんだ苔がこびりついている。橋の下には、今ではほとんど水の流れていない細い水路があった。
見覚えがあった。
足が止まる。
そこは、地図に印をつけていない場所だった。
ネットにも名前は出ていない。心霊スポットでもない。誰かが動画にしているわけでもない。検索しても、たぶん何も出てこない。
ただ、俺が知っている場所だった。
子供の頃、何度か来たことがある。
近所の友達と、探検ごっこのつもりでこのあたりを歩き回った。橋の下を覗き込み、石を投げ、暗い水路の奥を見て、誰が一番先まで行けるかで騒いだ。
大人からは、近づくなと言われていた。
危ないから。
汚いから。
奥で迷ったら出られなくなるから。
そう言われるほど、気になった。
水路の奥には、人がかがめば入れるくらいの暗渠があったはずだ。
小さなトンネルのような入口。
昼間でも中は暗く、奥は途中で曲がっていて、外からでは先が見えなかった。
俺たちはそこを、秘密基地の入口みたいに扱っていた。
結局、奥までは行かなかった。
誰かが怖がったのか、俺が怖がったのか、それとも本当に危なかったのか。記憶は曖昧だ。ただ、途中で引き返したことだけは覚えている。
俺は橋の下へ降りた。
草が伸びていて、足元が悪い。湿った土の匂いがする。誰も手入れしていないのか、水路の周りには枯れた枝やビニール袋が溜まっていた。
そして、暗渠はまだあった。
思っていたより小さかった。
子供の頃はもっと大きく見えた気がする。奥へ続く闇も、怪物の口みたいに見えていた。けれど今見ると、ただの古い排水路だ。コンクリートは黒ずみ、入口の縁は欠け、内側には泥が溜まっている。
俺は苦笑した。
思い出補正というやつだろう。
こんな場所に、ダンジョンなんてあるはずがない。
そう思った。
思ったのに、足は動かなかった。
ヘッドライトを取り出し、額につける。スイッチを入れると、白い光が暗渠の中を照らした。
奥は狭い。
壁は湿っている。
地面には浅く水が残っている。
子供の頃に見た景色と、大きくは変わらない。
俺は少しだけ中へ入った。
腰をかがめなければ進めない。リュックが壁に擦れる。靴の下で泥が鳴る。外の音が、少しずつ遠くなっていく。
やめておけ。
頭のどこかで、そう声がした。
ここで怪我をしたら馬鹿らしい。
ただの暗渠で滑って転んだら、それこそ笑い話にもならない。
けれど、もう少しだけ。
もう少しだけ進んで、何もなければ帰ればいい。
そう自分に言い聞かせて、俺は奥へ進んだ。
曲がり角を越えた時だった。
風が吹いた。
冷たい風だった。
暗渠の中で空気が動くこと自体は、別におかしなことではない。どこかに出口があれば、風は通る。水路なら、なおさらだ。
だが、その風は妙だった。
湿った泥の匂いではない。
外の草や川の匂いでもない。
もっと冷たく、乾いていて、古い石の奥から流れてくるような匂いがした。
俺は立ち止まった。
ライトを向ける。
そこに、横道があった。
「……こんなの、あったか?」
声が暗渠の中で小さく反響した。
記憶の中にはない。
子供の頃、ここには何度も来た。奥まで行けなかったとはいえ、入口から曲がり角までは何度も覗いた。こんな横道があれば、絶対に覚えている。
壁の一部が、ぽっかりと抜けていた。
コンクリートの割れ目ではない。
工事で作られた排水管でもない。
そこだけ、別の場所につながっているように見えた。
ライトを向けても、奥が見えない。
闇が、光を飲み込んでいるようだった。
俺はスマホを取り出した。
画面をつける。
圏外ではない。
だが、コンパスの針が落ち着かない。北を示すはずの表示が、ゆっくり回ったかと思うと、急に逆方向へ跳ねる。
喉が鳴った。
何日も歩き回って、何も見つからなかった。
橋の下も、排水口も、廃道も、地下通路も、全部外れだった。
なのに、最後に思い出しただけの場所で。
子供の頃、怖くて奥へ行けなかっただけの場所で。
俺は、たぶん見つけてしまった。
横道の奥から、もう一度、冷たい風が吹いた。
逃げろ。
そう思った。
同時に、行け、とも思った。
俺はリュックの肩紐を握り直す。
心臓がうるさい。
足は震えている。
それでも、視線だけは横道の奥から外せなかった。
探していたものは、ここにあったのかもしれない。
俺は一歩、横道へ足を踏み入れた。




