第2話 火種
政府がダンジョンの存在を正式に発表したのは、平日の昼過ぎだった。
その日、俺は会社の休憩室で、冷めたコンビニ弁当を食べていた。壁に掛けられたテレビでは、いつものように昼のニュースが流れている。芸能人の不倫だとか、どこかの会社の不祥事だとか、熊の出没情報だとか、そういう話題が続いていた。
だから最初は、画面の端に出た速報の文字も、いつもの大げさなニュースの一つだと思った。
『政府は本日、国内複数箇所で確認されていた異常地下空間について、正式に“ダンジョン”という呼称を用い、調査を進める方針を発表しました』
箸を持つ手が止まった。休憩室にいた何人かが、同じようにテレビへ顔を向ける。
画面には、灰色のスーツを着た官房長官が映っていた。表情は硬い。だが、その口から出てくる言葉は、現実味がなかった。
異常地下空間。未知の鉱物。内部環境の変質。民間人の無許可侵入の禁止。発見時の通報義務。危険区域としての暫定封鎖。
いくつもの単語が並ぶたび、休憩室の空気が少しずつ変わっていく。
「ダンジョンって、あのダンジョンかよ」
誰かが笑った。その笑いには、呆れと困惑が混じっていた。
「ゲームじゃないんだからさ」
「でも、ネットで噂になってたやつだろ?」
「ああ、山の中に変な穴が出たとか、廃ビルの地下が広がってたとか」
「どうせデマだと思ってたわ」
周囲はざわついていた。けれど、俺だけは何も言えなかった。
胸の奥が、妙に熱かった。
ニュースは続く。現時点では、外部への直接的な脅威は限定的であること。内部への立ち入りは危険であること。未確認の入口を発見した場合、速やかに自治体または警察へ通報すること。政府主導の調査体制を整備し、一部民間協力者の登録制度も検討していること。
言葉だけを聞けば、危険な災害か、厄介な行政案件だ。普通なら、近づかない方がいい。
実際、休憩室にいた同僚たちの反応もそんなものだった。
「近所に出たら嫌だな」
「土地の値段下がりそう」
「配信者とか絶対入るだろ」
「もう入ってるやついるんじゃね?」
誰も、本気でそこへ行きたいとは言わなかった。それが普通だ。俺も、普通ならそう思うべきだった。
危ない。関わらない方がいい。自分には関係ない。
そう考えるのが、三十歳の会社員として正しい反応だったはずだ。
けれど、画面の中に映る黒い入口を見た瞬間、俺の中で何かが戻ってきた。
子供の頃、探検ごっこが好きだった。家の近くの水路。橋の下。暗いトンネル。大人から近づくなと言われた場所ほど、なぜか気になった。
怖かった。でも、見たかった。その奥に何があるのか、知りたかった。
いつからだろう。そういう気持ちを、なくしたのは。
仕事はしている。生活に困っているわけでもない。大きな借金があるわけでも、誰かに追われているわけでもない。
だが、夢もなかった。目標もない。家庭もない。熱中できる趣味もない。
休日は動画を流し、適当に飯を食い、気づけば夜になっている。給料日が来れば少し安心し、月曜が来れば少し憂鬱になる。それを繰り返しているうちに、一年が終わる。
このまま、何も起きずに歳を取るのだと思っていた。何者にもならないまま、何かに夢中になることもないまま、ただ生活だけを続けていくのだと。
それが悪いことだとは思わない。きっと世の中の大半はそうやって回っている。
けれど、テレビの中の黒い入口を見た時、初めて思ってしまった。
今逃したら、一生後悔する。
その日は、仕事がまるで手につかなかった。午後の会議で何を話したのか、ほとんど覚えていない。上司が資料の修正を指示していた気がする。取引先への返答期限がどうとか、来月のシフトがどうとか、そんな話もあったはずだ。
だが、頭の中ではずっと、ニュースで見た黒い入口がちらついていた。
退勤後、俺は真っ直ぐ家に帰らなかった。駅前の書店で地図を買った。登山用の薄い地図と、埼玉県内の道路地図。ついでにアウトドア用品店へ寄り、ヘッドライトと手袋を眺めた。
その時点では、まだ買わなかった。買ったら戻れなくなる気がした。
だからその日は、見るだけにした。
家に帰り、パソコンをつける。検索欄に打ち込む。
ダンジョン。未確認。入口。埼玉。噂。
数えきれないほどの投稿が出てきた。大半はデマだった。拾い画像を使った嘘の発見報告。ゲーム画面の切り抜き。心霊スポットの再利用。閲覧数稼ぎの動画。自称専門家の考察。ダンジョンに選ばれし者だけが入れるなどと語る怪しい宗教まがいの投稿。
馬鹿馬鹿しい。
そう思いながらも、俺は画面を閉じられなかった。
中には、妙に引っかかる情報もあった。入口の近くではスマホのコンパスが狂う。虫や鳥が近づかない。空気が冷たい。水辺や古い暗渠、使われなくなったトンネルの近くで目撃例が多い。
公式発表前から流れていた噂と、今日のニュースに出ていた映像。それらを照らし合わせていくうちに、俺の中で一つの考えが形になっていった。
探せる。
少なくとも、探すことはできる。
発見したら通報しろと政府は言っていた。無許可で入るなとも言っていた。それが正しい。分かっている。
けれど、もし本当に見つけたら。
報告すれば、そこはすぐ封鎖される。警察か、自衛隊か、研究機関が来る。俺はただの第一発見者として、外側に追い出される。
その先を見ることは、二度とできないかもしれない。
スマホを開きAIを起動し、短く人生を左右する願いについて聞いた。
翌日、その願いを机の上に慎重に差し出す。
上司は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後に、露骨に不機嫌な態度へと変わった。
「急にどうした?」
そう聞かれて、俺はうまく答えられなかった。
ダンジョンを探したいから会社を辞めます。
そんなことを、三十歳の男が真顔で言えるはずもない。
「少し、やりたいことができまして」
結局、出てきたのは曖昧な言葉だった。
上司は困った顔をした。引き止めもされた。待遇への不満か、人間関係か、転職先は決まっているのか。いくつも聞かれた。どれも違った。不満がないわけではない。けれど、会社が嫌で辞めるわけではなかった。
【やりたい事ができた】それが嘘ではない正直な理由だからだ、やっと火種を見つけたのだ、これを消してしまったとき、俺は恐らく本当の意味で死んでしまうんだろうと、奇妙な確信があった。
退職日までの有休消化が決まると、妙に体が軽くなった。
不安はあった。貯金は無限ではない。次の仕事も決まっていない。ダンジョンを見つけられる保証などどこにもない。
冷静に考えれば、馬鹿な選択だ。親に言えるはずもない。それでも、後悔だけはなかった。
衝動で負の感情を打ち消すべく、その日から準備を始めた。
まず、武器は買わなかった。ナイフや警棒のようなものを持ち歩けば、問題になるのは分かっていた。そもそも、素人が刃物を持ったところで、ダンジョンの中で何ができるとも思えない。
だから、探索用品に絞った。
ヘッドライト。強力な懐中電灯。予備の電池とモバイルバッテリー。革手袋。防塵マスク。簡易救急セット。ホイッスル。マーキングテープ。チョーク。ロープ。水。携行食。雨具。そして、折りたたみのトレッキングポール。
どれも登山や防災用品としてなら不自然ではない。だが、並べてみると、どう見ても何かに入るための装備だった。
自分でも笑ってしまった。
いい歳をした大人が、何をしているのか。
けれど、リュックに一つずつ詰めていくたび、胸の奥が静かに熱を持った。
ニュースでは、連日ダンジョンの話題が続いていた。危険だから近づくなという専門家。これは新しい資源だと語る企業関係者。探索者制度の必要性を訴える評論家。未発見ダンジョンを探す配信者。ゲーム感覚でギルドを作ろうとする若者たち。ダンジョンは神の試練だと叫ぶ宗教団体。
世界は少しずつ浮ついていた。
でも、日常はまだ壊れていない。電車は動いている。会社員は会社に行く。学生は学校に行く。スーパーには普通に客がいる。
世間は、恐れながらも、どこか他人事だった。
俺も、少し前まではその中にいて、もう、戻れない。
部屋の床に置いたリュックを見下ろす。
これが正しいのかは分からない。自分が何を見つけるのかも分からない。もしかしたら、何も見つけられないまま有休が終わり、ただ無職になっただけで終わるのかもしれない。
それでも、行くと決めた。
俺はこの時初めて思った、命の危険に晒されたわけでもないのに【死にたくない】と。
地図を広げる。
赤いペンで印をつけた場所が、いくつも並んでいる。
川沿い。橋の下。古い暗渠。使われなくなった水路。
子供の頃なら、きっと胸を躍らせた場所ばかりだった。
俺はヘッドライトの電池を確認し、リュックの口を閉じる。
明日から、探しに行く。
誰も知らない入口を。
俺の人生を変えるかもしれない場所を。




