第1話 少し未来の後悔
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ちょろい依頼、ちょろい獲物、第一印象はそんな感じだった。
薄暗いダンジョンの通路を、一人の男が前を歩いていた。
年は三十前後。体つきは悪くないが、鍛え上げられた探索者には見えない。足取りにも隙がある。周囲を警戒しているつもりなのだろうが、こちらからすれば素人のそれだった。
武器らしい武器も見えない。
だが、装備だけは妙に良い。
ライト、外套、靴、腰回りの道具。どれも安物ではない。未発見区域に一人で入ってきた馬鹿にしては、ずいぶん金をかけている。
あれを剥げば、それだけで十分な稼ぎになる。
依頼主からの報酬に、男の装備。ついでに持ち物の中に魔石でも入っていれば、おいしすぎる仕事だった。
笑いを噛み殺しながら、俺は隣の仲間に視線を送った。
依頼の内容は単純だった。
あの男を捕まえろ。
抵抗するなら多少壊しても構わない。
殺すなとは言われていない。
薄暗い通路の奥で、男はこちらに背を向けていた。こちらの存在には気づいていない。いや、気づいていたとしても、どうにかできるようには見えなかった。
「一人だ。やれ」
仲間が、男の背後へ踏み込んだ。
次の瞬間、そいつは前のめりに倒れた。
何かに足を取られたのだと思った。だが、床には何もない。石も、段差も、罠らしいものもない。ただ湿った地面が続いているだけだった。
(なにをやってんだ! このマヌケは!)
内心で罵倒した。
だが、それはすぐ後の自分の姿でもあった。
舌打ちしながら、今度は俺が前に出る。倒れた仲間の横を通り過ぎようとした、その足が不自然に何かに引っかかった。
足首を掴まれたように思えた。
けれど、やはり何も見えない。
見えない何かが、床すれすれに張り巡らされている。
そんな古典的なトラップに引っかかったのか?
いや、直前まで確かに通路を見ていた。何かがあれば、さすがに気づく。
しかし、今さらそれを知ったとしても、もう遅い。
倒れた仲間の顔の横を、小さな影が走った。
ネズミだった。
どこにでもいるような、痩せた灰色のネズミ。
そう見えた。
そいつが、仲間の首筋に飛びついた。
「っ、あああああああ!?」
悲鳴は途中で途切れた。
噛まれた傷は小さい。血もほとんど出ていない。なのに、仲間の体が不自然に跳ねた。指が硬直し、目だけが恐怖で見開かれる。
「おい、どうした! 何された!」
「わっ、わかんねえんだ! 多分噛まれた!」
仲間は生きていた。息もしている。意識もある。
ただ、動けない。
ぞっとした。
俺とこいつは、ダンジョンの中で何度も魔物を見てきた。噛まれた奴も、斬られた奴も、毒を受けた奴もいる。だが、これは違う。傷の大きさと結果が釣り合っていない。
俺は焦りを押し殺し、倒れた仲間に手を伸ばそうとした。
その時、指先に鋭い痛みが走った。
「いてっ!」
見ると、いつの間にかネズミが指に噛みついていた。
小さい。
ただのネズミだ。
蹴れば潰せる。踏めば終わる。そう思った。
ネズミがこちらを見た。
いや、見たような気がした。
次の瞬間、足首に冷たい感触が走った。
反射的に振り払おうとした。だが、その前に膝が抜ける。力が入らない。足が自分のものではなくなったみたいだった。
倒れ込む視界の端で、あの男が一歩だけ近づいてくるのが見えた。
男は何もしていない。
何もしていないのに、俺たちはもう終わっていた。
床を這う小さな影が、ゆっくりと近づいてくる。
ただのネズミだ。
そう思いたかった。
だが、首筋に何かが触れた瞬間、皮膚の下へ冷たいものが潜り込んだ。
そこから先は、痛みよりも恐怖の方が勝っていた。
体の奥を、何かが這っている。
血管なのか、筋なのか、神経なのか。自分の体の中にあるはずなのに、どこを通っているのか分からない。ただ、冷たいものが首筋から肩へ、肩から背中へ、ゆっくりと広がっていく感覚だけがあった。
声を出そうとした。
出なかった。
逃げようとした。
指先すら動かなかった。
視線だけが、かろうじて動く。
だから、見えてしまった。
男の背後。
薄暗い通路のさらに奥。ライトの光が届ききらない影の中で、何かが蠢いていた。
最初は、壁が揺れているのだと思った。
違う。
床も、天井も、壁際の瓦礫も、そのすべてに小さな影がいた。ネズミ。虫。何かの幼体。名前も分からない小さな生き物たちが、音もなく、ただ男の周囲に集まっている。
それらは鳴かない。
威嚇もしない。
ただ、じっとこちらを向いていた。
見られている。
無数の目に、ではない。
無数の体を通して、たった一つの意思に見られている。
その瞬間、ようやく理解した。
俺たちは、男を襲ったんじゃない。
最初から、踏み込んではいけない場所に踏み込んでいた。
ここは通路じゃない。
この男の縄張りだ。
いや、違う。
巣だ。
なぜこんな依頼を受けたのか。
なぜ、あの男をただの獲物だと思ったのか。
なぜ、装備を奪えば儲けになるなどと考えたのか。
後悔は、喉の奥で形にならないまま沈んでいく。
男が近づいてくる。
その背後で、無数の小さな影が、いっせいに動いた。
自分がこの先どうなるのか、聞くまでもなかった。
俺は、ただ絶望することしかできなかった。




