第53話 国所有ダンジョン 1
右壁沿いに十メートル。言われた通りに進むだけなら簡単だった。簡単なはずだった。けれど、背中にカメラがあると思うと、足の出し方ひとつまで変に意識してしまう。速すぎても駄目。遅すぎても駄目。周囲を見ないのも駄目。見すぎて警戒しているように映るのもたぶん駄目。普通の五級仮登録者として、慎重に、指示に従って、教材映像として使える範囲で動く。言葉にすると、かなり面倒だった。
倉庫の内側に見える通路は、外から想像したより広い。左右の壁は古いコンクリートに似ているが、表面がところどころ石のように盛り上がっていた。天井は低すぎない。ライトの光は奥まで届くが、届いた先で少し沈む。床には砂利と小石が混じり、歩くたびに靴底が細かく鳴った。
「五級仮登録者、十メートル地点で停止してください」
「停止します」
俺は止まった。短棒は左右に下げたまま。構えすぎるとそれっぽくなりすぎる。とはいえ完全に脱力していると、何か出た時に遅れる。中途半端な自然体という、よく分からない状態を維持する。体の奥の白いものは静かだった。静かというより、こちらの動きに合わせて細く張っている感じがする。余計なことをするな、と自分にも中のものにも言い聞かせた。
職員が後ろで記録を読み上げる。
「入口から十メートル。通信、正常。照度、低下軽微。目視範囲内、明確な敵性生物なし。落下物、小石、砂利、木片状の破片を確認」
木片状の破片。俺は床の端にあるそれを見た。確かに木片に見える。だが、ここは倉庫の形をしているだけの異常空間だ。木片に見えても、本当に木とは限らない。拾いたくなるが、勝手に触ると怒られる。さっき石を拾ったばかりなので、ここは我慢した。成長している。たぶん。
「右壁沿いにさらに五メートル。速度を落として進行してください」
「了解しました」
ゆっくり歩く。足元を見る。壁を見る。奥を見る。カメラの位置を考えすぎないようにする。亀山は少し後ろにいる。機材の動きと足音で分かる。こちらに話しかけてくることはない。記録協力者として、必要なものを撮っているだけだ。
三歩進んだところで、床の砂利が少し動いた。
俺は止まった。
「停止します」
自分で言うより早く、体が止まっていた。短棒を少しだけ上げる。前方の砂利の盛り上がりが、ゆっくりと割れた。中から黒っぽい丸いものが出てくる。最初は石かと思った。次に、脚が見えた。
甲虫だった。
大きさは、膝下くらい。丸い背中に灰色の外殻。石を貼り合わせたような甲羅があり、ライトを当てても鈍くしか光らない。脚は六本。太く短い。動きは速くないが、床を掻く音が硬い。顔というより、甲羅の下から小さな顎が見えていた。
「前方、小型甲虫型一体」
安全管理要員の声が飛ぶ。
「距離、約六メートル。敵性行動は未確定。五級仮登録者、その場で待機」
「待機します」
俺は動かなかった。甲虫型は床の砂利を押しのけ、こちらへ向きを変えた。頭の位置は低い。突進型だろうか。人型でないのは、少しありがたい。ゴブリンやコボルトの顔を見るより、虫の方がまだ気持ちの置き場がある。嫌なものは嫌だが、人間に近い形をしていないだけで、だいぶ違う。
職員が短く確認する。
「記録継続。安全管理要員、支援可能位置。戸張さん、指示範囲内で対処してください。無理な接近は避け、危険と判断したら下がってください」
来た。
「了解しました。対処します」
言ってから、少しだけ喉が乾いた。撮られている。職員も見ている。亀山も見ている。ここで変な動きをするわけにはいかない。だが、わざと下手にやるのも危ない。低危険度区域の小型一体。安全管理要員が後ろにいる。教材映像としては、ちょうどいいのだろう。俺にとっても、ちょうどいい範囲で終わらせないといけない。
甲虫型が、カチカチと顎を鳴らした。脚が床を掻く。次の瞬間、思ったよりまっすぐ来た。
速い、というほどではない。だが、重い。丸い石が脚で走ってくるような感じだった。正面から短棒で叩けば、外殻に弾かれるだろう。止めようとすれば、こっちの足元が崩れる。なら、止めない。
俺は右手を下げ、左手の短棒を少し前へ出した。殴るためではない。進路の横へ置く。甲虫型が近づいてくる。三メートル。二メートル。ポケットの石に指が触れた。
使える。
けれど、いきなり投げて頭部を潰すのはやりすぎだ。いや、できるかどうかは別として、少なくとも映像としては変だ。俺は石をひとつ取り、甲虫型の正面ではなく、少し右の床へ投げた。
石が跳ねた。乾いた音が通路に響く。
甲虫型の向きが、ほんの少しそちらへ流れた。音に反応したのか、振動に反応したのかは分からない。だが、進路がずれる。俺は半歩だけ横へ動き、左の短棒で前脚の外側を払った。叩き潰すのではなく、足場を乱す。短棒の先端が脚に当たり、硬い感触が手に返った。
重い。
だが、流れない。
先端に寄った短棒の重さが、当たった後も前へ行きたがる。それを肘と肩で逃がし、右手の短棒を下から入れる。甲虫型の横腹、甲羅と床の隙間。そこへ軽く打ち込む。軽くと言っても、手加減しすぎれば効かない。映像に映る範囲で、必要な分だけ。
甲虫型の体が傾いた。六本の脚のうち、右側の二本が空を掻く。完全にはひっくり返らない。丸い外殻が床を滑り、また体勢を戻そうとする。
「前方対象、体勢崩れ。継続対処」
職員の声が聞こえた。
その背後では自衛隊が控えている、いつでも対処できる準備はしているようだ。
俺は下がらなかった。下がる必要はまだない。右の短棒で甲虫型の頭側を押さえる。左で脚をもう一度払う。今度は少し深く入った。石殻のような外殻の下で、細い脚が一本折れる感触がした。いい音ではない。だが、虫相手だとまだ耐えられる。
甲虫型が顎を鳴らし、体を回そうとした。俺は正面に立たない。横へ回る。足元の石を踏まないよう、壁側へ寄る。短棒二本が、思ったより素直に動いた。右で押す。左で払う。止める。戻す。先端に重さがあるのに、棒に引っ張られる感じはない。コボルトのこん棒よりずっと扱いやすい。これを使いにくいと思う人間もいるのだろうが、俺にはかなり親切な武器だった。
「戸張さん、可能なら腹側を狙ってください。甲殻部は効果が薄い可能性があります」
「了解」
言われなくてもそうするつもりだったが、指示が出たのはありがたい。映像上、俺が勝手に判断したのではなく、職員の指示で動いたことになる。そういう積み重ねが、たぶん大事だ。
甲虫型が体勢を戻しかける。俺はポケットから二つ目の石を出し、今度は甲虫型の左側の床へ投げた。音。振動。甲虫型の向きがわずかにぶれる。その瞬間に右の短棒で外殻の端を押し、左の短棒を腹側へ入れた。
鈍い手応え。
一度では止まらない。もう一度。今度は少し角度を変えて、短棒の先端を腹側へ打ち込む。柔らかい、というほどではないが、外殻よりは通る。甲虫型の脚がばたつき、床の砂利が跳ねた。
「対象、活動低下」
安全管理要員が言った。
俺は一歩下がった。勝手に追撃しない。短棒を構えたまま、職員の指示を待つ。
甲虫型はまだ動いている。だが、突進する力はなさそうだった。脚が床を掻き、外殻が小さく揺れる。職員が確認する。
「戸張さん、最後に一撃。腹側、または頭部下部。実施後、即後退してください」
「了解しました」
俺は近づいた。右の短棒を甲虫型の外殻に添え、動きを押さえる。左の短棒を両手に近い感覚で持ち、腹側へ振り下ろした。重さが乗る。音がした。硬いものの内側が潰れる音だった。
甲虫型の脚が一度大きく跳ね、止まった。
「後退してください」
「後退します」
俺は三歩下がった。短棒を下げすぎず、上げすぎず。追撃しない。触らない。採取しない。現場の物は、勝手に拾わない。石以外は。いや、石も本当は勝手に拾わない方がいいのかもしれないが、そこはさっき確認済みということにしたい。
安全管理要員が前に出て、甲虫型を確認する。棒の先で外殻に触れ、反応を見る。職員が記録する。
「小型甲虫型一体、活動停止。五級仮登録者による対処。安全管理要員、状態確認中。対象への直接接触なし」
亀山のカメラが近づきすぎない距離でこちらを撮っていた。俺は短棒を持ったまま立つ。息は乱れていない。乱れていないのが逆に目立つかもしれないので、少しだけ深く呼吸した。わざとらしくならない程度に。撮影される戦闘というのは、戦う相手が一体増えているようなものだった。敵性生物と、カメラ。どちらも油断できない。
「戸張さん、負傷は」
「ありません」
「装備破損は」
「ありません」
「体調変化は」
「ありません」
このやり取りも記録されるのだろう。俺は短く答えた。余計なことは言わない。投石の感想も言わない。投石はいいですよ、お金掛からないし、はもう一回言うとたぶん変な人になる。
甲虫型の体は、しばらくすると外殻の色が薄くなり始めた。ダンジョン内の死体が崩れる時の、あの感じだ。水門でも暗渠でも見た。見慣れた、と言いたくはないが、もう初めてではない。職員が小型のトレーと器具を用意する。俺は一歩下がったまま見ていた。
「対象消失後、残留物確認。魔石状結晶一、外殻片二。採取は担当者が行います」
灰色の小さな結晶が残った。俺が拾ったコボルトの魔石より小さい。外殻片は、薄い石の欠片に似ていた。職員が器具でそれを採取し、袋に入れる。番号シールを貼る。俺は何もしない。ただ見ている。
何もしないのが仕事。
少し前なら、残ったものを全部自分の袋に入れていたと思う。今日は違う。制度内では、採取物は全部申告。担当者が採取。番号を振る。記録する。協力金になるか、研究材料になるか、危険物になるかは後で決まる。面倒だが、楽でもある。隠す必要がないものは、隠さないで済む。
「戸張さん、今の対処について確認します」
職員が言った。
「最初に床へ石を投げたのは、対象の注意を逸らすためですか」
「はい。音か振動に反応するかと思いました」
「その後、正面を避けて脚部と腹側を狙った理由は」
「甲羅が硬そうだったので、正面から叩いても効きにくいと思いました」
「短棒二本を選んだ理由は、今の動きに関係しますか」
少し困った。関係はある。だが、正直に言いすぎると、どこまで喋るか難しくなる。
「一本で押さえて、もう一本で動かせるので。盾よりは、俺はこっちの方がやりやすいです」
職員は頷き、端末へ入力した。
「分かりました。記録上は、投擲による誘導、短棒による進路制御、腹側への打撃処理として残します」
原始人戦法に、急に役所の名前が付いた。
投擲による誘導。短棒による進路制御。腹側への打撃処理。言い方ひとつで、石を投げて棒で殴った行為が、それなりの技術に見える。現代日本はすごい。たぶん、こうやって何でも書類にしていくのだろう。
安全管理要員の一人が、ヘルメット越しにこちらを見た。
「無理に正面で止めなかったのは良かったです。あのサイズでも、足を持っていかれることがあります」
「ありがとうございます」
「ただ、投石は周囲確認を必ず。人がいる方向には投げないでください」
「はい」
当然の注意だった。投石はいい。お金も掛からない。だが、人に当てたら普通に事件だ。制度内でも、原始人にはルールがいる。
確認が終わると、職員が次の指示を出した。
「活動を継続します。五級仮登録者、右壁沿いにさらに五メートル。前方に分岐がありますが、本日は右側のみ確認。分岐前で停止してください」
「了解しました」
俺は短棒を握り直した。ポケットには石がまだ一つ残っている。さっきより少しだけ重く感じた。撮られていることを忘れてはいけない。指示を待つことも忘れてはいけない。だが、戦えることも分かった。制度内の装備で、制度内の指示で、普通の五級仮登録者として。
普通の、という言葉がどこまで信用できるかは知らない。
俺は前へ進んだ。短棒の先端はぶれなかった。ポケットの石が、歩くたびに小さく鳴った。




