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第56話 暗渠ダンジョン 


 翌朝、探索者制度のマイページには、まだ昨日の活動実績は反映されていなかった。

 表示されていたのは、五級仮登録中という文字と、提出済み書類の確認欄、それから「活動記録は順次反映されます」という事務的なお知らせだけだ。協力金も、採取物の扱いも、映像使用の確認も、全部後日。役所の仕事としてはたぶん早い方なのだろうが、こちらの気分としては宙ぶらりんだった。

 昨日は国の管理下にあるダンジョンに入った。敵性生物を倒せば撮影され、残留物は番号を付けられ、石をポケットに入れていただけで記録対象になった。面倒ではあったが、ああいう面倒さがあるから、あの場所は管理されている。

 では、暗渠はどうなのか。

 机の上でスマホを伏せたまま、俺はしばらく黙っていた。

 暗渠ダンジョンは出せない。絶対に出せない。あそこには俺の始まりがある。黒い石の通路、小さな祭壇、割れた封印殻、白いもの、赤錆の山刀。制度に近づいた今だからこそ、あそこを申告する選択肢は前より遠くなっている。

 ただ、出せないからといって、存在しないことにはならない。

 出せない場所が、管理されていないまま残っている。時間も少し空いた。中で何が増えているのか、入口がどうなっているのか、誰かが迷い込むような状態になっていないのか、俺は知らない。

「確認だけだな」

 口に出すと、言い訳っぽさが増した。

 確認だけ。間引ける範囲で間引く。一層のボス部屋手前まで。そこから先には入らない。昨日、言われたところで帰ったばかりだ。制度外でも同じことができないなら、さすがに自分で自分を信用しづらい。

 俺は最低限の装備をまとめた。トレッキングポール、ライト、予備電池、手袋、飲み物、タオル、それからポケットに入る石を拾えるだけの余裕。街中を歩く以上、国所有ダンジョンみたいに短棒二本を堂々と持つわけにはいかない。まして刃物を探索用の武器として持ち歩くのは、いくら理由を並べても危ない。あれはやはり、制度と貸与品があって初めて許される文明のこん棒だった。

 子供の頃に肝試しで通った暗渠は、外から見れば相変わらずただの古い水路だった。

 川沿いの空気は湿っていて、車の音も人の気配も普通にある。入口の周りに規制線はない。看板もない。警察も自衛隊もいない。つまり、何も変わっていない。

 変わっていないことが、今は少し怖かった。

 暗渠の中へ入り、記憶にない横道の前で足を止める。前に見た時と同じように、そこだけ空気が違っていた。湿った水路の匂いの中に、乾いた石と土の匂いが混ざる。昨日の倉庫型ダンジョンより古く、暗く、こちらの事情を知っているような冷たさだった。

 俺はライトを向け、息を吐いた。

「一層の手前まで。今日はそこまで」

 返事はない。

 体の奥の白いものも、特に何も言わない。ただ、黙ってこちらの足の向きを待っているような感覚だけがあった。

 横道に入ると、外の音がすぐに薄れた。足音の反響が変わり、壁の黒い石がライトの光を鈍く返す。以前ここを歩いた時、俺はまだただの元会社員だった。正確には、ただの元会社員が死にかけて、目から変なものを入れた直後だった。今もただの人間かと言われると困るが、少なくとも前より歩幅は落ち着いている。

 最初のゴブリンは、曲がり角の先にいた。

 背の低い人型。濁った目。手には粗いこん棒。こちらに気づいた瞬間、喉の奥から短い声を出して踏み込んでくる。

 俺は足元の小石を拾い、投げた。

 石は顔面に当たり、ゴブリンはその場で崩れた。前なら心臓が跳ねていたと思う。今は、倒れた相手が本当に動かないかを確認し、近づきすぎない距離で通路の奥を見る余裕があった。

 死骸は、すぐに輪郭を薄くし始めた。血の臭いも、長くは残らない。倒したものが現場に残り続けないのは、昨日の国所有ダンジョンでも見た。違うのは、ここには撮影担当も採取袋も番号札もないことだ。

 俺が見て、俺が判断するしかない。

 二体目と三体目は、少し奥の狭い通路で出た。片方が先に突っ込み、もう片方が横から回ろうとする。以前より連携している、と言うには雑だったが、単独でふらふら出てくるだけではない。

 トレッキングポールで一体目の手首を弾き、膝を蹴って倒す。二体目には拾った石を投げ、額に当てた。倒れたところへ近づき、息が残っていないことを確認してから先へ進む。

 間引き。

 そう考えると少し事務的になる。敵を倒しているというより、増えすぎる前に数を減らしている。自分でそう言い換えているだけかもしれないが、少なくとも今日の目的は奥へ進むことではない。

 何度か通路を曲がり、記憶にある広い場所へ向かう途中で、四体目が出た。

 そいつは、こちらに気づくのが少し遅かった。壁際の箱のような残置物を漁っていたらしく、振り返った時には俺の手に石があった。手には粗い木のこん棒。暗渠の中で見ると、ただの棒でも十分に嫌な武器に見える。距離は十分。角度も悪くない。いつも通りなら、額かこめかみに入って終わる。

 投げた瞬間、手首の奥が抜けた。

「え」

 石は当たった。確かに当たった。だが、いつもの嫌な手応えがない。ゴブリンは頭をのけぞらせ、こん棒を落とし、そのまま床に倒れた。死んではいない。胸が小さく上下している。気絶しているだけだ。

 俺は自分の手を見た。

 外したわけではない。力が足りなかったわけでもない。投げる直前、肩から指先までを、ほんの少しだけ誰かに緩められたような感覚があった。

「……何だ、今の」

 答えはない。

 倒れたゴブリンは動かない。放っておけば意識を取り戻すかもしれない。そうなれば背後から来る。なら、とどめを刺すしかない。

 俺は床に落ちたこん棒へ視線を落とした。さっきまでゴブリンが握っていたものだ。持ち帰る気はない。だが、この場で頭を潰すだけなら十分使える。

 蛮族には蛮族の道具がある。

 そう判断して、俺はこん棒を拾おうとした。

 その瞬間、右手の爪の間が熱を持った。

 白い糸が出る。俺が出そうとしたわけではない。止める暇もなかった。細い白いものが指先から伸び、床に倒れたゴブリンの顔へ向かう。

「おい」

 思わず声が出た。

 声ではないものが、体の内側で膨らんだ。

 止まれ。

 そう言われた気がした。いや、言われてはいない。言葉ではない。頭の中に声が響いたわけでもない。ただ、手首から肘、肩、胸の奥にかけて、これ以上近づけるな、拾うな、振り下ろすな、という制止だけが強く伝わってきた。

 俺は動きを止めた。

 白い糸が、ゴブリンの鼻と口元、閉じかけた目の隙間へ触れる。次の瞬間、ゴブリンの体が跳ねた。

「なんだよ、それ」

 ゴブリンが痙攣する。背中が反り、指が曲がり、喉から空気だけの音が漏れた。俺は一歩下がる。こん棒はまだ床にある。何かあれば拾って使える距離を保つ。だが、体の奥の制止はまだ消えない。潰すな。触るな。待て。そんな感覚だけが、白いものから押し付けられる。

 痙攣はしばらく続いた。

 長く感じたが、実際には十数秒だったのかもしれない。ゴブリンの皮膚の下で何かが這う。濁った目の奥に、一瞬だけ白い筋が走る。やがて体の跳ねが収まり、落ちたこん棒が転がる音だけが通路に残った。

 死んだ、と思った。

 次の瞬間、ゴブリンが起き上がった。

 腕をつき、膝を立て、何事もなかったようにスクッと立つ。頭の打撃痕は残っている。目も濁ったままだ。だが、その視線はさっきまでのゴブリンとは違っていた。

 こちらを見る。

 俺は落ちているこん棒の位置を確認した。

 ゴブリンは襲ってこない。

 敵意がない。

 なぜか、そう分かった。理屈ではない。表情を読んだわけでもない。ゴブリンの顔に、人間が読める表情などほとんどない。ただ、こいつはこちらを殺そうとしていない。少なくとも今は。そこだけが、体の奥から先に分かってしまった。

「……なんだよ、それ」

 二回目の言葉は、一回目より小さかった。

 ゴブリンは俺を見上げるでもなく、見下ろすでもなく、ただ待っていた。命令を待っているようにも見える。だが、俺は何も命令していない。そもそも、命令の仕方を知らない。

 試しに一歩進む。

 ゴブリンが先に動いた。

 通路の中央ではなく、俺の少し斜め前。こちらが進もうとした方向を、半歩先に取る。俺が足を止めると、ゴブリンも止まる。俺が右の壁際へ視線を向けると、ゴブリンはそちらへ体を寄せた。

 偶然にしては、気持ちが悪い。

「俺の考えを読んで動いてるのか」

 口に出してから、違う気がした。

 このゴブリンが俺の考えを読んでいる、という感じではない。もっと手前だ。俺が考えとして言葉にする前の、目線や重心や手の中の力の入り方。そういうものを、俺の中の白いものが拾って、それをゴブリンへ流している。

 そう考えた方が、気持ち悪いがしっくりきた。

 俺は床のこん棒を見た。

 ゴブリンは拾わない。俺も拾わない。少し迷ったが、そのまま進むことにした。あれを持たせたら、こいつが本当に戦力に見えてしまう気がした。

 ゴブリンは先を歩く。曲がり角では、自分の顔を先に出す。床に割れた石が散っている場所では、俺より先に足を置く。盾役を買って出ている、ように見えた。

 買って出るも何も、こいつにそんな意思があるのかは分からない。

 ただ、俺の前にいる。

 敵が出るなら、自分が先に受ける位置にいる。

 便利だ、と思うより先に、嫌だな、と思った。俺を守るために、さっきまで敵だったものを前に出している。その構図が嫌だった。嫌なのに、前を歩かせたままにしている自分も嫌だった。

 ボス部屋手前の通路は、記憶より静かだった。

 広い空間へ続く手前で、空気が重くなる。黒い石の壁は変わらない。床に古い血痕はない。倒したはずの敵の痕跡も、ほとんど残っていない。ただ、奥から来る気配だけが前より濃い。

 ゴブリンは、俺より前に立った。

 まるで、ここから先は自分が先に入る、と言っているようだった。

「今日は入らない」

 俺は言った。

 ゴブリンは振り返った。理解したのかどうかは分からない。ただ、俺が後ろへ下がると、少し遅れて同じように下がった。

 予定通りだ。一層のボス部屋手前まで。そこから先には入らない。管理されていない場所を見に来て、自分で無茶をするなら本末転倒にもほどがある。

 俺は来た道を戻った。

 ゴブリンは、やはり俺の前を歩いた。帰り道なのに前にいる。盾役というより、先導にも見える。通路の角、床の段差、天井から落ちた石片。そのたびに、俺より少し先に動く。俺が石を拾おうとすると、ゴブリンは前方を見たまま立ち止まった。

 何も言わない。

 声もない。

 けれど、こちらの動きだけは読んでいる。

 横道の入口が見え、外の暗渠の湿った匂いが戻ってきた。普通の水路の空気だ。車の音も、遠くで薄く聞こえ始める。境界に近づくほど、背中にまとわりついていた黒い石の冷たさが少しずつ薄くなっていく。

 俺が横道を出る手前で、ゴブリンは止まった。

 ついてこない。

 境界の内側、黒い石の通路の影に立ったまま、こちらを見ている。外へ出られないのか、出る気がないのかは分からない。ただ、そこから先には来なかった。

「……見送ってるつもりか」

 もちろん返事はない。

 俺はしばらくゴブリンを見た。敵意はない。だが、味方と呼んでいいのかも分からない。あれはゴブリンなのか。死体ではないのか。生きているのか。俺の中の白いものが、外側に置いた何かなのか。

 考えても答えは出ない。

 ただ一つだけ、分かることがある。

 暗渠の中に、俺が置いてきたものが増えた。

「今日はここまでだ」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 ゴブリンは動かなかった。

 俺は横道を出て、元の暗渠へ戻る。外の湿った空気を吸い、ライトを下げた。普通の世界の音が戻ってきても、さっきの視線は背中に残っていた。

 管理されていない場所を見に来た。

 間引きもした。

 ボス部屋には入らず帰った。

 予定通りのはずだった。

 なのに、暗渠の中には、予定になかったものが一つ残っている。

 俺は振り返らずに歩き出した。

 明日、もう一度来る。

 そう決めるまでに、時間はほとんどかからなかった。


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