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第42話 神隠しダンジョン4 ボス戦

広場へ足を踏み入れた瞬間、空気が少し重くなった。木々に囲まれた円形の空間。踏み固められた土。灰の跡。骨の欠片。奥に立つ大型コボルトと、その左右にいる小型二匹。

向こうは動かない。

大型コボルトは短刀を低く構え、鼻を鳴らしていた。普通のコボルトより一回り大きい。肩幅があり、腕も太い。黒に近い毛並みの奥に、筋肉の動きが見える。小型二匹は左右に広がり、こちらの動きを待っている。

警戒されている。

当たり前だ。俺はここに来るまでに十二匹倒している。両手にこん棒を持ち、背中にも一本差している。服には毛と血がついている。腰の袋には牙と魔石。自分で言うのも何だが、今の俺はかなり感じが悪い。

一匹目のコボルトみたいに、正面から石を投げれば終わる状況ではなかった。あいつらはもう、俺が何かを投げると分かっている。手元、肩、足の向き。全部見ている。

大型コボルトの目が、俺の右手を見た。次に左手。最後に背中。

見られている。

なら、見る場所を増やせばいい。

俺は息を吸った。鼻の奥に、獣臭と血と灰の匂いが入ってくる。コボルト三匹の匂いが、それぞれ別の線になって分かれた。大型は濃い。取り巻き二匹は軽い。緊張しているのか、汗の匂いが少し鋭い。

「さあ、行くぞ」

呟く。

その瞬間、頭の中で何かが切り替わった。脳内に冷たい液体が流れ込むような感覚。視界の端が少し沈み、中央だけがはっきりする。手の中のこん棒の重さ。ポケットの石。足裏の土。全部が一段、静かになった。

俺は左手のこん棒を、下から思い切り放り上げた。

こん棒は回転しながら高く上がる。木々に切り抜かれた丸い空を背景に、黒い影が跳ねた。

三匹の視線が、一瞬だけ上へ引かれる。

ほんの一瞬。

それで足りる。

右手のこん棒を握ったまま、左手はポケットへ落ちる。石を掴む。肩が回る。肘が走る。白いものが腕の奥を通り、指先まで力の線を引いた。

投げた。

礫が風を切った。音がした。小石の音ではなかった。弾丸みたいな、細く尖った音。

左側の取り巻きが気づいた時には、もう遅い。石はそいつの頭部に突き刺さるように当たり、毛と血を散らした。コボルトの体が後ろへ跳ね、足が地面から浮く。そのまま仰向けに倒れた。

大型と残った一匹が横へ跳ぶ。

そうするよな、普通は2射目を警戒しその場から動く。

俺はもう走っていた。背中の予備こん棒を左手で抜く。鞄のベルトに少し引っかかったが、力任せに引き抜いた。右手に一本。左手に一本。手元は二本に戻る。

倒れた取り巻きへ駆け寄り、右のこん棒を振り下ろす。

頭に当たる。潰れる。殺しきる。

横から、攻撃後の硬直を突くように残った取り巻きが来る。

俺の振り下ろしに合わせ、脇腹へ飛び込んでくる動き。速い。普通なら、今の姿勢から対応するのはかなりきつい。

だが、上から落ちてくる音があった。

さっき投げたこん棒だ。

回転しながら落ちてきたそれが、横から飛び込んできたコボルトの肩から背中に当たった。狙った、とまでは言えない。だが、そうなればいいとは思っていた。残った取り巻きが俺を狙うなら、この辺りに入ってくる。そういう位置へ投げた。

コボルトの体が一瞬止まる。

十分だった。

俺は振り下ろした右手のこん棒を、そのまま下から斜めに跳ね上げた。脇腹に入る。硬い毛皮の奥で、骨か内臓か、何かが潰れる感触。コボルトの体が横へくの字に曲がる。

左手のこん棒を上から落とす。

頭部に当たった。

二匹目も倒れた。

息を吐く。

取り巻き二匹。処理。

早かった。かなりうまくいった。うまくいきすぎたくらいだが、今は考えない。考えるのは後だ。

大型コボルトが、低く唸った。

広場に立っているのは、俺とそいつだけになった。

大型はすぐには来なかった。短刀を握り直し、腰を落とす。黒い毛の下で筋肉が動く。鼻を鳴らし、俺の匂いを読んでいる。こっちも同じだ。獣臭、血、灰、短刀の金属臭。大型の足元から、強い臭いが地面へ広がっている。

俺は右手のこん棒を握り直した。左手も同じ。地面には、さっき落ちたこん棒が転がっている。拾う余裕はない。背中の予備はもう左手の中だ。今の俺は二本。向こうは短刀一本。

武器の数だけなら、俺が勝っている。

腕の数は同じだ。

体格は向こうが少し上。

経験は知らない。少なくとも、こいつは雑魚ではない。

大型コボルトが動いた。

正面ではない。右へ回る。俺から見て左。短刀を低く構えたまま、円を描くように距離を詰める。鼻が利く。足場も分かっている。こいつは普通のコボルトと違って、ただ飛びかかってくるだけではなかった。

俺も動く。

正面を向ける。こん棒を上げすぎない。短刀相手に大振りだけでいくと、手首を切られる。分かる。分かるようになった。

踏み込みの前、匂いが濃くなる。

大型の汗。息。毛の奥の熱。

来る。

短刀が下から走った。

俺は右のこん棒で受けた。木に刃が食い込む。浅い。だが止まる。すぐ左のこん棒を振る。大型は頭を下げて避ける。毛先だけが揺れた。

速い。

でも見える。

大型の肩が沈む。次は体当たりに近い踏み込み。俺は半歩下がり、右足を引く。短刀が腹の前を通る。服が裂けた。皮膚の表面が少し熱い。浅く切られた。

血の匂いが混じる。

俺の血だ。

大型コボルトの目が細くなる。獲物の血を嗅いだ顔。

「調子に乗るなよ」

声が出た。

どっちに言ったのか、自分でも分からない。大型か、俺か。たぶん両方だ。

脳内の冷たさが、さらに深くなる。痛みが遠くへ押しやられる。体の奥から、白いものが筋肉へ薄く広がる感覚。足の裏、ふくらはぎ、腰、肩、腕。動ける。恐怖はない、まだ動ける。

大型がもう一度踏み込んだ。

今度は正面。短刀を低く、喉元ではなく腹を狙う軌道。俺は右のこん棒を縦に落として刃を弾く。木片が飛ぶ。短刀が横へ逸れる。左のこん棒を横薙ぎに振る。大型は腕で受けた。毛皮と筋肉の奥に当たるが、止まらない。

強い。

通常個体なら今ので折れていた。こいつは一歩下がっただけだ。

なら、押す。

俺は前へ出た。

自分から距離を詰める。大型の目が一瞬揺れた。やあ、追い詰められる経験はあまりないみたいだなあ。短刀では受けるに困るだろう。こん棒も本来は近すぎると扱いにくいが、俺のこん棒は短い。コボルト用だ。近距離で適正距離、重量がある分、あの刀身で受けるのは無理だろう。

右で肩を叩く。

左で肘を叩く。

大型が唸り、短刀を突き出す。俺はその手元に右のこん棒を押しつけた。刃が木に食い込む。完全には止まらないが、軌道が鈍る。左膝を踏み込み、左のこん棒を脇腹へ叩き込む。

重い手応え。

大型が歯を剥く。

短刀が俺の腕をかすめた。熱い線が走る。だが浅い。痛みはある。あるが、遠い。

俺は下がらない。「ははっ!なんだ!結構戦えるな‼俺!」

下がったら、短刀の間合いに戻る。こいつに距離を作らせたら面倒になる。だから押す。正面から。腕力と踏み込みと、二本のこん棒で。

大型コボルトが吠えた。

広場の空気が震える。左右の木の枝が揺れた気がした。威嚇。鼓舞。あるいは、単に怒っただけ。

俺はその吠え声の中へ踏み込んだ。

右のこん棒を振り下ろす。大型は短刀で受けようとした。刃と木がぶつかる。短刀の方が硬い。こん棒に深く食い込む。だが、それでいい。

俺は食い込んだまま、力任せに押した。

大型の腕が沈む。

左のこん棒を、空いた顎へ叩きつける。

鈍い音。

大型の頭が横へ跳ねた。牙が一本飛ぶ。黒い血が散る。

それでも倒れない。

強い。

また笑いそうになった。いや、笑っていたかもしれない。

レッドキャップとは違う。あれは理不尽だった。見えない刃だった。こいつは違う。速い。強い。危ない。だが、正面からぶつかれる。殴れば揺れる。押せば下がる。つまり、戦える。

大型が反撃する。短刀を捨てるように手首を回し、刃をこん棒から外す。低く身を沈め、牙で腕を狙ってきた。

噛みつき。

俺は左腕を引き、右のこん棒を横から口へ突っ込む。大型の牙が木に食い込む。噛み砕こうとする力で、こん棒が軋んだ。

すごい力だ。

だが、口が塞がった。

俺は左のこん棒を両手に近い勢いで振り上げる。肩と腰を回す。足元の土を踏み抜く。白いものが背中から腕へ走る。

振り下ろす。

大型のこめかみに入った。

頭が下がる。

もう一度。

今度は首元。

大型の膝が落ちた。

まだ動く。

短刀を持つ手が、地面を掻く。俺の足を狙っている。

「しつこい」

俺は短く吐いた。

右のこん棒は、噛みつかれて半分折れかけている。捨てる。地面へ落とす。大型の口から外れ、血と唾液で濡れていた。

左手のこん棒を持ち直す。両手で握る。

大型が顔を上げた。片目が潰れかけている。顎は曲がり、牙が欠け、毛皮に血が広がっている。それでも、まだこちらを見ていた。

こいつは、普通のコボルトではない。

大型。ボス。特殊個体。

吸う意味がある。

体の奥が、そう言っている気がした。

俺も同意した。

「終わりだ」

こん棒を振り下ろした。

頭部に当たる。

一度。

まだ。

二度目。

大型の体から力が抜けた。

広場が静かになった。

俺はしばらく、その場に立っていた。息が荒い。両腕が重い。腹と腕に浅い傷。痛みは遠いが、血の匂いははっきりする。自分の血と大型コボルトの血が、匂いの中で別々に分かれた。

倒した。

正面から。

小細工もした。取り巻き相手にはした。だが、大型相手は、最後は力で押した。殴って、押して、踏み込んで、潰した。

それが分かって、胸の奥が熱くなった。

俺は強くなっている。

そう思った。

思ってしまった。

その感覚は、もう否定しなかった。

右手の爪の間から、白い糸が伸びる。大型コボルトの死体へ向かって、迷いなく這っていく。通常個体はもう吸った。同じ種類を何体も吸っても、たぶん意味は薄い。だが、こいつは違う。大型で、短刀を持ち、群れの中心にいた。多分反応しているという事は別枠だ。

白い糸は大型の毛皮の隙間へ入り込んだ。死体が小さく震える。普通のコボルトよりずっと時間がかかった。毛皮の下を白い筋が走り、筋肉の形に沿って広がる。黒い血が薄くなり、輪郭が少しずつ曖昧になる。

吸収の間、俺は周囲を見ていた。静寂が辺りを包む中、勝った事実を再度噛み締める。ここまで来た、30代の人間が、何もかも諦めた自分が、変なおまけの助力もあるが、自身の選択によって。一つ、大きく深呼吸する。

広場の奥には、さらに細い道がある。木々の間へ続く獣道。匂いもある。まだ奥がある。このダンジョンはここで終わりではない。

行けるかもしれない。

そう思った。

だが、今日はここまでだ。

今度こそ、本当に。

十二匹とボス。取り巻き二匹。合計で、考えたくない数になっている。申請用の浅い探索としては完全にやりすぎだ。これ以上進んだら、報告書どころか俺の頭がおかしい証拠が増えるだけになる。

すでに十分おかしいという事からは目を逸らす。

大型コボルトの死体が崩れきった。

残ったのは、通常個体より一回り大きい灰色の魔石。大きな牙が二本。片方は途中で欠けている。そして短刀。

短刀は地面に落ちていた。柄は黒い骨のような材質で、刃は鈍い銀色。赤錆の山刀ほど嫌な気配はない。だが、ただの刃物ではないことは分かる。光の拾い方が、普通の金属と少し違う。

俺はしゃがみ込み、短刀を拾った。

軽い。

手に馴染む。

赤錆の山刀とは違う馴染み方だった。あれは、握った瞬間に嫌な道を教えてくるような武器だった。これはもっと単純だ。近くで刺す。切る。そういう道具。

「出せる刃物...うーん宝箱を見つけて手に入れたって事でいいかな。」

言ってから、少し笑った。

これは申告できる。少なくとも、ここで拾ったと言える。赤錆の山刀とは違う。こっちは表の荷物に入れられる。

俺は短刀を布で包み、袋の中へ入れた。大きめの魔石と牙も回収する。こん棒は帰りまで持っておいて入り口まで行ったらお役御免だ。

俺は広場の奥を見た。

先は続いている。

行きたい。

体の奥もそう言っている。

でも、俺は首を振った。

「帰る」

声に出した。

言葉にしないと、足が勝手に進みそうだった。

俺は入口の方向へ向き直る。来た道は、匂いで分かる。自分の足跡。倒したコボルトたちの血。落ち葉に残った踏み跡。二本の木へ戻る線。今なら迷う事なく帰れるだろう。

俺はこん棒を一本だけ持ち、袋を抱え直した。腹の傷は浅い。腕の傷はすでに血が止まっている。白いものが働いている。採血前に変な痕が残らないことを祈るしかない。

広場の中央で、一度だけ振り返った。

灰の跡。骨。踏み固められた土。さっきまで大型コボルトがいた場所。

ここは、申請用の浅い探索ではなかった。

少なくとも、もうそう呼ぶには無理がある。

俺は小さく息を吐いた。

「ちょっと申告内容を考える必要があるな」

誰も答えなかった。

俺は来た道を戻り始めた。

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