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第43話 申請

 帰り道は、思ったより簡単だった。鼻の奥に、自分の通ってきた匂いが残っている。踏み荒らした落ち葉、コボルトの血、折れた枝、自分の汗。ダンジョンに入る前なら絶対に分からなかったものが、細い線になって入口の方へ続いていた。便利だ。そう思って、それで終わった。

俺はこん棒を一本だけ持ち、袋を抱え、何度か後ろを振り返りながら林の中を戻った。追ってくる気配はない。大型コボルトを倒したことで、この辺りの群れはだいぶ片付いたのかもしれない。残りがいても、今は近づいてこないだけかもしれない。どちらにしても、今日の俺にはもう十分だった。

二本の木が見えた時、少しだけ息が軽くなった。外へ出られる。そう思った瞬間、胸の奥がまだ奥へ行きたがっているのも分かった。白いものだけではない。俺もだ。あの広場の奥、さらに続く獣道、まだ見ていない何か。そこへ進んだら何があるのか。

「帰るって言っただろ」

自分に言い聞かせるように呟いた。入口の少し手前で、持っていたこん棒を見る。血と唾液と毛がこびりついた木の塊。数時間前なら頼もしいメイン武器だったが、外へ持って出るには最悪だった。

「お役御免だな」

落ち葉の中へ押し込み、折れた枝と土をかぶせた。こん棒は現地調達で、現地処分。表向きにもそれで通せる。通せるはずだ。

二本の木の間を通る。空気が変わった。車の音が戻り、住宅街の犬が吠える声が聞こえた。遠くで自転車のブレーキ音が鳴り、誰かが玄関を閉める音がする。普通だ。あまりにも普通だった。さっきまで木の向こうでコボルトを何匹も倒し、大型の化け物と殴り合っていたのに、こちら側では夕方の住宅街が平然と続いている。世界のつなぎ目が雑すぎる。いや、雑なのは俺の方かもしれない。

その後の処理は、あまり考えたくないくらい現実的だった。近くのトイレで着替え、血のついた服は袋に入れる。短刀は布で包み、魔石と牙は小分けにしてバッグの底へ沈めた。帰宅にはまたタクシーを使った。自分の匂いが少し気になったが、幸い運転手には何も言われなかった。

家に着き、鍵を閉め、靴を脱いで部屋へ入る。そこまでやって、ようやく大きく息を吐いた。

「帰るまでが探索だ。帰ったから無事終了、ヨシ!」

声に出すと、急に実感が湧いた。帰ってきた。生きている。しかも、前より余裕がある。暗渠から戻った時は、体の中に白いものがいる事実だけで頭がおかしくなりそうだった。水門の後は、亀山と記録カードと通報のことで胃が痛かった。レッドキャップの後は、机の上に並んだ戦利品を見て、昨日の俺を殴りたくなった。

今日は違う。服を処分した。荷物を分けた。短刀を包んだ。魔石と牙を袋に移した。傷も確認した。手順として処理できている。

洗面所で服を脱ぎ、腹と腕を見る。腹の傷は、ほとんど線になっているだけだった。腕も同じだ。赤くなってはいるが、数時間前に短刀で切られた痕には見えない。

「すげえなこれ」

それが最初に出た感想だった。医療革命だとか、未知の寄生体だとか、人間をやめかけているとか、考えることはいくらでもある。だが、口から出たのはそれだった。鏡には、少し疲れた顔をした三十歳無職が映っている。普通に見える。少なくとも、さっきまでコボルトを殴り殺していた男には見えない。たぶん。自信はない。

「普通って、便利だな」

普通最高。うん。でも異常もあれはあれで最高だ。最高な物は何個あってもいい。かなり駄目な考え方になってきている気がしたので、深く追わないことにした。

手を洗い、戦利品を机の上に出す。小さな魔石。牙。大きめの魔石。大きな牙。短刀。スマホ。メモ。前みたいに全部を並べて頭を抱えることはしなかった。見るべきものだけを見る。

問題は短刀だった。赤錆の山刀は出せない。あれは暗渠とレッドキャップにつながる。説明できないし、説明したら終わる。だが、この短刀は違う。雑木林ダンジョンで手に入れたことにできる。大型コボルトから奪った、とは言わない。言う必要もない。

「宝箱で見つけました、で行くか」

宝箱というほど立派なものではない。広場の端にあった箱状のものから見つけた。そういうことにする。ダンジョンなら、そういうこともあるだろう。あると思いたい。大型を倒したなんて話を最初から出すより、ずっとましだった。名前と腕を売るのは、もう少し後でいい。身体調査より、ダンジョンに潜らせた方が有益だと思われるくらいになってからでいい。

俺はスマホを開いた。探索者制度のページを表示する。昼に見た時は、まだ事前入力だけだった。だが画面の上部に、新しい表示が出ていた。

『五級登録受付を開始しました』

来ている。制度が、本当に始まっている。下へスクロールする。本人確認。講習予約。緊急連絡先。健康確認。誓約書。活動歴。未確認異常空間への進入歴。採取物の有無。危険物の有無。画像・動画の添付。未確認入口の発見報告。

「全部あるな」

苦笑する。そりゃそうだとも思う。事前入力していた内容を開く。

未確認の異常空間と思われる場所に誤って進入。小型敵性生物と遭遇。素材らしきものを回収。制度開始に伴い申告希望。

前の文章では足りない。今回は小型敵性生物一体では済まない。魔石も牙も複数ある。短刀まである。かといって、単独で未確認ダンジョンに入り、コボルトを十数匹倒し、大型個体まで処理しました、と書くわけにもいかない。五級申請前の人間がやることではない。自分で言っていて駄目だ。

机の上の牙を見る。これだけあれば、敵性生物が複数いたことは伝わる。未確認入口の放置が危ないことも言える。問題は、なぜすぐ通報しなかったのかだ。

「失念、か」

口に出すと、かなり苦しい。未確認入口を見つけ、誤って中へ入り、敵性生物と遭遇し、採取物を確保した。帰宅後に制度ページを確認し、正式な報告手順を改めて確認した。そういう形にするしかない。

担当者はたぶん見抜く。こいつ、隠そうとしていたな。そう思うだろう。実際、そう見られても仕方ない。だが、制度の外で完全に隠すより、制度の内側へ入る方がましだ。向こうだって、今はそう考えるはずだ。未確認入口を全部押さえられていない。勝手に入る人間も、採取物を隠す人間もいる。全部を締め上げたら、誰も出てこなくなる。

会社員時代の嫌な感覚で考える。問題はある。注意もする。記録にも残す。だが、報告して管理下に入るなら、ひとまず受ける。今後は必ず報告しろ、と釘を刺す。そういう判断はあり得る。あってほしい。

申請ページへ戻る。本人確認は問題ない。緊急連絡先で少し止まり、既往歴、服薬状況、採血、講習、誓約書を確認する。死亡、重傷、行方不明、未知感染、身体変化。

身体変化。

その文字で、指が止まった。腹の傷はほとんど消えている。腕も同じ。見た目だけなら普通だ。採血でどうなるかは分からない。だが、今ならまだ間に合う。制度が始まったばかりの今なら、検査は浅い。問診と採血。未知寄生体検査なんて項目はない。後になれば増える。今、申請するしかない。

活動歴の欄にカーソルを合わせ、文章を直す。

未確認の異常空間と思われる場所に誤って進入。入口付近で小型敵性生物複数と遭遇。危険回避の過程で素材らしきものを回収。内部に箱状の残置物を確認し、短刀状の危険物を発見。制度開始に伴い、入口位置および採取物を申告希望。

大型個体のことは書かない。ボス部屋とも書かない。短刀は箱から出たことにする。苦しい部分はあるが、最初から全部を出すよりはいい。窓口で聞かれたら、そこで考える。考えるというか、演技する。

危険物あり。採取物あり。画像・動画あり。未確認入口あり。

どんどん逃げ道がなくなっていく。最後に、講習予約の画面が出た。五級登録の初回講習。最短の日付がいくつか並んでいる。場所は県内の合同庁舎と、臨時の講習会場。

本当に制度になっている。ニュースの中の話ではない。掲示板の祭りでもない。俺が名前と住所を入れ、採取物を持って行き、採血され、講習を受ける場所が、そこにある。

画面の下までスクロールする。確認ボタン。その先に、申請送信。指先は震えていなかった。それに気づいて、少しだけ怖くなった。怖くなったが、止まる理由にはならない。

確認ボタンを押す。画面が切り替わり、入力内容が並ぶ。氏名、住所、生年月日、緊急連絡先、活動歴、採取物あり、危険物あり、未確認入口あり。全部、俺の現実だった。

送信ボタンが下にある。押せば、俺は制度の内側へ向かう。押さなければ、外側のままだ。外側でじっとして助かる段階は、もう過ぎた。

「申請、できます」

画面の文言をそのまま読んだ。妙に事務的な言葉だった。だが、その事務的な言葉に、俺のこれからがつながっている。腹の傷はもう痛まない。腕も動く。体の奥の白いものは静かだった。静かすぎるくらいだった。

「じゃあ、行くか」

俺は送信ボタンを押した。


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