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第41話 神隠しダンジョン3 内申点

一体だけ。あと一体見たら帰る。

そう言った。

言ったのは俺だ。間違いなく俺だ。記憶もある。声に出した感触もある。なので、ここから先の言い訳はかなり苦しい。

だが、冷静に考えてほしい。

五級申請者が未確認ダンジョンに誤って入り、小型敵性生物一体と遭遇し、魔石と牙を一つずつ持ち帰りました。これだけだと、どうにも弱い。弱いというか、報告書として薄い。いや、命懸けで拾っている時点で十分濃いのだが、制度の中に潜り込むための材料として考えると、もう少し欲しい。

敵性生物の複数確認。痕跡の分布。入口からの距離。ドロップ品の傾向。

そういうものがあった方がいい。

つまり、これは必要な追加調査だった。

「内申点って、大事だからな」

誰も聞いていない林の中で、俺はぼそっと呟いた。探索者制度に内申点があるかどうかは知らない。たぶんない。だが、印象というものはある。申告内容が具体的で、採取物が複数あり、危険情報も付いてくる申請者。役所側から見れば、多少は扱いやすいはずだ。

多分。

そうであってほしい。

鼻の奥に残る獣臭を追って、俺は林の奥へ進んだ。嗅覚が強くなったというより、匂いの層が分かれる。落ち葉、土、樹皮、古い糞、獣の毛、血。コボルトが通った跡は、細い煙の筋みたいに感じ取れた。見えない道が、鼻の奥にだけ残っている。

便利だった。かなり便利だった。

ただ、便利すぎて油断すると、普通に罠へ向かって歩いていく可能性がある。獣臭の先に獣がいる。当たり前だ。鼻が利くようになったからといって、敵が消えるわけではない。

数分もしないうちに、二体目を見つけた。

木の根元にしゃがみ込み、何かをかじっている。背中の毛は灰色寄りで、さっきの個体より少し小さい。右手には石を括りつけた棒のようなもの。俺が近づく前に、そいつの耳がぴくりと動いた。鼻がこちらを向く。

気づかれた。

だが、遅い。

俺は左手で石を投げた。反射的に右手のこん棒を構えたが、使う前に石がコボルトの側頭部へ当たった。コボルトは横へ倒れ、すぐ起き上がろうとした。そこへ近づいて、こん棒を振り下ろす。

鈍い手応え。

頭蓋の硬さが、木の柄越しに手首へ返ってきた。もう一度振る。今度は動かなくなった。

「よし」

短く言った。

投石だけで済むならそれでいい。こん棒は近づかれた時の保険。そう考えていたが、使ってみると悪くなかった。悪くないどころか、かなりいい。人間用の道具ではない雑さが、逆にちょうどよかった。見た目も、ここで拾ったものとして筋が通る。現地武器。現地調達。現地処理。言葉にすると、かなり制度っぽい。

残ったのは小さな魔石と、牙が一本。牙は欠けていた。素材としては微妙だが、複数個ある方がいい。俺は袋に入れた。

ここで帰るべきだった。

二体分あれば、最初よりはずっといい。危険度の説明もできる。

だが、匂いはまだ続いていた。

しかも、少し濃い。

「群れ、だよなあ」

コボルトなら群れる。ファンタジー知識としてはそうだ。現実の野犬だって群れることがある。なら、この奥に複数いる可能性は高い。そこまで確認できれば、報告としてさらに強くなる。

さらに強くなる。

便利な言葉だ。

俺は進んだ。

三体目は、倒木の向こうにいた。投石で鼻面を潰し、近づいてこん棒で止めた。四体目は木の上から飛びかかってきた。匂いで気づけたので、横へ避けて背中を殴った。五体目は逃げようとした。逃げるなら追わなくてもいいはずだったが、逃げた先が奥へ続く匂いの筋と重なっていたので、結局追った。追って、石を当てて、倒した。

六体目あたりで、俺は左手にもこん棒を持っていた。

一本目のこん棒は右手。二本目は少し短いが、軽くて振りやすい。コボルトが持っていたものを拾った。折りたたみ傘は、もう完全に鞄の飾りだった。

七体目を処理した時点で、袋の中には小さな魔石が増えていた。牙も増えている。欠けたもの、短いもの、少し曲がったもの。素材として価値があるのかは分からない。だが、同種の敵性生物から似たものが複数出た、という記録にはなる。

八体目は少し危なかった。

匂いを追いすぎて、足元の根に引っかかった。体勢が崩れたところへ、横から飛び出してきたコボルトが噛みつこうとした。左手のこん棒を咄嗟に突き出し、口に噛ませる。牙が木に食い込む。右手のこん棒で横から殴る。さらに膝で押し戻し、もう一発。

動かなくなった後、俺はしばらく息を整えた。

「今のはよくない」

声が出た。

調子に乗っている。

それは分かった。分かった上で、魔石と牙を拾った。反省と回収は両立する。しない方がいい気もするが、今はする。

九体目、十体目は二匹同時だった。

木々の間から挟むように来た。普通に考えれば危ない。というか、十分危なかった。片方に石を投げ、もう片方をこん棒で受ける。噛みつきのために顔を近づけてくるのを、左のこん棒で押し、右で耳の横を叩く。石を食らった方が起き上がりかけたので、拾った小石を足元から蹴るように投げる。命中はしなかったが、怯ませるには足りた。

その隙に右のこん棒を振る。

倒す。

もう一匹へ向き直る。

鼻が利く。音も拾える。暗がりの輪郭も前より見える。体も動く。俺一人ではない。俺の中にいるものが、体の使い方をさらに整えている。さっき躓いた事をこいつも気にしているみたいだ。

十体目が倒れた時、俺は自分の呼吸が荒くなっているのに気づいた。疲れている。だが、動けないほどではない。怖さもある。だが、足を止めるほどではない。

十一体目は、俺を見るなり逃げた。

「逃げるのかよ」

思わず言った。

コボルトは振り返りもせず、林の奥へ走る。俺は追った。鼻が匂いを拾う。踏み跡を追う。木の間を抜ける。落ち葉が跳ねる。こちらの足音も大きい。逃げる敵を追うという行為に、妙な高揚があった。

追いつく前に、石を投げた。

背中に当たり、コボルトが転ぶ。近づいて、こん棒で終わらせる。

そこで、俺は一度立ち止まった。

「……十一?」

数を数え直す。

最初の一体。次の一体。そこから三、四、五、六、七、八、九、十、十一。

十一。

あと一体だけ、と言った男が、十一体倒している。

一体とは。

俺は袋の中を見た。魔石と牙がごろごろしている。多い。申請材料としては十分だ。十分すぎる。ここまで来ると、逆に「誤って入った」にしてはやりすぎではないかという問題が出てくる。

だが、ここで俺の中の何かが、奥を向いた。

匂いがある。

今までのコボルトより濃い匂い。毛、血、獣臭、木の煙のような焦げ臭さ。それに、複数の足跡。

「……十二で終わりにするか」

言った瞬間、自分でも信用できなかった。

十二体目は、倒すのに少し時間がかかった。小柄だが動きが速く、手には短い石刃を持っていた。こん棒ではない。外れだ。いや、敵の武器を当たり外れで見ている時点でどうかと思うが、今さらだった。

石刃を避け、右手のこん棒で腕を叩く。左手のこん棒で膝を打つ。転んだところへ、上から振り下ろす。

終わった。

吸収。魔石。牙。石刃は拾ったが、すぐに捨てた。刃としては粗く、持ち帰る価値は薄い。何より、こん棒がある。こん棒はいい。分かりやすい。殴ればいい。

俺は十二体目のこん棒ではなく、少し前に拾った予備の一本を背中に差した。鞄のベルトと紐でどうにか固定する。右手に一本。左手に一本。背中に一本。

両手にこん棒。背中にもこん棒。ポケットには石。袋には牙と魔石。体の中には寄生虫。

俺は立ち止まり、自分の姿を想像した。

「わりいごはいねえが」

低い声で言ってみた。

思ったより似合っていたので、黙った。

これはもう、五級申請者ではない。雑木林から出てきたら、通報される。いや、出なくても通報されるかもしれない。二本の木の向こうから、こん棒を二本持った男が現れたら、たぶん警察を呼ぶ。俺なら呼ぶ。

「落ち着け。これは現地調達だ」

自分に言い聞かせる。

現地調達なら仕方ない。仕方ないのか。分からない。少なくとも、赤錆の山刀よりは説明できる。説明できるという一点で、こん棒は偉い。

その時、匂いの筋が変わった。

細い獣臭が、一本の太い流れへ合流している。複数のコボルトが通った道。そこに、焦げたような臭いと、古い血の臭いが混じる。林の奥が少し開けている気配がした。音も変わる。葉擦れの反響が広がる。

俺は木々の間を抜けた。

そこは、広場だった。

洞窟のような閉じた空間ではない。天井もない。だが、周囲の木が円を描くように並び、枝が上で絡み合っているせいで、空だけが丸く切り抜かれていた。地面には落ち葉が少なく、踏み固められた土が露出している。中央には灰の跡と、骨の欠片。人間のものではないと思いたい。思いたいだけで、確認はしたくない。

ボス部屋。

そう思った。

水門の大型スライムがいた場所。暗渠の大柄ゴブリンがいた広間。形は違うが、空気が似ている。ここから先は、普通の林ではない。ダンジョンが「ここで戦え」と言っているような場所だった。

広場の奥に、大きなコボルトがいた。

他の個体より頭一つ大きい。肩幅もある。毛は黒に近く、首元だけ白い。右手には短刀を持っている。人間の短刀というより、獣が使うには妙にきれいな刃だった。拾い物か、ドロップ品か、あるいはこいつ用に用意されたものか。

その左右に、小型のコボルトが二匹。

大型一、小型二。

以前のゴブリンと同じ構成だ。あの時は、大柄ゴブリンと取り巻き二体。その背後からレッドキャップが現れて、全部めちゃくちゃになった。

今回は、レッドキャップはいない。

たぶん。

いてほしくない。

大型コボルトがこちらを見た。小型二匹も、鼻を鳴らして唸る。

ただ、気のせいでなければ。

三匹の顔が、少し引きつった。

視線は俺の顔ではなく、手元に向いていた。

右手のこん棒。

左手のこん棒。

背中のこん棒。

腰の袋から覗く牙。

服と軍手についた毛と血。

うん。

俺でも嫌だと思う。

大型コボルトが短刀を握り直した。小型二匹が一歩下がった。唸ってはいるが、さっきまでの個体とは少し違う。敵を見る目ではある。だが、獲物を見る目ではない。

「いや、違うんだよ」

俺は思わず言った。

何が違うのかは分からない。たぶん違わない。

体の奥が、めちゃくちゃウズウズしていた。入口を見つけた時より、コボルトを追っていた時より、ずっと強い。大型コボルトの匂い。短刀の匂い。広場そのものの匂い。奥にある何かの気配。吸収したい。倒したい。進みたい。そういう衝動が、背中の内側から押してくる。

そして俺も、同じ方向を見ていた。

ここまで来た。

十二体倒した。

魔石も牙もある。帰る理由は十分ある。

でも、ここはボス部屋だ。

ボス部屋まで来て、ボスを見て、帰るのか。

帰るのが正しい。正しいが、それは申請者の判断だ。探索者の判断ではない。いや、探索者でも撤退は大事だ。分かっている。分かっているが、ここで一体、いや一組倒せれば、得られるものがある。大型個体。短刀。さらに強い嗅覚か、身体能力か、何か。

「あー……仕方ないよなあ」

俺は両手のこん棒を握り直した。

「ここまで来ちゃったら、もう一体吸収する必要があるよなあ」

言い訳だった。

かなり雑な言い訳だった。

だが、体の奥の白いものはそれで十分らしい。疼きがさらに強くなる。足が前へ出る。

大型コボルトが低く吠えた。小型二匹が左右へ広がる。

俺は広場へ入った。

右手にこん棒。左手にこん棒。背中に予備。

申請用の浅い探索は、たぶん、もう終わっていた。


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