第411話 解除の条件
官邸の会議室で、相場総理は一枚目の資料を読み終えると、表紙を見たまま手を止めた。そこにあるのは、異常空間緊急事態宣言――今後の取扱いについて、という短い題名だった。
「これを議題に上げるところまで来ましたか」
相場が資料を置くと、官房長官が頷いた。
「解除を決める会議ではありません。解除を検討できる状態なのか、その確認からです」
「分かっています」
宣言を出した日のことは覚えている。
確認済みの異常空間は四十七か所。未確定通報はその倍を超え、警察も自衛隊も入口へ人員を貼り付けるだけで余力を削られていた。民間人が勝手に潜り、回収品を持ち帰り、入口の場所をネットへ載せる。止める手段も、制度の内側へ入れる仕組みも足りていなかった。
あの時に比べれば、今は随分変わった。
「危機管理監からお願いします」
「はい」
大型モニターへ全国地図が表示された。
「宣言発出時点との最大の違いは、入口を発見してから管理へ移すまでの経路が定型化したことです。自治体、警察、消防、異常空間管理窓口の役割分担も進みました。未申告入口についても、自己申告を促す運用がある程度機能しています」
以前なら、入口が見つかるたびに誰が現場を持つのかから決めていた。今は封鎖し、周辺を確認し、内部へ入った者がいるかを調べる。危険度を暫定評価した後、必要なら探索者や専門部隊へ繋ぐところまで手順になっている。
「登録探索者については?」
「人数だけで評価するべきではありませんが、浅層部の調査を行政だけで抱える状況からは脱しています。登録探索者団体も増え、装備、救護、契約、撤退判断まで含めて管理できる組織が育っています」
「行政が直接抱えなくていい部分が増えた」
「はい。ただ、後ほど触れますが、それを行政側の対応能力と同じものとして数えるべきではありません」
相場は資料の端を指で押さえた。
「ここだけ聞くと、解除しても良さそうに聞こえます」
「ここだけなら」
危機管理監は否定せず、次の画面へ切り替えた。中国、エクアドル、アメリカで発生したスタンピードについて、原因として疑われる行為、流出個体、人的被害、対応に要した戦力が並ぶ。
「宣言発出後、危険性が下がったとは評価できません。むしろ、当時想定していた最悪の一部が実際に発生しています」
防衛大臣が資料を見る。
「入口周辺へ大規模な攻撃を加えた場合の反応、人間の遺体を意図的に投入した場合の危険、地上へ流出する個体の規模。分からなかったものが減った代わりに、分かった危険が増えました」
「深層個体もあります」
「はい」
相場は椅子へ深く座った。
「つまり、安全になったから解除できる、という話にはならない」
「なりません」
国家公安委員長が引き取る。
「国内についても、無資格探索、違法労働、未申告入口の営利利用は発生しています。法整備によって対処手段は増えましたが、行為そのものは残っています」
「遺体投入への罰則も、必要がなくなったから作ったわけではありませんからね」
「その通りです」
危険の存在そのものは、もう誰にとっても新しい話ではなかった。会議で問われているのは、その危険をいつまで「緊急事態」として扱い続けるのかだった。
「一つ確認したい」
相場は資料を閉じた。
「宣言を解除すると、何が止まりますか」
法制担当が用意していた資料を開く。
「現在の主要な制度の多くは、すでに宣言そのものへ依存しない形へ移されています。探索者登録、異常空間への入域管理、回収品の申告、武器管理、未申告入口への対応、無資格探索への罰則などは、解除後も維持可能です」
「では、宣言を残している実務上の理由は」
「一部の省庁間調整、予備費運用、緊急指定に基づく人員配置、自治体への優先支援などです。ただし、恒久制度へ置き換えられるものも増えています」
官房長官が口を挟んだ。
「逆に言えば、宣言を維持しているから残っている仕組みもあるということです」
「それを先に整理する必要がある」
「はい」
解除という言葉だけなら簡単だった。会見で発表し、その日を境に終わったと伝えることもできるが、宣言を出した時には、その下へ人員と予算と権限を押し込み、通常なら別々に動く組織を無理に繋いだ。外すなら、その代わりを先に用意する必要がある。
「世論はどう見ていますか」
広報担当が答える。
「緊急事態宣言という呼称そのものへの関心は、発出当初よりかなり低下しています」
「慣れましたか」
「異常空間が日常側へ入った、と見る方が近いかと」
ニュースでは毎日、探索者の活動が流れる。
企業はダンジョン素材を扱い、大学は研究し、自治体は入口の管理をする。登録探索者団体への加入や移籍まで、今では一つの業界の話として扱われ始めていた。
「一方で、解除と聞けば『安全になった』と受け取る層は相当数いると予想します」
「そこですね」
相場が言った。
「中国も、エクアドルも、アメリカも見た後で、日本政府が安全宣言を出したように見えるのは困る」
「表現はかなり慎重にする必要があります」
「解除するなら、理由は逆でしょう」
何人かが相場を見る。
「危険がなくなったから終えるのではない。危険があることを前提に、通常の行政として扱えるところまで来たから終える」
危機管理監が頷いた。
「緊急対応から恒久管理への移行、という整理です」
「そうです」
防衛大臣が腕を組んだ。
「私は方向性には賛成です。ただ、解除するなら再発出の基準を先に作りたい」
「どうぞ」
「国内で大規模流出が発生した場合は当然として、入口数や流出個体数だけでは足りません。複数自治体への影響、自衛隊の大規模投入、通常の探索者制度では処理できない深層個体。その辺は組み合わせて見る必要があります」
防衛大臣は資料を一枚めくった。
「もう一つ。今まで確認されていない種類も条件へ入れておきたい」
「未確認の事象をですか」
「時間に猶予がないものです」
モニターには、異常空間から流出が始まった後、時間の経過に伴って規模が拡大し、さらに危険な個体へ移行していく仮定図が表示された。流出拡大と個体変化の部分には、現時点で確認されていない想定であることを示す『仮定』の文字が付いている。
「たとえば、発生後の一定時間以内に何らかの条件を満たさなければ、流出が次の段階へ移行する。あるいは時間経過そのものによって個体数、個体の質、影響範囲が急激に悪化する。そういうスタンピードが存在する可能性は、現時点では否定できません」
「確認例は」
「ありません」
「なら、再発出条件に書くのは早くありませんか」
法制担当の問いに、防衛大臣は首を振った。
「発生してから条件を作る時間がない種類だから、先に用意したいんです」
相場は画面を見ながら、これまでの三件を思い返した。発生経緯も進行もそれぞれ違っており、次のスタンピードまで既知の形に収まると考える理由はなかった。
「時間依存型、とでも呼びますか」
危機管理監が尋ねる。
「正式名称は後で構いません。時間依存型でも段階移行型でもいい。ただ、その名称だけを条件へ入れるのは避けたいですね」
「定義した型から少し外れたら適用できなくなりますからね」
法制担当が資料へ書き込みながら答えた。
「なら、『時間経過に伴い危険度が急激に増大するスタンピード、これに類する又はこれに匹敵する異常事態』程度まで広げますか」
防衛大臣が頷く。
「そのくらい欲しいです」
「広すぎませんか」
国家公安委員長が口を挟んだ。
「何でも緊急事態にできる文言にも見えます」
「ですから、単独で自動発出にはしません」
危機管理監が整理する。
「国内で時間依存型または段階移行型と判断されるスタンピードが確認された場合、あるいはそれに類する又は匹敵する事象によって、通常体制では被害拡大を防止できない蓋然性が高い場合。これを、即時に再発出を検討する基準の一つとする」
「発出そのものではなく、即時検討へ入る基準ですか」
「はい。被害が一定数を超えるまで待つ条件にはしません」
相場が頷いた。
「それがいいでしょう。時間が条件に入る災害なら、被害が出揃ってから判断したのでは遅い」
「未知の類型にも対応できます」
「ただし、何をもって『匹敵する』とするかは詰めてください。現場判断だけで好きに広げられるものにはしないように」
「了解しました」
国家公安委員長も続いた。
「警察側からは、未申告入口の把握率を解除条件に入れることには反対します」
「理由は」
「分母が分かりません。国内に入口が何か所存在するのか完全には把握できない以上、何%把握したという数字を作れません」
「確かに」
「代わりに、通報から初動までの時間、未申告入口が発覚した際の対応能力、登録探索者団体や指定管理者へ引き継げる割合など、処理能力で見るべきです」
相場は手元の余白へ書き込んだ。
「危険がどれだけ残っているかだけではなく、危険が出た時に処理できるかを見る」
「解除判断としては、その方が現実的です」
厚生労働省からは救急搬送と未知の身体変化への対応体制が挙がり、経済側は回収品流通の追跡と指定希少品の管理を確認項目へ加えた。自治体についても、入口発見時の住民避難や封鎖に加え、学校や病院が関係した場合に代替施設をどう確保するかまで調査することになった。宣言を解除した翌日から、そのまま必要になる仕事ばかりだった。
「こうして見ると」
官房長官が資料をめくった。
「解除の検討というより、非常時に作った仕組みをどこまで平時へ移せたかの棚卸しですね」
「それでいいと思います」
相場が答える。
「解除することを目標にはしないでください」
何人かの手が止まった。
「解除できる状態なら解除する。できなければ残す。そのために条件を調べる。順番を逆にしないように」
「期限は設けますか」
「検討期限は設けましょう。解除期限は設けません」
危機管理監が記録へ入れる。
「各省庁に、宣言依存の措置と恒久制度へ移行済みの措置を整理させます。自治体側にも現在の初動能力を確認します」
「自衛隊と警察の余力も見たいです」
「入れます」
「登録探索者団体については?」
「行政が依存しすぎていないかも含めて確認します。民間へ任せられる仕事が増えたことと、民間がいなければ何もできないことは別ですから」
相場はそこで頷いた。
「それでお願いします」
会議は解除を決めずに終わり、解除できる状態かを調べることと、解除後に何が起きれば再び非常時へ戻すのか、その両方を先に用意する方針だけが決まった。会議室を出る前、官房長官が資料をまとめながら相場へ声を掛ける。
「発出した時は、終わらせ方まで考える余裕はありませんでしたね」
「ありませんでした」
「今はありますか」
相場は少し考えた。
「考える余裕ができた、ということ自体は前進でしょうね」
廊下の先では、次の会議を待つ職員が資料を抱えている。異常空間が消える予定はなく、モンスターも探索者も登録探索者団体も研究も、これから先の行政課題として残り続ける。それなら、いつまでも始まった日の体制をそのまま使い続ける理由はない。
「まずは条件を出しましょう」
相場は資料を持ち直した。
「終わらせられるかどうかは、それを見てからです」




