第407話 まだ出しません
三社へ別々の言葉を返してから五日目、槙野の前には二つの資料が並んでいた。
一つは、すでに確認した『既存契約の範囲を基準として』という文言が別会社から戻ってきた経路。もう一つは今朝届いたもので、別の取引先へ送った『現在の取引実績を基準に調整』という言い回しが、業界内の営業資料へほぼそのまま使われていた。
「二本目ですか」
事務担当が向かいの席から資料を覗き込む。
「二本目ですね。こっちは一つ目と違うところを通ってます」
「最後は?」
「同じところへ近づいてます」
槙野は端末上で二つの経路を見比べた。最初の情報はANVILの取引先から仲介会社へ渡り、その仲介会社がアビス・ラインの提携企業と取引していた。
今回の方は別の販売会社から共同研究先を経由している。途中の会社は重ならないが、最終的に問い合わせを出していた企業を追うと、やはりアビス・ラインの提携企業と継続取引のある会社へ行き着いた。
「これなら、もうあそこだって言っていいんじゃないですか?」
「かなり近づきましたけどね」
「まだ駄目?」
「情報を集めていることと、峰岸さんの指示で集めていることは別ですから」
「そこ、まだ分けるんですね」
「分けないと、後で自分たちが困ります」
提携企業が競合相手の供給状況を知りたがること自体は珍しくない。高階層素材の取扱量が今後の製品開発へ直結する時代なら、なおさらだった。
気に入らないからといって、その全部を工作と呼ぶわけにはいかない。
「それより、こっちです」
槙野はもう一つの画面を開いた。
「昨日相談に来た所属者からです」
表示されているのはアビス・ライン側から届いた勧誘文面だった。
『ANVILでは他団体との深層合同探索について運営側の許可が得られにくく、本人の希望だけでは参加できない場合があると聞いています』
事務担当が読み終わり、眉を寄せた。
「これ、違いますよね」
「違います」
「前の『深層攻略機会が限られると思われます』より踏み込んでますね」
「ええ。こっちは訂正してもらいます」
他団体との合同探索に必要な手続きはあるが、ANVILが所属者の参加を一律に制限している事実はない。案件ごとの安全性や契約条件を確認することと、運営が本人の意思を無視して止めることは別だった。
「誰が送ったか分かります?」
「アビス側の人材担当名義です。峰岸さん本人ではありません」
「またそこですか」
「またそこです」
槙野は峰岸との録音ファイルも同じフォルダへ入れ、ここまで集まったものを画面上へ並べた。
峰岸がANVILによる囲い込みを示唆した録音があり、その直後から移籍勧誘が増えている。今回は事実と異なる内容を含む勧誘文まで出てきたうえ、企業側ではANVILの取引情報を辿るような動きも確認されていた。
並べれば、それなりに嫌な絵にはなる。ただ、その絵を自分で完成させる必要はなかった。
「連絡しますか?」
「します。二か所に」
「アビスと会社?」
「はい。混ぜると逃げ道まで一緒になるので、別々に聞きます」
最初に連絡したのは、アビス・ラインだった。
受付を通して運営側へ繋いでもらい、今回の文面を送る。数分待つと、峰岸本人が出てきた。
「俺だ」
「槙野です。お時間ありがとうございます」
「今度はそっちからか」
「ええ。確認したいことがありまして」
「例の奴の気が変わった?」
「残念ながら、その話ではありません」
槙野は勧誘文面の該当部分を読み上げた。
「この内容、アビス・ラインとして確認済みですか?」
「人材担当が送ったもの全部まで俺は見てない」
「では、確認をお願いします」
「何が問題なんだ。お前のところが深層攻略を中心にしてないのは事実だろ」
「そこではありません。他団体との合同探索について、ANVIL運営の許可が得られにくいという部分です」
「似たようなもんだろ」
「違いますよ」
「随分細かいな」
「勧誘される本人にとっては重要です」
電話の向こうで峰岸が黙った。
「移籍の勧誘そのものを止めてほしいとは言いません。実際、そちらへ移ると決めた所属者もいますし、こちらも手続きを進めています」
「……移る奴がいるのか」
「いますよ」
「止めなかった?」
「どうして止めるんです?」
前回と似た沈黙になった。
「ですから、勧誘は好きにしてください。ただ、ANVILについて事実と違う説明はしないでいただきたい」
「俺が書かせたわけじゃない」
「それなら簡単ですね。内部で訂正してください」
「命令する気か?」
「お願いですよ。対応いただけない場合はこちらでも、所属者へ事実関係を説明する必要が出てきます」
「好きにすればいい」
「そうさせていただきます」
槙野はそこで一度画面へ目を落とした。
「もう一点。先日の会話についてですが」
「何だ」
「録音は現在も保管しています」
数秒、返事がなかった。
「……それが?」
「何もなければ、そのまま保管して終わりです」
「脅しか?」
「まさか。峰岸さんも、周囲へ今回の経緯を正確に説明すると仰っていたでしょう?」
電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
「私も必要になった場合、正確なものを出せるようにしているだけです」
「好きにしろ」
「そうならないのが一番です」
通話を終えると、事務担当が何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「何です?」
「いや……録音あるって言いましたね」
「ありますからね」
「公開するんですか?」
「今はしません」
「今は」
「出さない方が使えます」
次は企業側だった。
アビス・ラインの提携企業へ直接連絡し、ANVIL側の取引情報について確認したいことがあると伝える。相手側から出てきたのは営業ではなく管理部門の担当者だった。
「弊社の取引情報が、複数の経路を通って御社と取引のある企業へ届いていることを確認しています」
『弊社が情報を取得したという意味でしょうか』
「そこまでは申し上げていません」
『では、何のご連絡ですか』
「確認とお願いです。こちらから特定の取引先へだけ伝えた文言が、別経路から二種類戻ってきています。その経路上に、御社または御社と継続的な取引を持つ会社が複数確認できました」
相手の返答が少し遅れた。
『それだけで弊社との関係を示すのは難しいのでは?』
「その通りです」
『……では』
「ですので、責任を問う連絡ではありません。御社内でANVILの供給量、供給元、未公開素材について外部調査を依頼している部署があるか、一度確認していただけませんか」
『弊社にも市場調査を行う自由はあります』
「もちろんです。競合情報を調べること自体へ文句を言うつもりはありません」
槙野は机の上の二枚を見た。
「ただ、こちらも取引先ごとにどの情報がどこへ流れたかを確認しています。今後、契約上共有していない情報まで外へ出るようなら、こちらも取引経路を見直さなければなりません」
『それは弊社への圧力でしょうか』
「御社との取引を止めるとも、何かを公表するとも言っていませんよ」
自分で言いながら、昨日の峰岸との会話を思い出した。
「可能性の話です」
向かいの事務担当が口元を手で隠した。
『……社内で確認します』
「ありがとうございます。こちらも何か分かれば共有します」
通話を切る。
「今、峰岸さんと同じことしました?」
「してませんよ」
「最後のところ」
「気のせいです」
「絶対わざとですよね」
「さて」
槙野は二つの連絡内容を記録へ残し、これまでの資料と一緒にまとめた。
こちらから出した要求は多くない。アビスには事実と違う勧誘文を訂正してもらう。提携企業には、自社や関係先がどこまでANVILの情報を集めているのか確認してもらう。
どちらにも、勧誘をやめろとも、市場調査をやめろとも言っていない。
「これで止まりますかね」
「止まってくれたら楽ですねえ」
「止まらなかったら?」
槙野は峰岸の録音ファイルと、二本の情報経路を確認してから画面を閉じた。
「その時は、今日より出せるものが増えているでしょう」




