第400話 もう一本
駐車場へ戻る途中、戸張はさっきの男とのやり取りを頭の中で繰り返していた。一人なら何とかなった。
向こうの関心がほとんど師匠へ向いていたことも大きい。サチへ来た質問は一つだけで、俺が答えれば済んだ。本人も頭を下げたり首を振ったりして、会話へ入らずにやり過ごせている。
問題は、相手が二人、三人と増えた時だ。
一人が師匠を見て、もう一人がサチを見る。別々に話しかけられれば、俺が全部引き受けるのも不自然になる。今のマスクがどの程度まで人の目を誤魔化せるのかも、近くから複数人に見られれば話が変わる。
サチ本人がどこまで周囲へ合わせられるかも確認したい。さっきは教えていないところで頭を下げたので、俺が思っているより、かなり見て覚えているのかもしれない。
師匠にも別の問題がある。人間相手なら巨大な犬で押し通せたが、犬相手だとどうなる。師匠自身は何もしないだろうとしても、向こうが吠える、怯える、興奮する、飼い主を引っ張って近づいてくる。その辺は俺にも予想がつかない。
車が見えてくると、駐車スペースにはさっきの男が乗ってきたらしい軽自動車が一台増えていた。他に人影は見えない。
師匠を先に後部座席へ乗せ、サチには助手席へ座ってもらう。俺も運転席へ入り、ドアを閉めた。
「初回としては上出来かな」
サチがこちらを見る。
「外に出られたし、人とも話せた。次はもうちょっと人がいるところだな」
後部座席を見ると、師匠はもう伏せている。
「師匠は犬に会ってみたいですね」
耳だけがこちらへ向いた。
「向こうがどうなるのか見たいだけですけど」
そのまま目を閉じたので、別に構わないらしい。俺はエンジンをかけて車を出した。
来た道を戻り始めると、サチは行きと同じように窓の外へ顔を向けた。ただ、見るものは少し変わっていた。
山の斜面が途切れればそちらを見る。道路脇に家が出てくれば、庭や停まっている車へ顔を向ける。対向車が通る時には、その動きを追って反対側まで顔が動いた。
ダンジョンの中にも文明が関わったような構造物はある。
小人の集落もあるし、九層にはあの巨大な墳墓まであった。けれど、道路沿いに家が並んで、電柱から線が伸び、その前を車が走っている景色は向こうにはない。
俺には見慣れすぎて、どれが珍しいのか分からない。
信号で止まった時、サチが正面を見た。車道側も隣の歩行者用信号も赤になっている。
しばらくすると車道側が青へ変わり、前の車が動き出す。俺もアクセルを踏むと、サチが信号を振り返った。
「信号、知らない?」
こちらを見て、少し首を傾げる。
「赤で止まって、青で進むやつ」
サチは前方へ顔を戻した。次の信号は青だった。
説明としては雑だが、今日は交通ルールを教える日でもない。そのうち必要になったら覚えてもらえばいい。
山を下り、行きに寄ったパーキングエリアが近づいてきたところで思い出した。
「あ」
サチがこちらを見る。
「約束してたな」
何のことか分からなかったらしく、そのままこちらを見ている。
「アイス」
顔が少しこちらへ寄った。
「はいはい、寄りますよ」
ウインカーを出してパーキングエリアへ入る。
行きより車は増えていた。大型車も二台停まっている。
できるだけ端へ停め、サチと師匠には車内で待ってもらう。売店へ入って冷凍ケースまで行き、同じアイスを取ろうとして手を止めた。
種類が結構ある。同じものでいい気はするが、せっかくなら別の味でもいい。とはいえ本人がここにいない。
「……まあ、約束はもう一本だしな」
最初と同じものを一本取った。
ついでに俺の分も買うか迷い、やめる。
車へ戻って袋を持ち上げると、サチの顔がすぐそちらへ向いた。
「はい」
包装を開けて渡すと、サチは受け取ってすぐ手袋をずらした。
「早いな」
アイスの先が白い手首へ触れ、そのまま沈んでいく。行きの時より明らかに速い。
半分ほどで一度手を止め、サチがこちらを見る。
「一気にいくと勿体ない?」
首を傾げた。
「冷たい?」
今度も同じだった。俺には分からない理由で止まっただけかもしれない。
「まあ、好きに食べて」
残りも手首へ沈み、棒だけになったものを俺が受け取って袋へ戻す。
「他にも種類あったから、次は選ぶか」
サチがこちらを見る。
「売り場に一緒に行ける時があればだけど」
そこで、サチの顔が売店の方へ向いた。ガラス越しに人が出入りしている。
しばらくそちらを見てから、また俺を見る。
「今日はやめとこう」
頷いたので、次はああいう場所へ近づくところから試してもいいかもしれない。
店内まで入る必要はない。まずは何人かが同時にいる場所で、俺たちの方を見られた時にどうなるか。
サチが一人の視線だけでなく、複数人の動きへ自然に反応できるか。俺が誰かと話している最中に別の人から声を掛けられても、慌てず今みたいに合わせられるか。
師匠については、人間から見れば珍しい大型犬で済むとしても、犬から見た師匠がどうなのか分からない。
「じゃあ帰るか」
車を出してしばらく走ったところで、後部座席から身体を起こす気配がした。ミラーを見ると、師匠が窓の外へ顔を向けている。
道路沿いの家の前を、小型犬を連れた人が歩いていた。
師匠の耳が前へ向くと、小型犬の方もこちらの車へ顔を向けた。通り過ぎる一瞬だけだったが、飼い主より先に反応していた気がする。
「師匠、今の分かりました?」
ミラー越しにこちらを見る。
「次、犬がいるところ行ってみますか」
師匠は窓の外へ顔を戻し、サチも後ろを振り返っていた。拒否された感じはしない。
「次はもう少し人がいるところ。師匠は犬もいるところだな」
サチが前へ向き直って頷く。
人混みまで行く必要はない。散歩に来る人が何組かいる公園くらいならちょうどいい。人の数も増えるし、犬を連れている人もいる。何かあれば車へ戻れる場所を選べばいい。
一人を相手にできたから、次はその程度で試して、問題が出たところを考え直す。
暗渠へ戻ったのは、日が傾き始めるより少し前だった。
車を停め、周囲を確認してから師匠を降ろす。サチも助手席から降り、俺の後ろについて入口へ向かった。
今度は境界の前で止まらない。師匠が先に入り、サチもそのまま続く。
俺も暗渠へ戻ってから振り返ると、サチが入口の方を見ていた。
「あと一回テストしてから本番だな」
こちらへ顔を向けて頷き、それから自分のサングラスへ手を掛けて外した。




