第399話 外のもの
湖へ続く道は、途中から舗装が途切れていた。踏み固められた土の両側に草が伸び、ところどころ木の根が浮いている。湖へ向かって緩く下っているせいか、さっきより湖面が近くなっていた。
俺の右をサチが歩き、左側を師匠が歩く。リードを持っている必要があるのかと少し思う。
師匠は俺よりよほど行儀がいい。先へ走り出すことも、草むらへ急に入ることもなく、歩幅までこちらに合わせていた。
ただ、外すわけにもいかない。山の中で巨大な白い狼を放して歩いている男と、きちんとリードを付けて散歩している男では、見た側の受け取り方がかなり違う。
「師匠、窮屈だったらすみません」
こちらを見上げ、尾の先が一度だけ動いた。気にするな、と言われた気がする。
サチは少し前から足元を見ていたので、何かあるのかと視線を追う。
細い影が草の上を動き、すぐ近くへ止まった。青いトンボだった。
サチも足を止める。トンボが飛ぶと顔がそちらを追った。
数メートル先の草へ止まると、また歩き出して近づいていく。逃げられれば止まり、別の草へ移ればまたそちらへ向かう。
「サチ」
呼ぶと振り返った。
「置いてくぞ」
一瞬こちらを見たあと、もう一度トンボを見る。それから俺のところまで戻ってきた。
「捕まえるか?」
サチは首を傾げた。そういう発想はなかったらしい。
考えてみれば、向こうにも虫はいくらでもいた。六層の森だけでも種類は多い。
ただ、こっちの虫を見るのは初めてになる。同じようなものに見えるのか、別物だと分かっているのか。
湖岸まで下りると、道の脇に古い木製のベンチがあった。
「ちょっと座るか」
サチは普通に腰を下ろし、師匠はその前へ伏せる。
俺も隣へ座り、持ってきた水を飲む。朝から動き回っている割には、サチと師匠に合わせて歩いているせいか汗はそれほど出ていない。
サチは湖を眺め、師匠は伏せたまま鼻を動かしている。俺だけ水分補給を済ませ、しばらくそこで休んだ。
もう少し先まで歩くことにしてベンチを離れ、岸沿いの道を曲がったところで師匠の耳が動いた。俺も少し遅れて車の音に気づく。
駐車スペースの方からだ。
「サチ、こっち」
呼ぶ前から動いていた。俺の横まで寄り、半歩ほど後ろへ入る。サングラスにも触れ、ずれていないことを確かめた。
教えた通りだ。
師匠のリードも短く持ち直す。戻るか迷っているうちに、道の向こうから一人の男が歩いてきた。
年齢は六十前後だろうか。つばの広い帽子を被り、片手に折り畳み式の椅子、もう片方に釣り竿を持っている。
男はこっちを見ると、すぐ師匠へ視線を移した。歩く速度が少し落ちる。
「おお、でかいなあ」
ですよね。
「こんにちは」
「こんにちは。随分立派だねぇ、散歩かい?」
「一応」
一応と言ってしまった。
男が師匠を見る。
「ウルフドッグ?」
「その辺が入ってるミックスです」
「へえ、何とだろうね、グレートデーンとか?」
納得したのかしていないのか分からない声だった。
師匠は俺の隣で座ったまま男を見ている。吠えもせず、威嚇する様子もない。
「大人しいねえ」
「かなり」
「触っても?」
「あー、すみません。人に触られるの慣れてなくて」
「ああ、ならやめとこう」
あっさり引いてくれたので助かった。男の視線が一度だけサチへ向く。
「娘さん?」
一瞬、返事が遅れた。
「親戚の子です」
サチが軽く頭を下げる。
「ああ、ごめんね。静かなとこ邪魔しちゃったな」
サチは首を横へ振った。
「じゃ、ごゆっくり」
「どうも」
男はそのまま湖岸の別方向へ歩いていった。少し距離が開いてから、ようやく息を吐く。
「……いけたな」
サチがこちらを見る。
「いや、今のはかなり上手かった」
頭を下げたところまで教えていない。どこで覚えたのかは分からないが、結果としては助かった。
師匠は座ったまま、去っていく男の背中を眺めている。
「師匠も完璧でした」
尾が地面を一度叩いた。褒められて当然らしい。
俺はリードを持ち直す。
「そろそろ戻ろうか。人も来たし」
サチは少しだけ湖を見る。帰りたくない、とまでは伝わってこない。ただ、すぐには動かなかった。
「また来ればいいよ」
こちらへ顔を向ける。
「次は別のところでもいいし」
数秒そのままでいて、サチが頷いた。師匠が先に立ち上がったので、俺たちも駐車場へ向かう。
途中、さっきのトンボがまた道の上を横切ると、サチの顔がそちらへ動いた。今度は追いかけず、そのまま俺の横を歩いていた。




