第398話 外へ
鏡の前に立つサチを見ながら、戸張は腕を組んだ。ここまでやれば、人間には見える。たぶん。
耳まで覆うリアル系のシリコン製マスク。その上から被せた黒髪のカツラ。目の位置には人工の眼球が収まっているが、瞬きをしてくれるほど都合のいい品ではないので、その上から大きめのサングラスを掛けている。
首から下も徹底した。上は薄手の長袖ラッシュガード。下は同じような素材の黒いレギンスに、膝丈のハーフパンツ。足首は靴下とスニーカーで隠し、手には薄手のUVカット手袋を着けてもらった。
真夏にしては露出が少ないものの、日焼け対策と言われれば通る格好にはなったと思う。日焼け止めは、と聞かれたら肌が弱いで押し通す。
問題は、そこまで詳しく聞いてくる人間が現れた場合だ。
「サチ、ちょっとこっち向いて」
呼ぶと、サチが顔を向ける。黒い髪が肩から落ち、サングラスの奥に作り物の目が見えた。
「……うん」
遠目ならいける。近くでじっくり観察されると厳しい。表情が変わらず、瞬きもしない。シリコンの口も開かないので、会話を始められた時点で面倒になる。
俺の近くにいてもらうしかない。
「人が来たら、俺の近くに。何か聞かれたら、頷くか首を振るくらいでいいから」
サチが一度頷いた。
「あと、サングラスは取らない」
もう一度頷く。返事が素直すぎて、逆に少し不安になる。
本人も外へ出たいのだから協力してくれるとは思っていたが、こちらが言うことを片っ端から受け入れている。嫌なら寄生体側から何かしら反応が来るだろうし、俺だけでは拾えない変化も、今は体内の寄生体に任せてある。
サチに繋がった側で大きな違和感や拒絶が出れば、こちらへ知らせてもらう。それで全部分かるとは思っていないが、今できる確認としてはそれくらいだ。
その横へ視線を移すと、師匠が座っていた。
真っ白な毛並みの巨大な狼。サチに比べれば隠すものは何もない。その結果、もっと目立つ。
「師匠」
耳がこちらへ向く。
「今日は犬ということでお願いします」
師匠はしばらく俺を見たあと、ゆるく尾を振った。分かっておるよ、安心せい。言葉が聞こえたわけでもないのに、そんな感じがする。
「助かります」
首輪だけでは心許ないので、大型犬用のハーネスも用意した。そこへ太めのリードを繋ぐ。師匠は装着中も大人しくしていて、足を通す時だけ自分から少し持ち上げてくれる。
「……犬慣れしてますね」
師匠がこちらを見た。
「すみません」
俺はリードを握り、サチにも目を向ける。
「じゃあ、行くか」
暗渠の入口へ向かった。
最初に俺が外へ出て、続いて師匠。最後にサチが境界へ足を掛ける。
何か起こるならここだと思っていた。
サチの足が境界を越える。そのまま二歩、三歩進んだところで止まった。
「サチ?」
こちらへ顔を向ける。体内から伝わってくる感覚を探ったが、大きな異常は届いてこない。
サチは自分の腕を見て、手袋をした手を開き、閉じる。それから顔を上げた。暗渠の外には、雲の少ない夏の空が広がっている。
しばらく見上げてから、サチが俺を見た。
「……出られたな」
頷いた。
師匠は鼻先を上げて外の匂いを嗅いでいる。こちらも普段と変わった様子は見えない。
境界を越えた時点で倒れるとか、突然何かが変わるとか、その辺まで一応考えていた。何も起こらないなら、それが一番いい。
俺は車の後部ドアを開ける。
「まず移動します。ここで長居して誰か来ても困るんで」
師匠が先に乗り込み、サチもその後に続いたが、後部座席の大部分を師匠が占領してしまった。
「サチ、こっちで」
助手席へ移ってもらい、シートベルトを指差す。サチは自分で引き出し、そのままバックルへ差し込んだ。
その辺は分かるらしい。
「よし」
車を出した。
最初の目的地は観光地でも街でもない。人が大勢集まる場所へ、いきなりサチと師匠を連れていく気にもなれなかった。
まずは外へ出られる。それが確認できた。
次は、人間と出会う可能性をなるべく減らしたまま、外を見てもらえばいい。
山側へ車を走らせ、途中で小さなパーキングエリアへ入った。端の方へ停めて周囲を見ると、駐車している車は数台ある。
師匠を出すには多い。
「ちょっと買い物してきます。ここで待っててください」
サチが頷く。師匠は後部座席へ伏せたまま、目だけこちらへ向けた。
売店へ入り、水とコーヒーを取ったところで、冷凍ケースが目に入った。
せっかくなので、アイスを二本取る。一応、自分の分も。
車へ戻ると、サチが助手席からこちらを見た。
「これ」
袋から一本取り出して渡す。
「俺が好きなやつ」
サチは受け取ると、包装を表裏に返して見ている。
「開けるぞ」
包装を剥がして渡し直す。棒についたアイスを、サチはしばらく眺めていた。
食べ方自体は分かっている。小人の食事を取り込むところも見ているし、摂食できることは確認済みだ。
アイスは初めてだろうと思って見ていると、サチが手袋を少しずらし、露出した白い手首へ先端を触れさせた。表面がそのまま沈んでいく。
溶けるわけでも、潰れるわけでもない。触れたところから身体の内側へ入っていく。何度見ても仕組みは分からない。
半分ほど消えたところでサチの手が止まり、そのまま俺を見る。
「どう?」
しばらくこちらを見たまま動かない。
次の瞬間、残っていた半分も手首へ押し当てた。今度はさっきより速い。
「気に入った?」
頷いた。
「そっか」
俺も自分の分を開けて食べ始めると、しばらくして横から視線を感じた。サチが俺のアイスを見ている。
「これは俺の」
今度は俺を見る。
「帰りにもう一本買うから」
頷いて前を向いたところで、俺も一口食べる。後部座席から鼻息が聞こえた。
「あ、師匠もいります?」
振り向いて残りを少し差し出してみると、師匠は鼻先を寄せて匂いだけ嗅ぎ、顔を窓側へ向けた。
「ですよね」
食べ終えてから再び車を出す。山へ入るほど、すれ違う車も減っていった。
目的地は以前、地図を見ながら探しておいた場所だ。大きな観光施設もなく、近くに店もない。舗装された細い道の先に、山に囲まれた湖を見られる場所がある。
平日なら人も少ないと思っていたが、到着した時には駐車スペースに車が一台もなかった。
「よし」
エンジンを止め、少しだけ周囲を確認してから降りる。
まず師匠のハーネスへリードを繋ぎ、地面へ降ろした。車から出た師匠が前脚を伸ばし、大きく身体を伸ばす。
やはりでかく、犬ですと言い張る予定ではいるものの、目の前で見ると自信が削られる。続いてサチも車から降りてきた。
「ここなら、まあ大丈夫だろ」
林の切れ目へ向かい、木々の間を抜けたところで、山に囲まれた湖が見えた。
夏の日差しが湖面へ広く反射し、風が渡るたびに光が細かく崩れていく。対岸まで続く山の緑も、暗渠の森とは随分違って見えた。
サチが止まり、その隣で師匠も足を止める。俺だけが数歩進み、リードが張る前に気づいて振り返った。
サチは湖を見ていた。少し顔を上げて山の方を見て、それからまた湖へ戻す。
隣では師匠が鼻先を風へ向けていたので、俺はそのまま待つ。
ここまで来る間、サチは言われたことをずっと守っていた。車へ乗って、待って、サングラスにも触らない。
今くらいは好きなだけ見ていればいいと思っていると、しばらくしてサチがこちらへ顔を向けた。
「まだ先、歩くか?」
サチは頷いたものの、すぐには来なかった。もう一度だけ湖を見てから俺の横まで歩いてきて、師匠もその後ろから続く。
「じゃあ行こうか」
三人で、湖へ続く道を歩き始めた。




