第391話 いつも通りの朝
朝は昨日までと同じ時刻に始まった。運転手の到着も、本部施設へ入る時間も普段とほとんど変わらず、午後の会議が三十分ずれたことだけを秘書から聞いた。
執務室へ入ると上着を預け、机に積まれた書類を上から処理していく。昨夜遅くに届いた報告へ印を付け、朝のうちに回すものを脇へ寄せる途中、日本に関する案件が一枚混じっていた。
現地から最終報告が届いていないことだけ確認して、次の書類へ手を伸ばした。対象一人を確保するための仕事に、自分が何度も口を出す必要はない。
九時を少し回ったところで、扉が三度ノックされた。
「入れ」
三人の部下が入ってきた。先頭は日本側の案件を扱っている男で、残る二人も今回の件に触れられる立場にいる。
「日本の件か」
「はい」
「早かったな」
「直接ご報告する必要がありました」
男は書類から目を離さず、机の前まで来るよう手で示した。三人は黙って進み、いつも報告を受ける位置まで来たところで揃って足を止める。
「それで?」
返事が来ないので顔を上げると、三人ともこちらを見ていた。先頭の男は疲れているようにも見え、右側の一人など唇を固く結んでいるが、その姿勢だけが不自然なほど揃っていた。
「どうした」
先頭の男が一度だけ目を伏せた。
再び顔を上げた時、耳の穴から白いものが垂れていた。細い糸のような一本が頬へ触れ、その後ろから二本目が滑り出してくる。
「……何だ、それは」
問いかける間にも、唇の隙間から同じものが覗いた。舌の脇を通ったらしく喉が引きつったのに、男は手で払おうともせず、苦しそうに眉だけを寄せている。
椅子を蹴るように立ち上がった。
「お前、何を――」
三人が同時に動いた。
右側の部下が机を回り込み、左の一人が扉との間へ入る。男は反射的に机の下へ手を差し入れたが、非常呼出し用のボタンへ届く寸前で手首を掴まれ、腕ごと机へ押し付けられた。
「離せ!」
「申し訳ありません」
「なら離せ!」
「……できません」
部下の声は震えていた。押さえる腕も小刻みに揺れ、額には汗まで浮かんでいるのに、掴んだ指だけは少しも緩まない。
「外の警備を呼べ!」
「それも……」
「衛兵! 入れ! 今すぐだ!」
扉がすぐに開いた。
廊下で立哨していた警備兵が二人、室内へ入ってくる。助かったと思ったのは一瞬で、一人は後ろ手に扉を閉め、もう一人が鍵を掛けた。
「こいつらを拘束しろ! 何をしている!」
二人は動かなかった。
前へ出た兵士の耳から、白い糸が垂れている。
「お前たちまで……」
もう一人の口角にも白いものが見えた。
男は椅子ごと後ろへ逃れようとして机へぶつかった。積まれていた書類が床へ散り、茶が倒れて机の端から滴り落ちる。
「いつからだ! 誰を通した! 警備は何をしていた!」
叫びながら、今朝ここへ入ってきた時の光景が頭を走った。入口ではいつもの警備を受け、秘書とも話し、廊下でも何人もの職員とすれ違っている。そのどの時点までが普通だったのか、自分にはもう判断できなかった。
「誰か! 聞こえているだろう!」
扉へ向けて怒鳴ったが、廊下から助けが来る気配はなかった。代わりに肩を押さえている部下が苦しそうに息を吐く。
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら手を離せ!」
「できないんです!」
部下の方が叫んだ。
「身体が……勝手に動くんです」
その顔には恐怖が浮かんでいた。
男はようやく、三人が平然としているわけではないことに気づいた。目の前の部下は怯えているし、もう一人は顔を背けている。それでも身体だけが正確に役目を果たし、自分を椅子へ押さえ込んでいた。
先頭の男が近づいてくる。耳や口から伸びた白い糸が、顔の横で細かく揺れていた。
「近寄るな」
距離は縮まる。
「待て。話をする。何が欲しい」
白い先端が頬へ触れた。
「金か、情報か。条件があるなら言え。誰に命令された」
部下は何も答えず、白い糸だけが唇へ触れてくる。男は歯を食いしばったが、左右から頭と顎を押さえられた。
「やめろ!」
「口を開けてください」
「ふざけるな!」
「……お願いします」
「ならお前が止まれ!」
「止まれないんです!」
男は顔を振って抵抗した。椅子の脚が床を擦り、肩が机の角へ何度もぶつかる。
「誰か来い! 誰でもいい! 助け――」
顎が開いた。
白い糸が口へ入る。
「んっ……!」
最初に舌へ触れ、そこから頬の内側へ何本も滑り込んできた。噛み切ろうとしても顎を閉じさせてもらえず、吐き出そうと身体を丸めれば兵士に頭を固定される。
「やめ……ろ……!」
舌で押し返した糸が、別の場所から口内へ潜り込む。喉へ近づく異物感に咳き込みながらも抵抗したが、やがて白いものは一本ずつ見えなくなり、最後には口の中を舌で探っても何も触れなくなった。
男は床へ唾を吐き、荒い呼吸のまま口元を何度も拭った。
「医者を呼べ。今すぐだ」
誰も動かない。
「医務室へ連絡しろ!」
「……」
「電話を寄越せ!」
押さえていた手が離れた。
解放されたことに戸惑うより先に、男は机の固定電話へ飛びついた。受話器を掴み、警備部門の番号を途中まで押したところで人差し指が止まる。
「……何だ」
力を入れても、指が下りない。
別の指を使おうとした瞬間、今度は手首まで固まった。受話器を握ることはできているのに、その先だけがどうしても続かない。
「動け!」
腕へ力を込める。
「押せ! 押せよ!」
受話器を投げ捨て、携帯端末を掴んだ。画面を開くところまでは普通にできたが、警備責任者の連絡先へ触れようとすると親指が画面の手前で止まった。
「……は?」
試しに別の連絡先へ触れると指は動く。もう一度警備責任者へ戻した途端、筋肉が固まったように動作が途切れた。
「何だよ、これ……」
秘書ならどうだ。
そちらへの発信はできた。
『はい』
「今すぐ警備を――」
声が途中で消えた。
男は喉を押さえた。息はできるし、声そのものも出せる。それなのに、この部屋で起きたことを伝えようとすると舌も喉も先へ進まない。
『どうされました?』
「……っ」
『もしもし?』
「警……っ、あ……」
助けを呼ぶ内容だけが言葉にならない。
男は何度も口を動かした。白い糸について伝え、部屋を封鎖させ、医者を寄越すよう命じたいのに、考えた内容が発話へ移る寸前で身体に握り潰される。
『聞こえていますか?』
「切れ!」
『……はい』
その一言だけは普通に出た。
通話が切れた瞬間、男は携帯端末を床へ叩きつけた。
「ふざけるな!」
扉へ向かって走る。
二歩までは進めた。
その先で脚が止まり、前へ倒れかけた身体を机へぶつけて支える。
「動け……!」
後ろへ下がると脚は動く。横へも行けるのに、助けを求めて部屋から出ようとした瞬間だけ膝から下が固まった。
「何なんだこれは! 俺の身体だぞ!」
もう一度踏み出そうとしても結果は変わらない。
男は振り返り、一番近くにいた部下の顔を殴った。拳は何の抵抗もなく頬へ入り、部下がよろめく。
殴れる。
机の引き出しも開けられた。書類を手に取り、意味のない署名を書き込むこともできる。
その紙へ助けを求める文章を書こうと考えた途端、ペン先が止まった。
「……選んでるのか」
男はペンを投げ捨てた。
窓へ向かって外の人間へ知らせようとした時にも、脚は途中で動かなくなった。何事もなく執務室の中を歩き回れるのに、助けへ繋がる行動だけが一つずつ潰されている。
「やめろ」
自分でも情けない声が出た。
「今すぐこれを取れ」
「できません」
「誰がやった」
先頭の部下は答えなかった。
「誰がやったんだ!」
「……戸張透です」
男はしばらく理解できなかった。
「何?」
「日本で確保する予定だった男です」
「奴は日本にいるだろう」
「はい」
「なら、どうしてここにいる」
「本人は来ていません」
部下は一度目を伏せた。
「私たちが運びました」
その意味が頭へ入ってきた瞬間、男は口元を押さえた。
「お前たちが……自分で、これを?」
「そうです」
ここへ来るまでの警備も、入館手続きも、この三人なら通れる。自分へ会う理由も持っているし、外に立つ警備兵へ近づく機会も作れる。
戸張透は中国へ来ていない。
なのに、自分へ届いた。
「何人に入ってる」
誰も答えなかった。
「どこまでだ。ここだけか? ほかにもいるのか!」
部下たちの沈黙を見ているうち、男の声は次第に小さくなった。答えを知らないのか、言うことを止められているのかさえ判別できない。
携帯端末が床で鳴った。
画面には別部署の責任者の名前が出ている。
男は端末を拾おうとした。助けを求めようと考えたせいか、腕が途中で止まった。
「取れよ……」
自分の手へ向かって呟く。
「電話だぞ。取るだけだ」
着信は切れ、数秒後にまた鳴った。
「頼むから動け……」
指先は震えるだけだった。
男はその場へしゃがみ込み、床で鳴り続ける端末を見た。少し前までなら、誰へ連絡するかなど考える必要さえなかった。
「頼む」
先頭の部下へ顔を向ける。
「これを止めてくれ」
「私にはできません」
「戸張透に連絡しろ。金でも情報でも、何でも話す」
「それもできません」
「じゃあ何ならできるんだ!」
怒鳴った声が執務室へ響いた。
部下は答えなかった。
時計は変わらず進み、机には朝から処理していた書類と、その後の予定表が残っている。午後には会議があり、夕方にも別の責任者と会う予定が入っていた。
今日という一日は、そのまま続いていた。
男はゆっくり立ち上がる。
「……殺されるのか」
「そのつもりはないと聞いています」
「信用できると思うか」
「思わなくても構わないと」
返事を聞いて、男は乾いた息を吐いた。
自分を味方にするためではないらしい。何かを信じろとも、忠誠を誓えとも言われていない。
それどころか、自分が戸張透をどう思うかまで好きにしろということなのだろう。
男は携帯端末を拾った。
今度は午後の会議予定を開こうと考える。
指が動いた。
会議の参加者を確認することも、時間を変更することもできた。そこから警備部門へ知らせようと考えた瞬間だけ、親指が画面の上で止まる。
「……くそ」
端末を握る手が震えた。
それだけは止められなかった。
「下がれ」
三人が頭を下げ、扉へ向かった。
「待て」
自分でも驚くほど早く声が出た。
三人が止まる。
「……行くな」
ついさっきまで、一刻も早く部屋から消えてほしかった。その三人が扉の向こうへ消え、自分一人だけがこの身体に残されることを想像すると、急に息が苦しくなった。
「そこにいろ。しばらく……そこにいろ」
三人は黙って元の位置へ戻った。
男は椅子へ座り直し、固定電話を見た。手を伸ばせば届き、本部の中には大勢の職員がいて、扉の外には警備兵まで立っている。
助けを求める手段は、目に見える範囲だけでもいくつもあった。
男の身体は、そのどれにも触れさせてくれなかった。
机の端では、朝に淹れられた茶が冷え切っていた。




