第39話 神隠しダンジョン
申請開始まで、まだ少し時間がある。だから、それまでに表向きに使える未発見ダンジョンを見つける。文章にすると簡単だった。簡単すぎて腹が立つ。未発見ダンジョンを見つける、なんて言葉が、買い忘れた卵をスーパーで探すくらいの軽さで頭の中に置かれている。実際には、そんなものを見つけたら警察か自治体に通報するのが普通だ。普通の人間ならそうする。俺は普通の人間なので、通報するために見つける。そういうことにした。言い訳としては、まだ形を保っている。
ただ、問題があった。
どうやって探すのか。
地図アプリを開き、近場の緑地、古い施設、閉鎖された道、工事中の空き地を眺める。前に水門を見つけた時は、何となく引っかかる感じがあった。あれが俺の勘なのか、寄生体の反応なのかは分からない。分からないが、今の俺に使えるものはそれくらいしかなかった。
「頼むぞ、寄生虫レーダー」
言ってから、すぐ嫌になった。
自分の体の中にいる正体不明のものを、レーダー扱いする三十歳無職。人生の落ち方にも種類があると思うが、これはだいぶ知らない角度だった。
とはいえ、便利なら使う。そう決めた。便利という言葉を使った瞬間、胸の奥が少し気持ち悪くなったが、もうそこにいちいち傷ついている余裕もない。俺はスマホとモバイルバッテリー、懐中電灯、軍手、水、最低限の応急用品を鞄に入れた。赤錆の山刀は持っていかない。持って行けるわけがない。あれを持って街を歩いている時点で、ダンジョンより先に社会に殺される。
代わりに、折りたたみ傘を入れた。武器としては頼りない。だが、何もないよりましだ。いや、こん棒代わりに傘を入れている時点でだいぶ駄目かもしれない。俺は傘の柄を見て、何とも言えない気持ちになった。
外へ出ると、昼過ぎの空気は普通だった。車が走り、宅配のトラックが止まり、どこかの家から掃除機の音が聞こえる。世界は今日も、俺の事情など知らない顔で回っている。その普通さに少し安心して、少し腹が立った。こっちは机の上に昨日の怪物の欠片を並べて、人生の帳尻を合わせようとしているのに。
最初に向かったのは、駅の反対側にある古い立体駐車場だった。地下階が一部閉鎖されていると、少し前に掲示板で見た覚えがある。行ってみると、閉鎖はただの老朽化らしかった。コンクリートの壁にひびはある。照明も暗い。古い油と埃の匂いがする。いかにも何かありそうだったが、俺の体は何も反応しなかった。
何もない。
いや、何もないことは良いことだ。普通はそうだ。でも今は困る。
俺は地下階の入口近くでしばらく立っていた。目の奥がざらつくこともない。指先が勝手に動きたがることもない。胸の奥の白いものも、寝ているのか死んだふりをしているのか、とにかく静かだった。
「ここじゃないのか」
独り言が、駐車場の壁に薄く跳ね返った。
次に、閉店した小さなゲームセンターの裏手へ回った。シャッターには落書きがあり、入口には閉店のお知らせが色褪せたまま貼ってある。裏の搬入口には古い段ボールと、壊れたプラスチックケースが積まれていた。夜ならそれっぽかったかもしれない。だが昼間に見ると、ただの寂れた建物だった。俺の体は、ここでも何も言わなかった。
三か所目は、工事が止まっているマンション建設現場。仮囲いの隙間から中を覗くと、鉄筋とブルーシートが見えた。立ち入り禁止の看板がある。普通に不法侵入なので、入る前にやめた。俺は怪物と戦ったことはあるが、警備会社とは戦いたくない。勝てる勝てない以前に、話が面倒になる。
歩きながら、だんだん分かってきた。
遠くから分かるわけではない。
少なくとも、今のところは。
水門の時は、もっと引っかかる感じがあった。あの時も、近くに行って初めて分かったのかもしれない。地図の上から光る点を探すような便利機能ではないらしい。残念だ。とても残念だ。せめて寄生されたなら、もう少し分かりやすい特典があってもいいと思う。いや、止血とか身体補助とか十分もらっているのかもしれないが、寄生虫に対して「特典」という言葉を使う自分がかなり嫌だ。
けれど、嫌とは少し違う感覚もあった。
俺は、探している。
未確認のダンジョンを。
誰かに言われたからではない。制度に潜り込むため、魔石の出どころを作るため、それもある。あるけれど、それだけではなかった。地図を見て、知らない道へ入って、変な場所を覗き込む。小学生の頃、暗渠や用水路の奥を見ていた時と似た感覚が、胸の奥に薄く戻ってきていた。
怖い。死にたくない。痛いのも嫌だ。レッドキャップみたいなものとは二度と会いたくない。
それでも、見つけたい。
そう思っている自分を、今回は否定しなかった。
会社を辞めた理由が、そこにあったはずだ。ニュースを見て、子供の頃の何かが戻ってきて、今逃したら一生後悔すると思った。あれは嘘じゃない。寄生体に入られる前から、俺はダンジョンを探していた。つまり、最初からそこそこおかしかった。寄生虫のせいだけにできないのがつらい。
夕方近くになって、俺は住宅街の端にある雑木林へ向かった。地図上では小さな緑地になっている。公園というほど整っていない。昔から残った林を、フェンスと細い道でどうにか管理しているような場所だった。周りには住宅と小さな畑があり、遠くに幹線道路の音が聞こえる。
ここを候補に入れた理由は薄い。近くの掲示板に、最近この辺りで犬が妙に吠えるとか、夜に林の奥が暗すぎるとか、そんな話があった。それだけだ。怪談としても弱い。だが、他に当てがない。俺は林の入口近くで足を止めた。
その時、体の奥が、かすかに動いた。
痛みではない。寒気でもない。腹の底から背中にかけて、細い糸で内側を引かれたような感覚。いや、引かれたというより、体の奥がそちらへ向きたがる。落ち着かない。じっとしていると、指先が小さく疼く。
「……ここか?」
声が少し低くなった。
今までの場所では何もなかった。ここへ来て、初めて反応した。水門の時とは違う。あの時のような、湿った圧のようなものは薄い。代わりに、もっと軽い。落ち着きのない感じだ。犬が散歩の途中で知らない匂いを拾った時みたいな、餌の気配に気づいた虫みたいな、そういう嫌な例えが頭に浮かぶ。
そして、俺自身も少し浮ついていた。
「お前だけじゃない、ってことか」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。ただ、体の奥のウズウズだけが残る。こいつが入りたがっているのか、俺が入りたがっているのか。たぶん、両方だ。
俺は林の中へ入った。細い土の道がある。落ち葉が乾いていて、靴の下で軽く砕ける。水の匂いはない。あるのは土と枯葉と、少し古い木の匂い。風が通ると枝が擦れ、遠くの車の音が薄く混ざった。
普通の雑木林だった。
普通すぎる。
こんな場所に本当にあるのか、と思う。けれど、体の奥は相変わらず落ち着かない。俺はスマホの地図を確認しながら、道から少し外れた。管理されているのかいないのか分からない細い踏み跡が、木々の間に伸びている。人が歩いた跡なのか、獣道なのかも分からない。埼玉の住宅地の端で獣道というのも変だが、最近は変なことが多すぎて何が普通か怪しい。
足が、少しだけ先に行きたがった。
比喩ではない。右足を出す前に、体の中で何かがそちらへ傾く。こっちだ、と声が聞こえるわけではない。だが、別の方向へ向こうとすると、胸の奥に軽い違和感が出る。
便利だ。
そう思った。
そして、それを認めるのがあまり嫌ではないことに気づいた。
俺はもう、こいつを便利だと思っている。怖いし、信用はしていないし、何なら一生出て行ってほしい。でも、使える。使っている。助けられている。今もそうだ。
「探索者っぽくなってきたな、俺」
小さく笑った。
格好よくはない。寄生虫に道案内されている探索者だ。職業欄に書けるものではない。
踏み跡を進むと、少し開けた場所に出た。背の低い草がまばらに生え、落ち葉が厚く積もっている。中央に、二本の木が並んで立っていた。種類は分からない。太さも高さも似ている。根元の間には、人ひとりが通れるくらいの隙間があった。
特別なものには見えない。
注連縄もない。石碑もない。光る魔法陣もない。いかにもな門でもない。ただ、二本の木が並んでいるだけだ。
なのに、体の奥がそこで強く疼いた。
「ここ?」
俺は二本の木を見た。
見れば見るほど、ただの木だった。樹皮が少し荒れていて、根元に落ち葉が溜まっている。枝の間から、夕方の空が見える。遠くで車が走る音もする。住宅街の犬が吠える声も聞こえた。
俺は一歩近づく。
ウズウズが強くなる。
もう一歩。
指先が少し熱い。
俺は息を吐き、二本の木の間を通った。
何も起きなかった。
少なくとも、その瞬間はそう思った。
落ち葉を踏む音。木の匂い。夕方の薄い光。俺は二、三歩進み、肩の力を抜きかけた。
「……いや」
違う。
車の音が消えていた。
さっきまで聞こえていた幹線道路の低い音がない。犬の声もない。風の音も変だった。枝が擦れる音はあるのに、空気の抜け方が妙に重い。
俺はゆっくり振り返った。
二本の木は、そこにあった。
ただし、その向こうが違う。
さっきまで見えていた住宅街側の明るさがない。木々の密度が増している。夕方の林ではなく、もっと奥深い、昼でも薄暗い森の中みたいに見えた。地面には同じような落ち葉がある。だが、落ち葉の色が少し黒い。枝の形も、普通の雑木林より歪んで見える。
スマホを取り出す。
電波が極端に弱くなっている。
「……入ってる」
しかも電波が不安定って事は恐らく出来てまだ間もない、大当たりだ、口の中が乾いた。
いつの間にか、ダンジョンの中にいる。
穴もなかった。扉もなかった。階段も、横道も、黒い石室もない。ただ二本の木の間を通っただけだ。それだけで、世界が変わった。
俺はすぐに戻った。
二本の木の間を、今度は逆向きに通る。
落ち葉を踏む。枝が揺れる。
次の瞬間、車の音が戻った。
住宅街の犬が吠えている。遠くで子供の声がする。スマホを見ると、電波が戻っていた。地図アプリの現在地も、雑木林の中に戻っている。
俺は二本の木を見た。
普通の木だった。
本当に普通の木だった。
「こんなんわかるか!」
思ったより大きな声が出た。
慌てて周囲を見る。誰もいない。よかった。いや、よくはない。雑木林で一人、木に向かって怒鳴る三十歳無職。見られていたら通報される側だ。
俺はもう一度、二本の木の間を通った。
また、音が消える。
空気が重い。木々が深い。
戻る。
音が戻る。電波も戻る。
もう一度、半歩だけ入る。境界を踏む。足の裏の感触は変わらないのに、耳の奥だけが急に詰まる。水の中に入った時のような違和感ではない。もっと乾いている。空気ごと薄い膜をくぐるような感じだった。
「神隠しみたいだな」
言ってから、嫌な想像をした。
子供がここを通ったらどうなる。
散歩中の老人が、犬に引っ張られて木の間を抜けたら。
山菜取りでも、虫取りでも、ただの散歩でもいい。普通の人間には、ここの入口が入口だと分からない。俺だって、体の中のこいつが反応しなければ分からなかった。分からないまま入って、戻れなかったらどうなる。
政府が焦るわけだ。
入口が門の形をしているとは限らない。水門や暗渠みたいに、奥へ進む異常があるとも限らない。こういう、ただの木の間みたいなものが、全国のどこかにぽつぽつあるのだとしたら。
俺は首の後ろを掻いた。
怖い。
けれど、それとは別に、胸の奥が静かに熱かった。
見つけた。
俺は見つけた。
寄生体に道案内されたとはいえ、歩いて、外して、考えて、それでも見つけた。未確認のダンジョン。表向きに使えるかもしれない出どころ。二本の木の間にある、神隠しみたいな入口。
俺は二本の木の前に立ち、しばらく黙っていた。
体の奥は、まだウズウズしている。入れ、と言っているような気がした。もっと奥へ行け。何かがある。そういう声にならない衝動が、背中の内側をくすぐる。
そして俺も、少しだけそう思っていた。
入りたい。
中を見たい。
何がいるのか確かめたい。
その気持ちを、今回は否定しなかった。怖いものは怖い。死にたくない。痛いのも嫌だ。レッドキャップみたいなものが出たら泣く自信がある。だが、それでも、俺はここを見つけてしまった。見つけた以上、入口の前で帰るだけでは終われない。
俺はスマホのメモを開いた。外側で、二本の木の位置、周囲の目印、境界を通った時の感覚を書き込む。文章は短い。後から見ても分かるように、できるだけ事務的にした。
住宅地北側の雑木林。二本並んだ木の間。通過時に周辺音が消失。内部は通常の林より暗く、木々の密度が高い。入口形状は不明瞭。誤進入の危険あり。
誤進入の危険あり。
その一文が、妙に重かった。
俺はメモを保存し、鞄の中を確認する。懐中電灯。水。軍手。折りたたみ傘。石。石は途中で拾った。投げやすそうなものをいくつかポケットに入れてある。武器としては情けないが、俺にはこれが一番ましだった。
赤錆の山刀はない。
それでいい。
ここは表向きのダンジョンだ。最初から出せない武器を使うわけにはいかない。五級申請者として、誤って入り、小型敵性生物に遭遇し、素材らしきものを回収する。そういう筋書きにするなら、やりすぎてはいけない。
やりすぎてはいけない、という言葉が頭に浮かんで、少し笑いそうになった。
ダンジョンに入る時点で、もうだいぶやりすぎだ。
俺は二本の木の間を見た。
外側から見ると、やはりただの隙間だった。何も知らない人間なら、そこを通っても気づかないかもしれない。いや、通ったら気づく。気づいた時には、もう中だ。
「じゃあ、行くか」
声は震えていなかった。
少しだけ、それが怖かった。
俺は二本の木の間を通った。
車の音が消える。空気が変わる。スマホの電波が落ちる。木々の匂いが濃くなる。
神隠しの向こう側で、俺は立ち止まった。
体の奥が、嬉しそうに疼いている。
俺もたぶん、少しだけ笑っていた。
最悪だ。
でも、足は前を向いていた。




