第38話 今ならまだ
机の上に、昨日の俺が持ち帰ってきたものを並べた。並べた、というより、逃げ場をなくした。ビニール袋、タオル、泥のついた手袋、欠けたトレッキングポールの先、小さな魔石らしきものがいくつか、黒っぽい核片、何かの骨なのか石なのか、いまだによく分からない欠片。そして、赤黒い山刀。
タオルに包んだままでも分かる。こいつだけは、明らかに机の上にあっていい物ではなかった。
俺は椅子に座り、両手で顔を覆った。
「……昨日の俺」
声に出したところで、何も変わらない。昨日の俺は、確かに言った。大変なことは明日の俺に任せる、と。そして今、明日の俺がここにいる。
ふざけるな。いや、ふざけたのは俺だ。昨日の俺と今日の俺は法的には同一人物なので、殴る相手が自分しかいない。最悪だ。こういう時、前世の敵とか悪の組織とかがいてくれればまだ気持ちの向け先があるのに、現実はだいたい自分の不始末でできている。
俺は指の隙間から机の上を見た。見たくない。でも見ないといけない。
赤錆の山刀は、タオル越しにも形が分かる。短めの刀身。妙に手に馴染んだ柄。レッドキャップが使っていた黒い刃。あれに何度も殺されかけた。そのくせ、倒した後に持ち帰った。
正気か。正気ではない。ただ、あの時は本当に、次に近接戦になったら死ぬと思った。こん棒は斬られた。トレッキングポールも万能じゃない。投石は距離があれば強い。距離がなければ、ただの石を持った三十歳無職だ。言葉にすると、かなり弱い。弱いというか、もう少し人生を考えろという感じがする。
俺はタオルの端を少しだけめくった。赤黒い刃が、鈍く光る。包んでいたはずなのに、部屋の蛍光灯を嫌な感じに拾った。刃物、というだけなら包丁もある。ホームセンターにもナタは売っている。だが、これは違う。人間の生活に混ざる気がない。台所にも山にも似合わない。黒い石の床と、湿った暗渠と、首を飛ばす瞬間だけが似合う。
俺はすぐにタオルを戻した。
「出せるわけねえだろ、こんなの」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
警察に持って行く。そういう選択肢は、一応ある。一応あるだけだ。すみません、ダンジョンで拾いました。どこのダンジョンですか。未確認の暗渠です。なぜ通報しなかったんですか。中で何をしましたか。なぜモンスターの武器を持ち帰りましたか。体に異常はありませんか。最後の質問で終わる。いや、その前にだいぶ終わっている。
机の右側にある小さな魔石をつまんだ。水門で拾ったものと、暗渠で拾ったものが混ざっている。袋に分けていたつもりだったが、帰ってきてからの俺はあまり信用できない。疲れすぎていて、手元の記憶がところどころ曖昧だった。
小さな魔石は、光にかざすと少し濁って見えた。これなら、まだ説明できるかもしれない。拾った。倒したモンスターから出た。危険物だと思ったので保管した。制度ができたら申告するつもりだった。嘘ではない。全部ではないだけだ。
「全部じゃない嘘って、何なんだろうな」
俺は独り言をこぼした。部屋は静かだった。
返事はない。頭の中に声もない。右手の爪の間から白い糸が出ることもない。だが、自分の体の奥に、何かがいることだけは知っている。昨日、死体を動かした。俺を助けるために、大柄なゴブリンの死体を使った。あれを思い出すたびに、胃のあたりが冷える。
助かった。本当に助かった。でも、助かったことと、気持ち悪くないことは別だった。
捨てる。無理だ。燃えないゴミに出せる物ではない。魔石らしきものをゴミ袋に入れて、収集車が持っていって、どこかで変なことになったらどうする。赤錆の山刀なんて、捨てた時点で事件だ。公園の池に沈めるとか、山に埋めるとか、そういう考えが頭をよぎった時点で、自分がかなり駄目な方向へ進んでいるのが分かる。
売る。論外だ。誰に。どこで。ネットで「ダンジョン産っぽい謎の山刀売ります」とでも書くのか。即通報か、もっと悪い奴に見つかるかの二択だ。悪い意味で夢がある。
保管する。今やっている。そして頭を抱えている。つまり、何も解決していない。
気づけば、窓の外は明るくなっていた。朝からずっと同じ姿勢でいたらしい。スマホを見ると、もう昼に近かった。
腹が鳴った。
こんな状況でも腹は減る。人間の体は本当に空気を読まない。昨日レッドキャップに殺されかけて、今日は机に危険物を並べて頭を抱えているのに、胃だけは平然と飯を要求してくる。
俺は立ち上がり、台所へ向かった。冷凍ご飯を温め、インスタントの味噌汁を作った。おかずは卵と、冷蔵庫の奥で少ししなびた漬物。三十歳無職の昼飯としては、むしろまともな方だと思う。
机には戻りたくなかったので、ローテーブルの方で食べることにした。茶碗を持ち、スマホを開く。ニュース通知がいくつも並んでいた。
最初の一行で、箸が止まった。
『異常空間民間調査員制度、暫定運用開始へ』
俺はしばらく画面を見た。味噌汁の湯気が、目の前で薄く揺れている。
ニュースの見出しは次々に更新されていた。『通称“探索者制度” 本日より五級登録受付開始』『政府、民間協力者の受け入れを正式化』『死亡・重傷・行方不明のリスク明記』『武器は原則現地管理 採取物は申告制』
俺は茶碗を置いた。口の中の米を飲み込むのに、少し時間がかかった。
探索者制度。昨日まで掲示板で騒がれていた言葉が、急に役所の言葉になっていた。
俺はニュース記事を開き、発表内容を読み始めた。正式名称は、異常空間民間調査員制度。通称、探索者制度。暫定運用として、五級から登録受付を開始。対象は成人。講習受講、同意書提出、活動記録の提出、帰還報告の義務。指定区域外への移動禁止。採取物は全量申告。危険物、武器、素材は現地管理または指定窓口へ提出。
文字が並んでいる。役所の文章だ。乾いている。冷たい。感情がない。そのくせ、書いてある内容は人が死ぬ話ばかりだった。
俺は記事をスクロールする。
登録時の確認項目。本人確認。緊急連絡先。既往歴。服薬状況。簡易健康確認。採血。講習。誓約書。
外傷確認の文字はない。全身検査もない。精密検査も、未知寄生体検査もない。もちろん、そんな項目が今の日本にあるのかどうかも分からない。
「……採血」
俺は自分の左腕を見た。あの傷は、もうほとんど普通に見える。普通すぎるくらいだ。白い膜が張っていた時の感触も、痛みが遠くなった時の気持ち悪さも、見た目だけなら残っていない。
血を抜かれたらどうなる。分からない。分からないが、少なくとも、採血だけで今の俺の中身が全部ばれるとは思えなかった。思いたかった、という方が近い。
政府だって、まだ手探りだ。制度は暫定運用。検査項目も追いついていない。未知の身体変化に注意と書いてあるが、それを見つける方法があるなら、もっと大々的に書くだろう。
今ならまだ。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
今ならまだ、人間として受付を通れるかもしれない。逆に、一ヶ月後は分からない。半年後はもっと分からない。制度が固まれば、検査は増える。採取物の追跡も細かくなる。異常感染、身体変化、寄生性の何か。そういう項目が増えたら、俺はたぶん終わる。
制度の外にいるまま見つかったら、ただの不審者だ。未確認ダンジョンに出入りし、未申告素材を持ち、ダンジョン産の山刀を隠し、体内に正体不明の寄生体がいる三十歳無職。自分で並べてみると、だいぶ癖がある。悪い意味で。
だが、制度の内側に入っていれば、少し変わる。民間調査員。五級。講習受講済み。活動記録あり。採取物申告あり。危険を理解した上で協力している人間。同じ異常でも、ラベルが違う。
ラベルは大事だ。会社員だった頃にも思った。中身が同じでも、役職名や部署名があるだけで、人は扱いを変える。嫌な話だが、現実はそういうものだ。
俺は味噌汁を飲んだ。少し冷めていた。
制度に入る。そう考えた瞬間、胃が重くなった。
怖い。採血で何か出るかもしれない。問診で余計なことを言うかもしれない。講習で顔を覚えられる。採取物を出せば、出どころを聞かれる。活動記録を求められる。自由に動けなくなる。
怖い。でも、外にいる方がもっと怖い。
俺はスマホを握り直した。
五級の説明を読む。五級は、低危険度区域に限定された短時間活動。単独活動は可能だが、推奨は複数人。現地受付、帰還報告、採取制限。武器は指定品。刃物類の持ち出し禁止。活動後、簡易報告書を提出。
俺は机の方を見た。タオルに包まれた赤錆の山刀が、見えないはずなのに視界の端にある気がした。
あれは出せない。絶対に出せない。出した瞬間、俺の昨日が全部ばれる。どこのダンジョンで、何を倒して、どうやって生き残ったのか。その説明の途中で、俺は人間をやめる。いや、もうやめかけているのかもしれないが、少なくとも書類上はまだ人間でいたい。
「書類上は人間」
口に出して、嫌になった。かなり嫌な言葉だった。
俺は残りの飯をかき込んだ。味はあまりしなかった。茶碗を流しに置き、手を洗い、もう一度机の前に戻る。
机の上には、朝から変わらない昨日が並んでいた。
俺は深く息を吐いた。
「やるか」
誰に言ったわけでもない。返事はない。それでいい。返事があったら、たぶん俺は叫ぶ。
まず、小さな魔石を右側に寄せた。透明に近いもの、灰色に濁ったもの、黒く小さいもの。出どころを説明しやすいもの。一般的なダンジョン素材として通りそうなもの。
提出するもの。
魔石は出す。何も出さない新人より、少し危ないことをした馬鹿の方が自然だ。制度開始に合わせて申告する意思がある、と見せられる。そういう形を作れる。会社員時代に身につけた、嫌な意味での報告書感覚だった。
次に、核片らしきものを分ける。スライムの核片は、少し迷った。水門とつながる可能性がある。亀山が通報した水門は、今はもう管理下にある。そこから出たものを俺が持っているのはまずい。暗渠のものも駄目だ。あそこは俺の始まりの場所だ。黒い石、祭壇、白いもの。あそこに調査員や自衛隊が入ったら、何が見つかるか分からない。俺にも分からないものを、他人に見つけられるのはもっと嫌だった。
そこで、指が止まった。
提出するなら、出どころがいる。
魔石だけを持って行って、「拾いました」では済まない。どこで拾ったのか。いつ入ったのか。入口はどこか。危険度は。中の構造は。遭遇した敵性生物は。制度の中に入るということは、そういう質問から逃げられないということだ。
水門は使えない。亀山がいる。警察も自衛隊もいる。そこに俺が混ざると、過去の話まで掘られる。
暗渠はもっと使えない。あそこを出したら、俺の中のものまでつながる。
なら、もう一ついる。
俺は机の上を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
もう一つ、未発見のダンジョンを見つける必要がある。
できれば小さい。できれば浅い。できれば、魔石を拾っても不自然ではなく、俺が五級申請者として「誤って入った」と言える程度の場所。そんな都合のいいダンジョンが、現実にぽんと落ちているわけがない。分かっている。分かっているが、必要になってしまった。
制度の中ではそこそこやる。制度外の暗渠で死ぬほど頑張る。そう考えていたのに、その前にもう一本、表向きに差し出せる道まで探さないといけないらしい。
二足の草鞋どころではない。
片方の足を酷使して、もう片方で役所の床を汚さないように歩く感じだ。意味が分からない。俺の人生は、いつからこんな面倒な競技になったのか。
それでも、やるしかない。
提出するもの。提出しないもの。まだ出どころがないもの。
机の上に、分類が増えた。
そうやって分けている時点で、俺はもう善良な申請者ではなかった。それでも、分けた。生き残るためだ。その言葉は便利だ。便利すぎて嫌になる。大抵の悪いことに、それっぽい理由をつけられる。
黒い石室で拾った欠片は、左側に置いた。
提出しないもの。
祭壇に関わるものは駄目だ。あれは俺の始まりに近すぎる。黒い石。白いもの。目から入ってきた寄生体。そこに触れられると、全部ほどかれる気がする。
レッドキャップから残った小さな欠片も左側へ寄せた。出せない。説明できない。説明したくない。
最後に、赤錆の山刀が残った。
俺はしばらく、包まれたタオルを見ていた。刃は見えない。なのに、ある。この部屋にある。俺の手が、昨日これを持ち帰った。
「お前は駄目だ」
小さく言った。
山刀は当然、何も答えない。
俺はタオルの上からさらに新聞紙を巻き、ビニール袋を二重にした。袋の上から紐で縛る。見た目だけなら、何かの工具か、粗大ごみの一部に見えなくもない。見えなくもないだけだ。
押し入れを開け、奥にあった使っていない衣装ケースを引っ張り出した。季節外れの服をどかし、その下へ山刀を入れる。さらに服をかぶせ、ケースを戻す。
隠した。
隠しただけだ。
なくなったわけではない。大事なものを地面に埋める犬かな....。
机に戻り、スマホの申請ページを開いた。まだ申請は開始していないが、事前に入力はできるようだ。
氏名。住所。生年月日。緊急連絡先。既往歴。服薬状況。ダンジョン進入歴。
その項目で、指が止まった。
正直に書くか。書けるわけがない。完全に嘘を書くか。それも危ない。
俺は画面を見つめたまま、しばらく固まった。やがて、進入歴の欄に短く入力した。
未確認の異常空間と思われる場所に誤って進入。小型敵性生物と遭遇。素材らしきものを回収。制度開始に伴い申告希望。
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
またそれだ。
俺は自分で入力した文章を見て、少し笑った。乾いた笑いだった。会社で報告書を書いていた頃と、やっていることはあまり変わらない。都合の悪いところをぼかし、必要な情報だけを出し、突っ込まれたら追加で説明する。社会人スキルが、こんなところで役に立っている。
嬉しくない。まったく嬉しくない。
採血でばれるかもしれない。講習で失敗するかもしれない。提出した魔石の出どころを聞かれて詰まるかもしれない。表向きに使える未発見ダンジョンを見つけられないかもしれない。
それでも、今しかない。
制度が固まる前に、中へ入る。五級でいい。目立たなくていい。むしろ最初は目立たない方がいい。制度の中では、そこそこ。少し勘がいい。少し慎重。少し運がいい。そのくらいで通す。
その裏で、暗渠に戻る。最初の場所。祭壇。黒い石。俺の中の白いもの。あそこで死ぬほど頑張る。
二足の草鞋。ただし片方の足だけ、ずっと砕石の上を裸足で走らされるやつだ。
俺は申請内容を最後まで確認した。送信ボタンが画面の下に出ている。
押せば、俺は制度の内側へ向かう。押さなければ、外側のままだ。どちらが安全かなんて分からない。ただ、外側でじっとしていれば助かる段階は、もう過ぎた気がした。
俺は右手の指先を見た。普通の指だ。普通に見える指だ。その奥に、白いものがいる。
「頼むから、採血くらい大人しくしてろよ」
返事はない。
俺は記録ボタンを押した。後は申請開始の瞬間が来るのを待つ。その前に死に物狂いでダンジョンを探さないといけない。




