第389話 酷い形の立証
「予定通り確保しました。これから指定された場所へ向かいます」
助手席の男は端末を耳へ押し当て、なるべく普段と変わらない声で報告していた。声だけならどうにか誤魔化せているものの、膝に置いた左手は震えたままで、指先が時々ズボンの生地を掴んでいる。
『状態は?』
「生きています。意識を失ったままです」
『追跡は』
「ありません。予定していた経路に入っています」
電話の向こうで短い間が空いた。
『分かった。それじゃあ予定通りによろしく』
「はい」
通話が切れた。男は端末を下ろしたものの、助けを求めようとした時に喉が動かなかったことを思い出したのか、しばらく画面を見たまま固まっている。
「それじゃ、その予定されてる場所までよろしく」
「ひっ……はい」
声は真後ろから聞こえた。
後部座席には戸張が普通に座っていた。口元には笑みがあるのに額には青筋が浮いていて、助手席の男は一度振り向いただけですぐ前へ顔を戻す。
運転している男も似たような状態だった。予定と違う道へ入ろうとすると腕が止まり、車を停めて逃げようとすれば脚が言うことを聞かない。それ以外の操作は普通にできるため、自分の身体に何をされたのか理解できないまま、指定された場所へ車を進めている。
「前見ててね。今日はもう事故はいいから」
「……はい」
「俺はともかく、そっちは普通に危ないし」
運転手はそれ以降、戸張を確認しようとミラーへ目を上げるのをやめた。
戸張は座席へ背中を預け、自分の腕や胸元を改めて確認する。痛みもなければ、どこか動かしにくいところもない。少し前にかなり派手な事故へ巻き込まれた人間としては、本人が見てもおかしい状態だった。
家へ帰る途中、戸張が乗っていた車の側面へ別の車が突っ込んできた。タイヤが路面を擦る音に気づいて顔を向けた時には避けられる距離を過ぎていて、次に来たのは車体同士がぶつかる衝撃だった。座席ごと大きく振られ、ロックされたシートベルトが胸へ食い込んだが、身体そのものには痛みらしい痛みが残らなかった。
事故が収まった後、戸張はしばらく自分の身体を確認していた。腕は動く。脚も問題なく、頭もはっきりしている。そこで邪魔になったシートベルトを外そうとして引いたところ、留め具ではなくベルトの方が音を立てて千切れた。
「……え?」
手元に残った帯を見て、戸張自身が一番驚いた。
千切ろうとして力を込めた覚えはない。ただ邪魔だから退けようとしただけだった。
そこで、大樹の言葉を思い出した。
『そのくらいなら、その子が上手くやってくれるよ』
聞いた時には、サチや師匠を地上へ連れ出す話だと思っていた。しかし、千切れたシートベルトを持っていると、今まで当たり前すぎて考えてこなかったことが次々と浮かんでくる。
家のドアを開けるたびに取っ手を壊したことはない。コップもスマートフォンも普通に持てるし、箸を使う時に細かく力を計算している覚えもなかった。今の身体能力でそれが成立している理由を、戸張は地上へ出れば強化が弱くなるからだと勝手に考えていた。
実際は、強化そのものが落ちていたわけではなかったらしい。
寄生体が戸張のやろうとしていることに合わせ、日常生活では必要なところまで出力を抑えていた。シートベルトに拘束され、それを外そうとした今は普段の調整が外れた。それなら、力を入れたつもりもないのに千切れたことにも説明がつく。
「酷い形の立証だな」
事故に遭って確認するような話ではなかった。
戸張は切れたベルトを座席へ落とし、変形したドアへ手を掛けた。最初に押した時には引っ掛かっていたので少しだけ力を足すと、金属の擦れる音とともにドアが外へ曲がる。そこでまた加減が変わったことに気づき、今度は慎重に隙間を広げて車外へ出た。
外では、ぶつけてきた側の車から二人の男が降りてきたところだった。片方と目が合った瞬間、相手の顔から事故直後らしい慌ただしさとは別のものが抜け落ちた。
戸張が普通に立っていることを想定していなかったのだろう。男は怪我を確認するでも声をかけるでもなく腰へ手を伸ばし、そこから拳銃を引き抜いた。
「ん?」
銃口が上がる前に、戸張は距離を詰めた。
手首を掴んで銃を逸らし、そのまま男の身体を車体へ押さえつける。もう一人が反対側へ逃げようとしたので、最初の男から拳銃を落とさせてから追い、こちらも数歩で捕まえた。
二人を並べて押さえたところで、戸張は落ちた拳銃へ目をやった。
「事故った相手に拳銃向けるのは駄目でしょ」
相手から返事はなかったが、それで事故の意味はほぼ決まった。
話を聞くと、戸張を事故に巻き込んで動けなくし、別に用意した車へ移して指定場所まで運ぶ予定だったらしい。誰からの依頼か、受け渡し先で誰が待っているのかについては二人とも知らされておらず、自分たちの担当は戸張を運ぶところまでだという。
事故のやり方からして、戸張の状態を細かく調整する気もなかったようだった。最悪、死んでさえいなければいい。自力で動けない程度に壊れていれば都合がよく、その後のことは受け取る側が考える。そのくらいの前提で車をぶつけてきたのだろうと戸張は判断した。
実行役だけ警察へ渡すことも考えたが、以前にも似た形で末端だけを捕まえている。今回は向こうから受け渡し場所まで用意してくれているのだから、そこで待っている相手を確認した方が早い。
戸張は暴れられないよう二人を押さえ、寄生体の一部を口の中から入れた。すぐに車へ戻したわけではなく、身体の自由が一度失われ、再び手足を動かせるようになるまでその場で待つ。
二人の意識はその間も残っていた。
目だけを動かして戸張を追い、自分の腕や脚が言うことを聞かない状態を味わったせいか、動けるようになった頃には二人とも事故直後より顔色が悪くなっていた。
寄生体へ頼んだ内容は単純で、予定していた場所まで向かい、戸張が起きていることを外へ伝えないようにする。逃走や攻撃に移ろうとした場合も身体を止めてもらうが、それ以外の判断や会話までは任せたままにしてある。
そうして別の車へ乗り換え、今に至っていた。
「その電話の人、会ったことある?」
戸張が聞くと、助手席の男は少し迷ってから口を開いた。
「ありません」
「今回が初めて?」
「はい。連絡先も、その都度指定されたものを使っています」
「行った先に本人がいるかも分からない?」
「受け渡しの人間がいるとしか聞いてません」
運転手にも聞いてみたが、知っている範囲は同じだった。事故を起こして戸張を回収し、指定された場所まで運ぶ。その後の処置や聞き出す内容については、二人の仕事ではないらしい。
「何か薬とか使う予定も聞いてない?」
「俺たちは何も……運ぶだけです」
「そっか」
助手席の男の声はまだ震えている。戸張としては質問しているだけなのだが、相手の立場を考えれば落ち着けという方が無理なのかもしれない。
窓の外へ目を向けると、少し前まで考えていたサチの顔や師匠の犬種が、かなり遠い話に感じられた。家へ帰って大型犬を調べる予定だったのに、途中で車をぶつけられ、拳銃を向けられ、今は自分を拉致するはずだった連中に案内してもらっている。
「俺、何かしたっけ」
前の二人が揃って身体を強張らせたので、戸張はすぐに手を振った。
「二人に聞いてないよ」
助手席の男が浅く息を吐く。
亀山が狙われた時には、その場から逃げた二人が後になって戸張まで追ってきた。中国側から妙な接触を受けた後には、自宅近くで七人に襲われている。今回の相手はそこからさらにやり方を変え、正面から戦う代わりに事故で動けなくして運ぼうとした。
「人気者だなぁ」
まったく嬉しくはないが、考え方そのものは分かる。探索者が外では内部より弱いという前提を持っているなら、戸張に戦わせる前に車で潰すという判断は出てくるだろう。
戸張自身も今日まで似たような認識を持っていた。
「俺も外だと弱くなると思ってたしな」
口にしてから、千切れたシートベルトを思い出す。
弱くなっていたのではなく、寄生体が日常生活に合わせて力加減を整えていた。戸張がドアや食器を壊さず暮らせていたこと自体が、その調整の結果だったことになる。
「……大樹、そういう意味か」
ようやく、「その子が上手くやってくれる」という言葉の意味が少し分かった。
サチと師匠を地上へ連れてきた場合も、ただ外で存在を維持するだけではなく、人間側で過ごせるよう寄生体が必要な部分を調整するのだろう。大樹があれほど気軽だった理由も、それなら理解できる。
もっとも、寄生体にもサチの顔を生やすことまではできない。
「結局そこは何も解決してないな」
今度は前の二人も、戸張の独り言に反応しなかった。
車が大きな道路から外れ、建物の少ない方へ進み始めたところで、戸張は助手席へ声をかけた。
「もう近い?」
「あと十分ほどです」
「着いたらどうするの?」
「指定された場所へ車を入れて、もう一度連絡します。あなたは後部座席で、意識を失ったままにしておけと」
「なるほど。じゃあ着く前に教えて。寝てるように見えるかも確認して」
「はい」
向こうで待っているのが指示役本人なのか、さらに別の受け渡し役なのかは分からない。なぜ戸張を欲しがったのかも、以前の襲撃と関係があるのかも、ここにいる二人からは出てこなかった。
それなら、今は予定された受け渡しに付き合えばいい。
戸張は後部座席へ身体を沈め、横に垂れているシートベルトへ一度だけ目をやった。今度は触らず、そのまま背もたれへ頭を預ける。
また千切ると面倒だった。




