第388話 重なる名前
男が受け取った資料は、三枚しかなかった。
最初の一枚には亀山の名前があり、次には当時彼を狙った五人について判明している範囲がまとめられ、最後の一枚で戸張透へ繋がっていた。量だけなら、これまで集めてきた戸張関係の資料の方が何倍も多い。中国側から一度接触した記録、日本政府との関係、探索者としての活動、ANVILへの所属、高階層由来とみられる物資の流れまで拾っても、単独なら多少珍しい探索者という範囲へ収めることはできた。
問題は、亀山の件にも同じ名前が出てきたことだった。
「確認するが、この時に現場へいた戸張透は、今の戸張透と同一人物なんだな」
「そこを疑われると、こっちは何を持ってきたんだって話になりますけどね」
向かいに座る男は、机へ肘をつけずに答えた。姿勢が良いというより、こういう場所へ座り慣れているように見える。亀山を拉致する仕事では実行役へ直接顔を出さず、その少し上で人と金を繋いでいたため、五人全員の素性も依頼元の全体像も知らされていない。
だからこそ、今まで残っていた。
「当時は探索者だってことくらいしか聞いてませんよ。亀山の近くにたまたまいた。三人がそこで捕まって、二人が車で逃げた。それで終わりだと思ってた」
「終わっていない」
「ええ。逃げた二人が、その後こいつを追った」
男の指先が戸張の写真を軽く叩く。
「理由は?」
「逆恨みでしょう。亀山を連れていけなかったのはこいつのせいだと思った。頭のいい連中じゃありません」
「その二人は?」
「自首しました」
そこだけは、中国側の男も何度か読み直していた。
「自首までの経緯が分からない」
「俺にも分かりませんよ。逃げ切った後で戸張を追いかけた。そこから先の足取りが一度途切れて、気づいたら警察へ自分から出ている。携帯も持たずに」
「戸張と接触したという証拠は?」
「追ってたところまでは取れてます。その先はない」
中国側の男は資料を閉じず、写真へ目を落とした。以前なら、この程度の話は脇へ置いたかもしれない。探索者絡みの犯罪、逃走犯の自首、現場に偶然いた別の探索者と分けてしまえば、日本国内で起きた事件の一つにすぎない。
しかし、その戸張透へ接触した自分の部下も、すでに死んでいる。
命令した覚えのない襲撃まで手配し、七人を動かした末に失敗した。実行役は戸張一人を相手に全員生きたまま確保され、部下自身もほどなく死体になったが、死因から戸張へ直接線を引ける証拠は出なかった。日本当局が手を下した形跡も拾えていない。
もちろん、部下が仕事の中で敵を作った相手は戸張だけではなかった。以前の任務で恨みを買った可能性もあれば、内部で失敗を処理された可能性も残る。そのため死だけを理由に戸張へ結びつけず、周辺の出来事から洗い直したところ、今度は亀山拉致未遂という古い事件から同じ名前が出てきた。
「亀山と戸張は、当時から知り合いだったのか」
「そこまでは。今は同じANVILでしょう」
「現在は、だ」
「昔から何かあったと思ってる?」
「まだそうは言っていない」
戸張の資料から別の紙を抜く。正式五級で活動歴は長く、公開されている攻略記録だけでも上位探索者と呼ぶには困らない。一方、日本政府へ渡った特殊な装備や高階層由来素材を追っていくと、供給者として直接名前が出る場合もあれば、取引窓口の先に戸張だけが残る場合もあった。
日本政府が有力な探索者一人を厚く扱っているだけなら、不自然とまでは言えない。中国側が最初に戸張へ接触した理由も、高階層へ進んでいる可能性と、そこから得られる物資を評価したためだった。
「この男は、自分で使っているダンジョンを持っている」
「場所まで分かってるんですか」
「範囲だけだ」
地名を口には出さず、別の資料を指で押さえる。
「一定の地域へ入った後、追跡が途切れることが何度もあった。帰路も同じだ。入口そのものは確認できていない」
「日本側に潰された?」
「違う。日本側はおそらく知っている」
「おそらく?」
「周辺の警戒が変わった。戸張本人へ露骨な護衛を付ける形ではないが、長時間留まる人間や繰り返し現れる車、目的の不明な接近には反応が早い」
向かいの男が鼻から息を抜く。
「じゃあ、あんたらも見られてるんじゃないですか」
「だから一人消えた」
そこで初めて、相手の動きが止まった。
「消えた?」
「区域の確認へ回した人間だ。最後の連絡までは取れている。その後がない。日本側から拘束の通知もなく、本人の端末も回収できていない」
「中へ入ったんじゃ?」
「入口が分かっていれば、その可能性を上げられる」
「じゃあ分からないまま?」
「そうだ」
中国側の男は資料から手を離した。戸張が殺した証拠も、日本側に捕まった証拠もなく、調査員が何らかのダンジョンを見つけて勝手に入ったという確認も取れていない。仕事を捨てて逃げた可能性まで形式上は残しているが、それでも戸張の周辺では説明のつかない終わり方が続いていた。
直接接触した部下は死亡し、亀山案件から逃げた二人は戸張を追った後で不可解な自首をしている。さらに七人を使った襲撃では一人も逃げられず、活動場所を探らせた調査員まで消息が途絶えた。
「偶然、多くないですか」
向かいの男が先に言った。
「私もそう思い始めている」
「最初からそう言えばいいのに」
「最初から決めて調べると、欲しい答えしか残らない」
「そういう仕事は大変ですね」
「君の仕事よりは長生きできる」
一瞬だけ相手の眉が動き、それから薄く笑った。
「今の、冗談?」
「どう取っても構わない」
戸張透の正体が分かったわけではなかった。それでも、亀山との過去の接点に加えてANVIL、日本政府、高階層由来物資、非公開の活動場所を重ねると、単なる五級探索者として片づけるには扱われ方が広すぎる。
中国側の男が気にしているのも、戸張自身の戦闘力だけではなかった。
「日本の六層進出が公表された」
「ニュースは見ましたよ」
「中国は入口周辺で止まっている。アメリカもハウンド以外の人間を六層へ送る段階に入った。日本は自衛隊の複数班を進め、素材の回収まで反復し始めている」
「それとこいつが繋がる?」
「繋がらないなら、それでいい」
戸張の写真を裏返す。
「繋がるなら、放置する理由が減る」
向かいの男は少し考え、椅子の背へ体重を預けた。
「殺す?」
「それでは何も分からない」
「でも消せば日本は困る」
「どの程度困るのかも知りたい」
「欲張りますね」
「情報を扱うなら普通だ」
知りたいことはいくらでもあった。日本政府が戸張をどこまで利用し、特殊装備や高階層素材のどこまでを彼に頼っているのか。公表されている五級という資格に対して実際の攻略深度はどの程度で、ANVILへの所属にも表向きとは別の役割があるのか。
もし日本の高階層進出を支える一要素なら、戸張がしばらく活動できなくなるだけでも影響は出る。本人から情報を得られれば、日本側の速度を削るだけで終わらず、中国側へ持ち帰れるものが生まれる可能性もあった。
「生きたままですか」
「その方がいい」
「亀山の時と同じだ」
「報酬は違う」
そこで初めて、向かいの男が少し前へ出た。
「どれくらい?」
「成功後に話す」
「それで人が動くと思ってる?」
「君はもう話を聞いている」
「性格悪いなぁ」
軽い口調とは反対に、その目は戸張の写真へ戻っていた。前回は、配信で名の売れた亀山一人を生きたまま渡せば最大三千万という仕事だった。それでも実行役を集めるには困らなかったのだから、今回の相手にどれほどの値段が付くのかには興味があるらしい。
「普通に襲ったら、七人と同じになりますよ」
「人数を増やすつもりはない」
「じゃあ銃でも使う?」
「戦わせる時点で失敗だ」
中国側の男は即座に切った。戸張が七人を生け捕りにした事実は無視できないが、探索者の身体能力はダンジョン内部で最も強く表れ、外へ出れば低下する。少なくとも、戸張だけがその原則から完全に外れていることを示す情報は掴めていなかった。
ダンジョンの中や、入口があると思われる区域で相手をする理由はない。本人が襲撃だと理解して構えれば、七人の時と同じ失敗へ近づく以上、戦闘そのものを成立させない方法を選ぶ必要がある。
「事故なら?」
向かいの男が言った。
「即死は困る」
「死なせる話はしてませんよ。事故に巻き込まれて、しばらく動けなくなる。その後で消える」
中国側の男は返事を急がなかった。戸張が狙われたと日本側へ悟られれば、中国から接触を受けた過去まで含めて調べ直される。以前より厳しい捜索が始まるのは避けられない。
それなら、最初に残すべきなのは襲撃の痕跡ではなく、交通上の事故として処理できる外形になる。事故後も本人を生かし、現場で戸張と戦わず、ダンジョンがあると推定している地域にも近づかないという条件まで男が口にすると、向かい側は露骨に面倒そうな顔をした。
「多いな」
「七人使って失敗した人間の後始末をした側だからな」
「それ、俺に言う?」
「君は亀山で失敗している」
「お互い様じゃないですか」
初めて、中国側の男が口元をわずかに動かした。
「だから二人で話している」
その場で決めたのは、戸張を殺さず確保するという方向までだった。何も持っていなければ長く追ってきた疑問が一つ消えるだけだが、これまで拾った点が本当に一本へ繋がるなら、戸張一人の価値は当初の見積もりから大きく変わる。
日本の進展を遅らせるだけで済むのか、その先まで狙えるのかは、本人から何を引き出せるかを見てから決めればよかった。
◇
「顔だよなぁ……」
暗渠を出て家へ向かう間も、考え始めると結局そこへ戻ってしまう。
サチは服を着られて髪の長さも調整でき、師匠も狼らしさを少し薄める程度ならできると分かった。何も分からなかった時よりは進んでいるはずなのに、地上へ連れ出す光景を想像すると、サチの白い顔だけがどうしても残る。
「普通の仮面を探すしかないか」
小人に任せる案はいったん保留にした。装備なら迷わず頼めるが、街中で少女が着けていても周囲を驚かせない物となると、求めている性能からして普段とは違う。
既製品で使えそうなものがあるのか調べようとして端末へ手を伸ばし、歩きながら画面を見るのも面倒なのでやめた。帰宅してから、仮面や大型犬用の首輪までまとめて探せばいい。
師匠に首輪を着けるところだけは、どうにも想像すると笑えてくる。
「本人は気にしなさそうなんだよなぁ」
九層で何度も転がされた身としては、首輪を選ぶ側に回る日が来るとは思っていなかった。大型犬として通す以上はリードも用意した方が自然だろうが、あの師匠を俺が散歩させているのか、俺が連れていかれているのかは見た目だけでは怪しくなりそうだった。
サチの方も、最初から完璧に街へ溶け込ませる必要があるのかと考え始めていた。人の少ない場所や時間を選んで短時間だけ外へ出し、何が目立つのか実際に確かめてから服装を変える方が、頭の中だけで全部揃えるより早いかもしれない。
そこまで考えてから、結局その最初の一回に何を着せるのかという問題へ戻ってしまう。肌の色の問題もあるな。
「堂々巡りだな」
大樹から慎重すぎると言われた理由が、少しだけ分かった気もする。ただ、あの木の感覚で「大丈夫」と、人間社会の中で「大丈夫」は同じ言葉でも無理がある。
政府へ相談は没だ、サチと師匠の出自を説明するところから始めなければならない。
嘘や黙秘を貫く事も不可能ではないが、さすがになけなしの良心が痛む。
「まず自分で試すか」
答えとして決まったというより、考え続けても同じところを回るので一度動いてみようという程度だった。境界を越えられるか確認して、人目の少ないところへ少し出してみる。その結果を見てから次を考えれば、少なくとも今より材料は増える。
家へ着いたら大型犬について調べて、サチに使えそうな服も探す。その程度なら今日のうちにできるだろうと考えながら、戸張はいつもの道を歩いていた。
「……まあ、どうしようかなぁ、ではあるけど」
完全に答えが出たわけでもなく、昨日からの悩みを少しだけ先へ送ったところで、道路側からタイヤが路面を強く擦る音が届いた。
顔を向けた時には、こちらへ迫る車体が視界を大きく塞いでいた。避けるために身体を動かそうとした直後、戸張の全身へ激しい衝撃が叩き込まれた。




