第375話 合格
「届かなかったね」
青年は笑った。
「いいや、届くさ」
剣先へ視線を向けると、そこに一匹の線虫がいた。髪の毛より細い身体を剣先へ巻き付け、僅かに頭を持ち上げているのを見て、青年の笑みが止まる。
「……え?」
次の瞬間、線虫が剣先から跳ねた。
顔を逸らしたばかりの青年が反応するより早く、白い糸のような身体が眼球へ触れる。そのまま瞼の隙間へ潜り込み、姿が消えた。
「――っ!」
青年が目を押さえた直後、初めて聞く本気の悲鳴が上がった。数歩後ろへ下がったところで足をもつれさせ、白い床へ膝をつく。
両手で顔を覆っても何かを止められる様子はなく、身体を丸めたまま床を転がり始めた。
「が、ああっ、待っ――なんで、これ……!」
さっきまで余裕しかなかった声がひっくり返っているのを聞きながら、俺は刀剣を下ろした。
「神性が何をもって発生するのか分からないけど、信仰の対象ならチャンスがあるとは思ってな」
それが正しかったのか、別の理由があったのかまでは分からない。ただ、今まで何をしても傷一つ付かなかった相手が、目の前で床を転がっている。
青年は片目を押さえたまま、指の隙間から何度も白い何かを作ろうとしていた。だが形になる前に崩れ、周囲の床まで不規則に盛り上がっては沈んでいく。
やがて悲鳴が小さくなり、全身を大きく一度震わせた後、青年は横向きに倒れた。しばらく細かな痙攣だけが続き、それも次第に収まって、とうとう身体が動かなくなる。
「……終わったか?」
近づく気力までは残っていなかったので、その場から様子を見る。すると青年の閉じた瞼が僅かに動き、反射的に刀剣を持ち上げかけた。
赤くなった眼球の端から出てきたのは、さっき潜り込んだ細い線虫だった。
「お疲れさん」
一仕事終えたように青年の頬へ降り、ゆっくりこちらへ向かってくる。俺はその場へしゃがんで手を差し出した。
線虫が指先へ触れ、そのまま手の甲まで這い上がる。腕へ進むのかと思ったが、途中で身体を持ち上げたため、顔の近くまで手を運んだ。
下瞼へ触れた線虫が、その隙間から身体の中へ入り込む。
「おかえり」
返事はなくても、それでよかった。身体の奥へ馴染んでいく感覚を確認したところで脚から力が抜け、白い床へそのまま座り込んで刀剣を横へ置く。
疲労は限界に近かったし、今度こそ終わったと思った。
「んー、合格!」
背後から声が聞こえ、ゆっくり振り返る。さっきまで床へ倒れていたはずの青年が、何事もなかったように立っていた。
「…………」
潰したはずの目は元通りで、血どころか服に傷すら付いていない。
「終わったわ」
もう構える気にもならなかった。ここまでやって駄目ならどうしようもないと、俺はそのまま仰向けになり、白い床へ背中を付ける。
「いやいや、合格だって」
青年が歩み寄り、真上からこちらの顔を覗き込んでくる。さっきまで殺し合っていた相手とは思えないほど楽しそうだった。
「悪いけど、本体はこっちじゃないんだよ」
青年が指を向けた先には、白い世界へ一本だけ存在している白と緑の大樹が立っていた。
「そりゃないよ」
「ごめんごめん」
青年は笑ったまま輪郭を薄くし、その姿が白い空間へ溶けていく。代わりに、頭の中へ直接響くような声が聞こえた。
『いや、悪いね。ちょっと眷属たちから面白い話を聞いたものだから、テストも兼ねて試してみたんだ』
さっきまでの青年と同じ声のはずなのに、随分印象が違った。中性的な声なのに、喋り方だけ聞いていると久しぶりに会った親戚のおじさんみたいだった。
『まあ、あれだけ疑わせても最後まで手放さなかったし、私にもちゃんと一撃届かせた。文句なしだね』
「眷属?」
『ここ』
言われて大樹へ目を向けると、幹の後ろから少女型が顔を出し、その少し下から老狼までこちらを覗いていた。
「お前ら……」
少女型は笑ったような表情を浮かべ、老狼は座ったままこちらを見ている。
『あの子たちが随分気に入っていたみたいでね。どんな人間なのか少し興味が湧いたんだ』
俺は仰向けになったまま目を閉じた。
「最初から全部、試験だったんですか」
『いや。あの子たちが君と遊んでいたのはあの子たちの意思だよ。私は後から話を聞いただけ。君がここまで来るのも、もっと先だと思ってたしね』
思っていたより早く来たことが、かなり面白かったらしい。
『さて』
声が少しだけ近くなった気がした。
『今度は嘘なしでいこうか。物語で言うところの、七割くらいのネタ晴らし』
「七割なんだ」
『全部知っているわけでもないからね。それに、君も喋るのはしんどいでしょう。本当に気になるところがあれば聞いてくれればいい』
一拍置いて、声が続く。
『頭へ直接流し込むこともできるけど、人とこうして喋るのは久しぶりなんだ。しかも日本から来た。せっかくだし、ゆっくり喋らせてもらうよ』
日本に何か思うところでもあるのかと考えたが、それを聞くより先に声が続いた。
『まずはダンジョンからだね』
大樹の枝が僅かに揺れる。
『正直に言うと、これは私にも分からない』
「管理者なのに?」
『あっ管理者は嘘』
それは酷い。
『分かっている範囲では、私がいた世界を材料にした複製を、何者かがあちこちへばら撒いている。場所によって切り取られた時代も環境も違うみたいだね』
森や砂漠、沼地に墳墓まで、これまで歩いてきたいくつもの場所が頭の中へ浮かんだ。
『誰がやっているのか、何のためなのか。その辺りになると私にも分からない。神様の気まぐれ、と言ってしまうのが一番楽かな』
「神様の話をするんですね」
『そこはややこしいんだよ』
少し笑った気配がした。
『こんなことが実際に起きている以上、私より上に何かいると考えるしかないでしょう。自分が一番上だと思い込めるほど、私は自信家じゃないからね』
大樹の葉が音もなく揺れる。
『もちろん、今ここにいる私も複製の一部だよ』
「あなたも?」
『そう。私も元の世界では神として崇められていてね。そのせいで中途半端に神性を持っている』
さらりと言われたが、かなり大きな話だった。
『本来の私は世界中へ浸透しすぎて、自分とそれ以外の境目がかなり曖昧になっていた。自我も薄くなっていたんだけど、ここへ一部分だけ抽出されたせいで、逆にこうして個としての意識が戻ったみたいだ』
「それで、木なんですか」
『今の私はね。さっきの人間の姿は話しやすいように作っただけ。もっと言うと、本体は樹でもない。文字通り、生物全てさ』
俺は横になったまま大樹を見上げた。そこまで来ると、何が本体なのかという言葉自体が怪しくなってくる。
『それで、君が一番知りたいところ』
声の調子が少し変わった。
『君の中にいるその子。あれは確かに私と同じものだよ』
思わず身体を起こす。
「同じ?」
『正確には、私であって私ではないものかな』
大樹の後ろでは、少女型がこちらを見たまま幹へ背中を預けていた。
『複製された部分が限定されすぎたんだと思う。あの子には最初、自我らしい自我がなかったでしょう?』
初めて寄生された頃を思い返せば、今との違いはかなり大きい。
『能力と性質だけを抜き取られて、そこから始まったようなものだね。ただし、元になったものが危険な存在だったという話まで嘘にはできない』
「それは……あなた自身だから?」
『そういうこと』
声は軽かった。
『全てを同化して、全てを一つにする。それが本来、あの子が辿り着こうとする形だよ。私自身、そういう性質だったからね』
前に青年の姿で聞かされた話と重なる部分はある。ただし、宿主を操っているという先ほどまでの説明とは、決定的に違っていた。
『本来なら、その能力を人間が手に入れた時点で話はかなり早い』
「早い?」
『例えば、国の上の方へ寄生させる』
あっさりと言われた。
『政治でも行政でも軍でもいい。命令を出す側へ入り込めば、その次はもっと簡単になる。そこからさらに広げれば、世界中へ増やすのも難しくないでしょう?』
「……まあ」
考えたことが皆無だったとは言えない。
『その気になれば好き放題できるよ。金も権力も、安全な暮らしも。人間が欲しがるものは大抵手に入る』
声が少し笑う。
『でも君、やらなかったでしょう』
俺は黙った。
『たぶん、もっと興味のあることがあったんじゃない?』
否定する材料はなかった。国をどうこうするより、次の階層に何がいるのかを気にしていた時期は確実にある。
『まあ、それはそれとして』
大樹の声が続く。
『その子は成長する途中で、かなり困ったと思うよ』
「困った?」
『なんて不合理な行動をするんだ、この宿主は、って』
「失礼だな」
『私から見てもそう思うから仕方ない』
老狼が鼻を鳴らし、こちらを見た。笑われたような気がする。
『大事なのは、その過程なんだ』
今度は少し落ち着いた声になる。
『生き物には個がある。それを理解させるのは、あの性質を持った存在にはかなり難しい。何しろ、元々は全てを一つにする側だからね』
その存在へ、一つにせず残すことを覚えさせる。
『何度か選択する場面があったはずだよ。取り込んだ方が便利だったり、支配した方が簡単だったりする場面で、君は相手を相手のまま残す方を選んだ』
小人や白い群体、寄生個体、これまで関わってきた人間たちまで、思い当たる相手はいくつもいた。
『それを見て、その子も覚えたんだろうね。自分以外の何かを、そのまま存在させるという考え方を』
「俺が教えた?」
『結果としてはね』
少し間を置いてから、大樹が付け加える。
『まあ、それが正しいとも限らないけど』
「そこは断言してくれないんですね」
『一つにしちゃえば色々便利だろうし』
「怖いこと言うなあ」
『私にとっては普通の話だからね』
さっきまで殺し合っていた相手とこんな話をしていること自体がおかしかったが、身体の疲労が酷すぎて考える方も追いつかない。大樹の後ろでは、少女型がいつの間にか座り込み、老狼も伏せていた。
『さて』
声が一度途切れた。
『とりあえず、ここまでかな』
白と緑の枝がゆっくり揺れた。
『知りたいことはある?』




