第374話 最後の一歩
管理者を名乗る青年との戦いは、始まってからずっと噛み合わなかった。こちらの攻撃は届いているのに、避けられているだけでも、防がれているだけでもなく、刃が触れても傷そのものが残らない。
青年が伸ばした白い塊を刀剣で切り払い、そのまま踏み込んだ。右から振った刃は肩口へ届いたが、服も皮膚も切れず、抵抗さえ感じないまま抜けていく。
「だから無駄だって」
青年は半歩だけ位置を変え、こちらへ手を向けた。床から白い柱が突き上がったため、白鎧の脚部を厚くして跳び、柱の側面へ白い糸を絡める。
引く力を利用して身体を振り、そのまま青年の背後へ回った。短柄の戦斧へ持ち替えて首元へ叩き込んだが、刃が触れても傷一つ残らない。
「君からの攻撃は通らないよ。神性を持たない攻撃なんて、私には意味がない。たかだか虫一匹と、人間如きじゃあね」
白い壁が横から迫り、白鎧を厚くして受けても身体ごと吹き飛ばされた。床へ落ちる直前に糸を伸ばし、衝撃を逃がしながら着地する。
「まだやるの? 結果は変わらないと思うけど」
「日本じゃ、神様もどきを倒す話がいくつかあってね。正直、諦める気はないよ」
「それと私を一緒にするんだ。面白いね」
青年の足元から白い床が波打ち、今度は前後から同時に壁が立ち上がった。横だけが空いていたが、老狼との稽古で散々見た誘導に近い。
空いた場所へそのまま飛び込まず、白い糸を上へ伸ばした。青年が作った構造物へ絡めて身体を引き上げると、足元で二枚の壁が激突する。
そのまま青年の頭上へ出て、戦斧を振り下ろした。青年は避けようともせず、額へ刃を受けた。
何も起こらない。
「ほらね」
こちらを見上げた青年の横から白い槍が伸びた。腹部へ突き刺さった先端を白鎧が受け止めたものの、衝撃までは消せず、身体ごと空中へ押し戻される。
着地した脚が沈んだところへ、左右から腕に似た白い構造物が迫った。刀剣で片方を切断し、もう片方を白い糸で横へ引きずらせ、その間を抜けて青年へ近づく。
刀剣を振れば身体へ届くが、傷は残らない。戦斧へ持ち替えても結果は変わらず、首へ白い糸を絡めて全身で引いた時だけ、青年の身体が僅かに前へ動いた。
一瞬だけ崩せると思ったが、青年は首へ絡んだ糸を片手で掴み、そのままこちらを引き寄せた。身体が前へ持っていかれ、手を離すより早く腹へ蹴りが入る。
白鎧が軋み、後方へ飛ばされた。刀剣を床へ突き立ててようやく身体を止めると、青年は追ってこず、少し離れた場所からこちらを眺めていた。
「やたら頑丈だね。普通なら、とっくに動けなくなってるよ」
返事をせず、呼吸を整える。
「その虫のおかげかな。そうやって役に立つところを見せて、手放せなくするんだろうけど」
外に残された白い群体や寄生個体との繋がりは切れたままだった。この空間へ持ち込めた白い資源だけを使い、作れる範囲で花を構築する。
青年へ向けて花弁を開くと、白い奔流が真正面からその姿を呑み込んだ。小規模とはいえ、ドラゴンの上半身を消した攻撃が白い世界を埋め尽くす。
攻撃が収まった後、青年は同じ場所へ立っていた。服にすら傷はなく、肩や髪にも乱れがない。
「派手だね。でも、それだけだ」
青年が笑いながら片手を振る。
「何回やっても同じだよ。君は私に傷を付けられない」
次の攻撃を避けながら刀剣を振り、また青年の身体を捉えた。傷が残らないまま白い反撃を受けたが、一合ごとに頭の中へ残っていた迷いは少しずつ薄くなっていった。
最初にダンジョンへ潜った頃を思い出す。何も知らず、初めて見る生き物に怯えながら、それでも先へ進んだ。
森では湿った土の匂いと、木々の間を抜ける風を感じた。砂漠では街の明かりが届かない夜空を見上げ、数えきれないほどの星を見た。
沼地へ行けば、水面の下から生き物の息遣いが聞こえた。深い階層へ進むほど、そこにいるものは単なる敵ではなくなり、食べ、眠り、互いに場所を奪い合っていた。
小人たちは道具を作り、装備を直し、必要ならこちらへ文句まで言う。墳墓では、最後まで正体の分からなかった少女型と老狼に何度も叩きのめされた。
青年の白い刃を避け、刀剣を振り抜く。
また傷は付かなかったが、今さらそれで手が止まることもなかった。
あれら全部が寄生体に見せられた都合のいい景色だったと言われて、そのまま頷く気にはなれない。
会社を辞める頃には、胸の中に残っていた火はほとんど消えかけていた。何かを見たいと思うことも、知らない場所へ行きたいと思うことも少なくなっていた。
ダンジョンへ潜り始めてから、その火がもう一度ついた。
最初は小さかったものが、今では消す方が難しいほど燃えている。そこへ至るまでに何が影響していたとしても、この目で見て、考えて、選んできた時間を青年の言葉一つで捨てる気はなかった。
白い塊を刀剣で受けると、腕ごと押し込まれた。膝が落ちかけたところで白鎧を脚へ回し、無理やり身体を持ち上げる。
反対側から別の塊が肩へ直撃し、身体が床を転がった。すぐに立ち上がって再び斬りかかったが、やはり刃は通らない。
「まだ立つんだ」
青年は感心したようにこちらを眺めていた。
「何をそんなに守りたいのか、私にはよく分からないな。君が見てきたものなんて、その虫を手放したところで消えたりしないのに」
何度繰り返しても結果は同じだった。
寄生体の正体も、青年がどこまで嘘をついているのかも、今の俺には答えを出せない。それでも、ここまで来た自分自身まで否定する理由はなかった。
さらに数度打ち合ったところで、刀剣の切っ先が青年の頬を掠めた。
青年はほんの少しだけ頭を傾け、触れたはずの頬を指先で撫でる。そこにも傷は残っていない。
「今のは惜しかったね。ずいぶん動きも良くなった。でも、惜しいだけじゃ意味がない」
白鎧は至るところで欠け、右腕には痺れが残っている。左脚へ体重をかければ痛みが増し、使える白い資源もかなり減っていた。
青年はほぼ無傷のまま、こちらを見ている。
次の攻撃を受けきれず、とうとう片膝が床へ付いた。刀剣を支えに上体だけは起こしたが、視界の端が狭くなり始めている。
老狼に初めて叩きのめされた時のことが浮かんだ。
あの時は、負けたと素直に認められた。力も技術も向こうが上で、それだけの話だった。
今回は違う。
今まで積み上げてきたものを否定され、それに頷いたまま終わる気にはなれなかった。
青年がゆっくり歩いてくる。
「やっと限界かな。やたらタフだったね」
刀剣を持つ手へ力を込めると腕が震えた。青年は数歩手前で止まり、不快そうに眉を寄せる。
「本当に諦めが悪い。今ここで差し出せば命は助けるよ。それどころか、新しい力を与えてもいい。今の君より、もっと強くしてあげられる」
俺は左手を顔へ持っていき、汗で額へ張り付いた髪を掻き上げた。
「君にとって悪い話じゃないと思うけどな。危険な虫を手放して、命も助かって、今より強くなれる。それでも嫌なの?」
「まあ」
手を下ろし、そのまま刀剣の柄を握り直す。
「理解なんてできないよな」
青年が僅かに目を細めた。
「まだそんなことを言ってるんだ」
残っている白鎧を脚へ集中させた。胴や腕を覆う白い層が薄くなる代わりに、両脚の外殻だけが厚くなる。
防御へ回せる量は、ほとんど残らない。
刀剣も戦斧も白い糸も花弁も試した。
どれも駄目だった。
それでも一撃を入れる。
今考える必要があるのは、それだけだった。
俺は腰を落とし、刀剣を腰だめに構える。
「まだやるの?」
答えず、青年を見る。
「本当に懲りないね。まあ、好きにすればいいよ」
青年は構えもしなかった。ここまで何度攻撃を受けても無傷だった以上、避ける必要すら感じていないらしい。
脚へ集めた白鎧へ力を込め、一気に踏み込んだ。白い床が後方へ流れ、青年との距離が一瞬で縮まる。
刀剣を真っすぐ突き出しても、青年は動かなかった。
剣先が顔へ迫る。
鼻先へ届く直前になって、青年はようやく頭を僅かに横へ傾けた。
突きは、その顔の直前で止まった。
「届かなかったね」
青年は笑った。




