第365話 行けるかも
弟のスマートフォンが震えたのは、朝食の途中だった。
家族へ事情を説明した後の食卓は、普段より明らかに静かだった。両親から質問されるたび、草色ジャケットが間へ入り、弟が仕事へ参加していないことから順番に説明している。
スマートフォンは、テーブルの端に画面を上へ向けて置かれていた。
『どうする?』
短い文面を見て、弟が箸を止めた。
「来た」
「開くなよ」
「分かってる」
「警察へ連絡する」
「それも分かってるって」
草色ジャケットは昨日渡された番号へ電話をかけた。数回の呼び出し音の後、警察署で聞き取りを担当した男性警察官が応じる。
「おはようございます。草色です。今、弟の端末へ連絡が来ました」
『文面を教えてください』
「『どうする?』だけです。まだ開いていません」
『分かりました。弟さんは、今も協力する意思がありますか』
草色ジャケットが弟を見ると、弟は一度だけ頷いた。
「変わっていません」
『では、こちらから文面をお伝えします。普段の言葉に直して構いませんが、余計な質問は加えないでください』
通話をスピーカーへ切り替える。
『参加できる可能性があることと、集合場所を知りたいことだけを伝えます。弟さんなら、普段どう書きますか』
弟は通知画面を見ながら考えた。
「『行けるかも。どこ集合?』くらいです」
『それでお願いします』
「親に何て言うかとか、書かなくていいんですか」
『今は不要です。相手から聞かれた時に考えましょう』
弟はメッセージを開き、入力欄へ指を置いた。昨日までは断るための言葉を考えていた相手へ、今日は参加できるかもしれないと送ろうとしている。
「送るぞ」
「俺に確認すんなよ」
「兄ちゃん、あとで勝手に送ったとか言いそうだし」
「言わねえよ」
弟は入力した文面を送った。
『行けるかも。どこ集合?』
返事は一分ほどで届いた。
『駅の北口』
続けて、時刻と自転車置き場の近くという指定が送られてくる。
『時間には絶対遅れんな』
『スマホは持ってきていいけど向こうで預ける』
草色ジャケットは文面を読み上げた。
「場所が来ました」
『そのまま触らずにいてください。弟さんを集合場所へ向かわせることはありません』
弟がスピーカーへ顔を近づける。
「でも、俺が行かなかったら、向こうは帰りませんか」
『可能性はあります。そのため、集合時刻が近づいた段階で、こちらから遅れるという連絡をお願いするかもしれません』
「友達も来るんですよね」
『現在の文面だけでは分かりません。まず、集合場所へ誰が現れるか確認します』
「もし友達だけだったら?」
『その時点で本人へ接触するか、後ろにいる相手を待つかは、現場で判断します』
弟は納得し切れない顔で草色ジャケットを見る。
「俺が行かないせいで、あいつが怒られたりしないかな」
「お前が行って一緒に怒られるよりはいいだろ」
「そういう話じゃなくて」
『弟さん』
警察官の声が割って入った。
『同級生を心配する気持ちは分かります。ただ、弟さんが現場へ行けば、守る対象が一人増えます。相手が予定と違う車を使ったり、集合場所を急に変えたりした場合、確実に保護できるとは限りません』
「……はい」
『今できる協力は、普段どおり学校へ行き、相手から何か言われたら覚えておくことです。こちらから聞くまでは、仕事の詳しい内容を探ろうとしないでください』
「分かりました」
通話を終えると、母親が冷めかけた味噌汁を弟の前へ置き直した。
「学校、休ませた方がいいんじゃないの」
「休んだら、あいつに警戒されるかもしれない」
「でも」
「警察も普通に行けって言ってるし」
弟は箸を持ち直したが、食事へ戻る前に草色ジャケットを見る。
「兄ちゃん、今日は仕事?」
「休む」
「別にいいって」
「お前を送って、警察と連絡取るだけだ」
「過保護じゃね」
「昨日まで犯罪者の車に乗るかもしれなかった奴が言うな」
「乗らねえって最初から言ってただろ」
弟の声に、少しだけ普段の調子が戻った。
登校時間になり、草色ジャケットは弟を学校の近くまで送った。校門の手前で降ろすつもりだったが、弟は一つ前の交差点で車を止めさせた。
「ここでいい」
「学校まで行くぞ」
「兄ちゃんの車で校門まで行ったら、何かあったって分かるだろ」
「普段送ってないからか」
「そう。今日は普通にしろって言われたんだろ」
草色ジャケットは返す言葉を失い、路肩へ車を寄せた。
「連絡来ても勝手に返すなよ」
「分かってる」
「直接何か言われても、その場で約束するな」
「分かってるって」
「知らない奴がいたら」
「逃げて先生か警察。もういい?」
「まだ三つくらいある」
「遅刻するから帰って」
弟は鞄を肩へ掛けて車を降り、数歩進んだところで振り返って、開いた窓へ顔を向けた。
「兄ちゃん」
「何だ」
「昨日、警察に言ったことはもう怒ってない」
「半分だけ取り消したんじゃなかったのか」
「今ので残りも取り消した。だから帰れ」
「素直じゃねえな」
「兄ちゃんにだけは言われたくない」
弟は片手を上げて校門の方へ歩いていった。草色ジャケットはその姿が見えなくなるまで待ち、警察へ登校したことを伝えてから車を動かした。
昼休みになる少し前、弟から短い連絡が届く。
『あいつに話しかけられた』
返信せず警察へ転送したくなったが、勝手な共有は止められている。草色ジャケットは担当者へ電話をかけ、受け取った文面だけを伝えた。
しばらくして、弟から二通目が来る。
『あとで話す』
学校に乗り込む衝動を抑え、草色ジャケットは自宅で待った。
弟が帰ってきたのは、普段より少し早い時間だった。玄関を開けるなり靴を脱ぎ、居間の椅子へ鞄を置く。
「何言われた」
「ただいまくらい言わせろよ」
「おかえり。何言われた」
「変わんねえじゃん」
弟は冷蔵庫から麦茶を出し、コップへ注いだ。半分ほど一気に飲んでから、椅子へ座る。
「朝、行けるかもって送っただろ。それで昼に、助かったって言われた」
「助かった?」
「自分一人だと、上の奴にまた何か言われるって」
「何を言われる」
「そこまでは聞いてない。俺から探るなって言われてたし」
「よく我慢したな」
「何だと思ってんだよ」
「友達のためなら突っ込む奴」
「それ兄ちゃんだろ」
弟はコップを両手で包んだ。
「手の包帯、昨日より厚くなってた」
「荷物で擦っただけじゃなかったのか」
「聞いたら、ぶつけたって。あと、今日の仕事には絶対来いって言われた」
「友達に?」
「うん。途中で帰るとか、やっぱ無理とか言うと困るって」
「そいつも一緒に行くのか」
「行く。俺を連れていかないと、自分が金を引かれるらしい」
草色ジャケットは担当の警察官へ連絡した。
聞いた内容を弟自身から説明するため、通話をスピーカーへ切り替える。警察官は言葉を急がせず、同級生が使った表現を順番に確認した。
『金を引かれると言ったんですね』
「はい。紹介できなかったら、前にもらった分から引かれるって」
『具体的な金額は聞きましたか』
「聞いてないです」
『その場に、ほかの生徒はいましたか』
「少し離れた所にはいました。でも、会話を聞いてたかは分かりません」
『分かりました。これ以上、その同級生から事情を聞き出そうとしなくて構いません』
「今日、集合場所には来ますよね」
『その可能性は高くなりました』
「捕まえるんですか」
『まず、安全を確保します。その後で、誰から何を指示されていたか確認します』
「上の奴まで待つんですよね」
短い間が空いた。
『現場の判断になります。弟さんへお伝えできるのは、集合場所へは絶対に近づかないでほしいということです』
「分かりました」
通話を終えた後、弟は麦茶の残りを飲んだ。
「やっぱり、あいつも断れなくなってたんだな」
「そうみたいだな」
「なら警察へ言ってよかったって思っていいのかな」
「まだ何も終わってないぞ」
「分かってる。でも、黙ってたら、俺も同じ側に入ってたかもしれないだろ」
草色ジャケットは返事をせず、弟の肩を軽く叩いた。集合時刻の一時間前になると警察から連絡が入り、家族に外出を止められて少し遅れると送ってほしいと指示される。
到着時刻は書かず、相手からの返答を待つ。
「『親に止められてる。少し遅れる』でいいですか」
『普段の言い方なら、それでお願いします』
弟が送信すると、同級生からすぐに返事が届いた。
『早く来い』
『俺が怒られる』
弟の顔から表情が消え、そのまま画面を見ていると、さらに一通届いた。
『駅着いたら電話して』
警察官は、その文面を聞いても声を変えなかった。
『これ以上は返信しないでください。こちらから連絡するまで、自宅にいてください』
「友達はもう駅にいるんですか」
『確認中です』
「誰か迎えに来たら」
『こちらで対応します』
通話が切れた後も、弟はスマートフォンを握ったまま離さなかった。集合予定時刻を過ぎると、同級生から着信が一度入り、すぐ切れた。
続けてメッセージが届く。
『どこ』
弟は草色ジャケットを見る。
「返すなよ」
「分かってる」
『もう車来てる』
次の文面を見たところで、警察から電話が入った。
『車両と、迎えに来た人物を確認しました』
草色ジャケットはスピーカーへ切り替えた。
「友達は無事ですか」
『今のところ、危険な様子はありません。複数人が同じ車両へ乗りました』
「弟の同級生も?」
『乗車を確認しています』
弟が身を乗り出す。
「止めないんですか」
『今ここで止めると、送迎を担当している人物までしか確認できません』
「じゃあ、ついていくんですか」
『これ以上はお話しできません。弟さんは、そのまま自宅にいてください』
「友達は」
『必ず安全を優先します』
その返答を最後に通話が終わり、弟はしばらくスマートフォンを見つめた後、テーブルへ置いた。
「俺が行くって言わなかったら、車は来なかったのかな」
「お前のせいじゃない」
「でも、俺を待ってたから場所が分かった」
「だから協力したんだろ」
弟は頷いたものの、表情は晴れなかった。草色ジャケットも続ける言葉を見つけられず、壁の時計へ目を向ける。
送迎車がどこへ向かい、その先で警察が何を見つけるのか、二人には知らされていなかった。




