第359話 始まりの一匹
老狼が近づくにつれ、石床を踏む爪の音だけが広間へ残った。
少女もその後ろから歩いてくる。白い髪は既に蔓の形を解き、腰の辺りでゆるく揺れていた。頭上にあった巨大な花も消え、先ほどまでホワイトスウォームをまとめて削っていた姿には見えない。
戸張は片膝をついたまま戦斧を持ち上げようとしたが、右腕へ力を込めても、刃先は石床から僅かに浮くだけだった。白鎧はほとんど崩れ、身体の表面に残っている糸も傷口を塞ぐために使われている。
老狼が数歩先で止まる。
息は乱れておらず、戸張が刻んだ傷も既に閉じていた。灰色の毛の上には白い外殻が薄く残っているが、背中の蔓は収納され、花弁も見当たらない。
少女は老狼の横へ並び、顔のない頭を戸張へ向けた。
何を見ているのかは分からない。それでも、もう一度立てるかを確かめられているように感じた。
「さすがに、ここまでか」
声にした途端、力が抜けた。
老狼との戦いに使った群体は戻ってこない。少女へ向けた個体もほとんど残らず、迷宮の各所から呼び寄せた白い群体の反応も途切れている。
寄生体まで使い切った。
身体の内側に残る繋がりは細く、白い糸を増やそうとしても、傷口の周囲が僅かに動くだけだった。
今まで倒してきたものを思い出す。
ゴブリン、獣、巨大な鳥、森砕き、異形の大型個体。人間より遥かに大きなものを何体も殺し、その核や身体を利用してここまで来た。
戸張だけで築いたものではない。
寄生体が入り込み、群体が増え、倒れた個体の力を受け継いだ。その積み重ねの先に今の身体があり、足元には数え切れない死骸がある。
その一番上へ、自分が横たわるだけだった。
別に不思議な話でもない。勝ち続ける保証を誰かに貰った覚えはなく、ダンジョンへ潜るたび、いつか戻れなくなる可能性は考えていた。
しかし、実際に終わりが近づくと、思い浮かぶのは国や家族ではなかった。
胸の奥に残る、細い繋がりへ意識を向ける。
「もっと色んな景色を、お前と見たかったな」
寄生体から感情は返らず、反応できるだけの力が残っているのかも分からなかった。言葉の意味が伝わったこと自体、一度も確かめられていない。
それでも、最後に口へ出したかった。
少女の髪が持ち上がる。
一本だけが細く伸び、戸張の顔へ向いた。槍のような先端は作られず、白い糸を密に束ねただけの蔓が、ゆっくりと右目へ近づいてくる。
戸張は避けなかった。
避ける力も残っておらず、老狼が前にいる以上、身体を倒したところで結果は変わらない。
蔓の先が眼球へ触れる。
反射的に瞼を閉じるより早く、白い束が眼窩の奥へ入り込んだ。
痛みはなかった。
眼球を潰された感触も、骨を抜けた衝撃もない。ただ、頭蓋の中へ冷たい指を差し込まれ、脳の表面を探られているような不快感だけが広がった。
「うっ……」
身体を引こうとしても、老狼が前脚で肩を押さえた。
力任せに踏みつけられてはいない。それでも今の戸張には、その程度の重さすら動かせなかった。
蔓が頭の奥を探るたび、何かがずれていく。
記憶を抜かれている感覚とは違う。名前も、家族の顔も、ここまで来た道も消えていない。
代わりに、自分の身体の一部だと思っていたものが、少しずつ遠くなる。
白い糸の位置が分からなくなり、傷口を塞いでいた寄生体の動きも感じ取れなくなった。迷宮へ散っていたホワイトスウォームとの細い繋がりまで、一つずつ途切れていく。
「何を……」
言葉を続ける前に、胸の奥が空になった。
何かを失ったことだけは分かるのに、それが何だったのかを考えることすら難しい。長く身体へ馴染んでいた器官を、存在した痕跡ごと引き抜かれたようだった。
少女が蔓を引き戻すと、その白い束の先に小さなものが絡め取られていた。
線のように細い身体が、少女の前で僅かに身を捩っている。両端の違いも判別しにくいほど小さく、何かへ寄生していなければ、床へ落ちた糸くずと見分けられなかったかもしれない。
戸張はそれを見た瞬間、自分の中から消えたものを理解した。
「お前……」
視覚で見覚えがあったわけではない。
繋がりを抜かれた瞬間に生まれた空白と、少女の蔓に拘束された小さな線虫が、同じものだと分かった。
戸張にとって全ての始まりとなった一匹が、身体を持ち上げようとしている。
しかし、周囲には煌めく糸が何重にも巻きついていた。身を捩るたびに別の糸が締まり、少女の花弁から離れることも、戸張へ戻ることもできない。
これまで巨大な群体を動かし、戸張の身体を作り替えてきた存在とは思えないほど、その小さな身体は震えていた。
老狼へ立ち向かった時にも、巨大な花を前にした時にも感じなかったものが、今になって戸張へ伝わってくる。
怯えている。
少女は顔のない頭を下げ、線虫へ髪の先を触れさせた。その動きは、細い身体を撫でているように見えた。
拘束とは別の一本が、線虫を傷つけないようゆっくりと表面を滑っていく。その仕草には敵意も乱暴さもなく、失くしたものを久しぶりに見つけた者のような静けさがあった。
線虫は少女へ向けて身体を曲げた。
自分から身を預けたのか、拘束されたまま動ける方向へ向いただけなのか、戸張には分からない。
老狼も隣で伏せ、少女と線虫を見ていた。
三体の間にどのような関係があるのか、考える材料は何もない。壁画の白い人型、老狼を補強した四体、目の前の少女、そして自分の中にいた線虫が同じ系統なのかさえ確定できなかった。
ただ、少女が線虫を懐かしんでいるように見えたまま、無言の時間が続いた。
戸張は膝をつき、花弁の上にいる線虫から目を離せなかった。寄生体を抜かれた身体は空洞になったように重く、残っていた傷も治る気配がない。
このまま連れていかれるのかもしれないと思った頃、少女の手が止まった。
顔のない頭が再び戸張へ向き、線虫を絡めた蔓が持ち上がる。
少女は言葉を発さず、先ほどと同じ蔓を戸張の右目へ向けた。
二度目も痛みはない。
眼窩の奥へ白い束が入り、頭蓋の内側を探られる不快感が戻ってきた。今度は抜かれるのではなく、空になった場所へ何かを押し込まれている。
線虫の姿が少女の花弁から消えた直後、胸の奥へ小さな感覚が戻った。
最初は一つの点だった。そこから細い糸が伸び、傷口へ触れ、戸張の身体の形を確かめるように広がっていく。
寄生体との繋がりが戻った。
以前より強くなった様子も、言葉が通じるようになった感覚もない。ただ、抜かれる前と同じ場所へ、同じものが戻されたと理解したところで、線虫から感情が押し寄せてきた。
恐怖、混乱、安堵。どれも輪郭が曖昧で、戸張がそう解釈しているだけかもしれない。
寄生体が傷口の周囲で僅かに動いた。
少女が蔓を引き抜く。
頭の奥をまさぐられていた感覚が消え、戸張は荒い呼吸を繰り返した。右目は残っており、視界にも大きな異常はない。
少女は戸張から離れると、床に落ちていた短柄の戦斧へ髪を伸ばした。
白い蔓が柄を巻き取り、ゆっくりと持ち上げる。少女は戦斧を自分の前へ運び、刃を首の横へ当てた。
「何を」
戸張は立とうとした。
寄生体が戻ったとはいえ、身体を支えるだけの群体は残っていない。右脚へ力を込めたところで膝が震え、上半身が僅かに持ち上がっただけだった。
少女は戸張を見ない。
髪の蔓が柄を引き、短柄の戦斧を横へ振り抜いた。
白い首が切断されたが、血は出なかった。
頭部が床へ落ちる前に輪郭がほどけ、細い糸へ変わって消えていく。身体も数歩分揺れた後、膝から崩れ、切断面から白い糸を溢れさせた。
老狼が立ち上がる。
少女の身体へ近づくのではなく、戸張の正面へ移動し、灰色の頭を一度だけ下げた。
背中から四本の蔓が伸びる。
その先で小さな花が開き、全てが老狼自身の首へ向いた。
「待ってくれ」
四つの花が同時に閉じる。
バチン、と音が重なり、老狼の頭部が消えた。
首から上だけが円形に削り取られ、残った身体はその場へ倒れる。白い外殻が石床へ触れた後、補強していた糸がほどけ、灰色の毛皮から離れていった。
少女も老狼も動かず、広間には首を失った二体と、少女が使った戸張の戦斧だけが残った。
戦闘は終わったらしい。
勝った感覚はない。戸張が倒したわけでもなく、二体が何を確かめ、何を理由に自ら命を絶ったのかも分からなかった。
寄生体が戻っていること以外は、何一つ理解できない。
「……」
戸張は膝をついたまま、首を失った少女と老狼を見ていることしかできなかった。




