第356話 巫女と老狼
巨大な扉を前に、戸張はポーションの残数を確認した。
赤いポーションは、腰の保護ケースと背負い袋へ分けている。透明なものも残っているが、今回頼るなら赤い方だった。過去に自分で使ったことはあっても、意識を失った状態で寄生体が取り出せるかまでは試していない。
試す必要が出ないのが一番いい。
戸張はケースの留め具を少し緩め、白い糸を内部へ伸ばした。瓶の首へ絡め、そのまま引き抜けることを確認してから元へ戻す。
食料と水を運んできた蜥蜴人たちは、踊り場の後方へ下がらせた。尾に針を付けた二体も残るよう伝える。扉の先がボス部屋なら、入った時点で戻れなくなる可能性が高いが、何も全員で入る必要はなかった。
連れていくのは、戦闘へ向いた個体だけでいい。
甲冑を着けた狼型、四本腕の猿型、寄生ゴブリン、蜘蛛型、蜥蜴人。通路を探索していたホワイトスウォームにも、動けるものから扉の前へ集まるよう目的を伝えてある。
迷宮の各所へ残した個体まですべて戻るには時間がかかるため、待つつもりはなかった。それでも、踊り場を埋めた白い個体の数は、通常のボスへ向ける戦力としては過剰だった。
「全員で押し潰そうか」
油断するつもりはない。
今までにも、見た目から想像した強さを大きく上回る個体はいた。九層の通常個体がゴーレムや空の鎧である以上、この先も寄生の効かない相手が出る可能性は高い。
白い糸が身体の表面へ広がり、胸や腹、肩、腕、脚を覆っていく。薄い外殻を重ね、その内側へ緩衝用の糸を編み、背中と腰から床へ複数の支点を取れるよう残した。
顔まで白鎧に覆われると、視界の端から自分の肌が消える。
背骨杖を固定し、断骨刀と短柄の片刃戦斧を確かめる。狭い場所なら戦斧、広間で大型が出るなら断骨刀。魔術も最初から使うつもりだった。
戸張は扉へ白い糸を伸ばした。
継ぎ目には虫型が集まっているものの、隙間の奥へは入り込めていない。扉そのものにも生体反応はなく、罠らしき振動も感じ取れなかった。
「開けるぞ」
背後の個体たちが身構える中、扉へ両手を掛けて押すと、これまでの石扉とは違い、ほとんど抵抗なく内側へ開いた。その奥には白いものが四体並んでいる。
人型ではあるが、人間を模したにしては身体の輪郭が足りなかった。頭部には目も鼻も耳もなく、白く滑らかな面の下部へ、人間のものに似た大きな口だけが付いている。
肩から腕、腰から脚へかけての線は太く、手足も短い。粘土を大まかに人の形へ整え、細部を作る前に動かしたような姿だった。
壁画に描かれていた白い人型と似ている。四体は戸張へ顔を向け、口の端を持ち上げると、目のない顔に歯を並べて笑った。
戸張は扉の前から動かず、広間全体へ視線を巡らせた。床は平らな石造りで、左右の壁にはこれまでと同じ壁画が続いている。天井は高く、青白い光源が広間の外周へ並んでいた。
四体以外に動くものは見えない。
「こいつらがボスか?」
白い人型は襲いかかってこなかった。
四体が左右へ二体ずつ分かれ、中央へ道を空ける。そのまま膝をつき、頭を下げた。
広間の奥から、一匹の狼が歩いてきた。
大きくはない。甲冑を着けた戸張側の狼型と比べれば身体は細く、背も低かった。灰色の毛には白いものが混じり、口元や目の周りも色が薄い。
歩幅は狭く、老いていることは見ただけで分かる。その隣を歩くもう一体の白い人型は、先ほどの四体とは輪郭が違っていた。
小学生ほどの少女を思わせる背丈で、腕も脚も細い。顔にはやはり目鼻がなく、口も見当たらなかった。頭部から腰近くまで白い髪が伸びている。
その髪のうち数本だけが、歩く動きとは関係なく空中を漂っていた。水の中へ垂らした糸のように揺れ、ときどき老狼の背中へ触れて離れる。
「狼と……女の子?」
ここまで来て、普通の老狼と子供が出てくるとは思っていなかった。
戸張が困惑している間にも、寄生体から強い警戒が届いている。広間へ入った狼型たちも姿勢を低くし、蜘蛛型が壁と天井へ散った。
白い少女も老狼も戸張を見ているだけだったが、膝をついた四体の白い人型から目を離す気にはなれない。戸張はホワイトスウォームへ、広間全体へ展開するよう意思を伝えた。
白い虫が床を覆い、狼型と寄生ゴブリンが左右へ分かれる。四本腕の猿型は中央を避けながら前へ出て、蜥蜴人たちは老狼と少女の退路を塞ぐ位置へ回ろうとした。
その動きに合わせるように、膝をついていた四体の身体が崩れた。外皮が裂けたのではなく、肩や背中から細い線が浮かび、全身の輪郭がほつれていく。
白い肉体は無数の糸へ変わり、床へ落ちることなく宙を進んだ。
「何だ?」
二体分の糸が老狼へ、残る二体分が少女へ巻きついた。
老狼の脚、腹、胸、首を覆った糸が幾重にも編み込まれ、身体に沿った外殻へ変わっていく。白鎧に似ているが、戸張のものより隙間が少なく、脚の動きを妨げる厚みもない。
少女の周囲では、白い糸が長い髪へ潜り込んだ。
数本しか動いていなかった髪が束ねられ、互いに編み込まれ、腕よりも太い純白の蔓へ変わる。蔓は床へ触れずに持ち上がり、少女の背後と頭上へ広がった。
見覚えのある変化だった。
寄生体が宿主の身体を補助し、白い外殻を作り、元の構造を別の用途へ組み直す。細部は違っても、やっていることは戸張側と似ている。
ただし、速さも完成度も違った。
「上位互換にしか見えないんだが」
変化が終わるまで待つつもりはなかった。
背骨杖へ魔力を通し、老狼と少女を敵として認識する。肩口へ浮かんだ雷球が青白く光り、直後に二筋の雷撃を放った。
同時に、広間の床へ火を這わせる。
狼型たちが左右から突入し、四本腕の猿型が少女へ向かう。蜘蛛型の糸も天井と壁から伸び、二体の周囲へ降り注いだ。
雷撃は、老狼と少女へ届く前に弾けた。
何もない空中で白い火花が散り、細い糸の輪郭が一瞬だけ浮かび上がる。二体を包むように、無数の糸が広間へ張り巡らされていた。
床を這った炎も同じ場所で途切れ、左右から入った狼型は見えない糸へ身体を取られた。甲冑が細く切れ、白い外殻の表面へ傷が刻まれる。
四本腕の猿型が腕を振り抜いても少女まで届かず、途中で糸に向きを変えられ、打撃の力を散らされていた。戸張が断骨刀へ手を伸ばした瞬間、老狼の姿が消える。
消えたと認識した時には白鎧の正面が押し込まれ、何をされたのか捉えられないまま、胸骨から腹部までがまとめて圧迫された。両足が石床から浮き、床へ支点を取る間もなく身体が後方へ飛ばされる。
壁へ衝突する直前に背中から糸を広げ、受ける力を周囲へ逃がしたが、石材を砕いて床へ落ちた。
「速っ……」
立ち上がる前に、老狼は元の位置へ戻っていた。
白い外殻をまとった姿には、さらに四本の蔓が加わっている。背中から二対に分かれて伸び、その先端が丸く膨らんでいた。
膨らみが開き、四枚の花弁に似た構造を作ると、中心へ白い光が集まり始めた。
少女の背後でも、太く編まれた髪の蔓が広がっている。
老狼のものより遥かに大きい。何本もの蔓が頭上で一つに集まり、その先へ巨大な花を作っていた。
花弁は開いた状態ではなく、何かを包み込むように閉じ始めている。内側へ集まる糸が激しく振動し、周囲の青白い光まで歪んで見えた。
進路の先には、戸張がいる。
「まずい」
離れようと足へ力を入れたが、身体が動かなかった。
広間を満たしていた煌めく糸が白鎧へ絡み、肩、腰、脚を床と壁へ固定している。断骨刀を振ろうとしても腕の可動域を削られ、刃を持ち上げるだけで糸が何重にも食い込んだ。
ホワイトスウォームが老狼と少女へ殺到する。
狼型は外周の糸へ引っかかり、寄生ゴブリンは前へ進むほど身体を切られた。蜘蛛型の糸も白い糸へ触れた場所から細かく断たれ、四本腕の猿型でさえ数歩進んだところで押し戻される。
老狼は戸張から離れたが、固定は解けなかった。少女の頭上にある巨大な花が完全に閉じ、細く絞られた先端だけが戸張へ向けられる。
糸を切って離脱する余裕はない。戸張は防御へ切り替え、白鎧の表面へ積層外殻を増やし、胸と腹へ寄生体資源を集中した。外層の内側へ緩衝用の糸を編み込み、背中、腰、両脚から床と壁へ支点を伸ばす。
森砕きの体当たりを受けた時より支点は多く、攻撃の方向も見えている。準備は間に合ったはずだった。
花の先端から白い何かが放たれたが、光には見えず、色も形も認識できない。広間を裂く音すら遅れて届き、バチン、と硬いものを強く弾いたような音だけが耳に残った。
衝撃そのものは感じなかった。
次に気づいたのは、身体の均衡が崩れていることだった。右脚へ体重をかけても腰がついてこず、上半身を支えようとした左腕も、床へ届く前に力が抜ける。
「えっ」
視界が横へ傾く。
白鎧に覆われていた胴体は、左胸の下から腰にかけて大きく失われていた。積層した外殻も、内部へ編んだ白い糸も、最初からそこになかったように消えている。
戸張の身体は残った右半身を支えきれず、その場へ倒れ伏した。




