第350話 散歩なんぞ
戸張源一郎は、家を出てから十分ほど歩いたところで、散歩の目的を見失った。
健康のために歩き始めたはずだが、健康を気にするなら距離や時間を決めた方がいい。毎日同じ道を歩けば変化も分かるだろうし、歩数を測る機能も携帯電話に入っている。
そこまで考えて、面倒になった。
今日は適当に公園まで行き、別の道から帰る。それで散歩としては成立するだろう。
新居の周辺は、まだ道を一本曲がるだけで知らない景色が出てくる。元の家では、どの道がどこへ抜けるか、考えるまでもなく足が選んでいた。こちらでは小さな公園へ向かっているつもりが、植え込みの多い住宅街へ入り、知らない家の前を歩くことになる。
犬を連れた男が向こうから来た。
茶色い柴犬だった。源一郎とすれ違う時だけ顔を上げ、鼻を動かした後、飼い主より半歩前を歩いていく。
犬を飼うなら、柴犬がいいかもしれない。
見た目もいいし、大きさも手頃に見える。ただ、柴犬は飼うのが難しいと聞いた覚えがある。誰から聞いたのかは忘れた。頑固で、抜け毛が多く、思った以上に運動が必要だったか。
それなら大型犬はどうか。大きな犬には昔から少し憧れがあった。子供が抱きついても平然としているような、どっしりした犬がいい。ただし、自分が引かれて転ぶ姿まで想像すると、さすがに年齢と釣り合っていない気もする。
犬に散歩をさせるつもりが、犬に散歩をさせられることになりそうだ。友美恵は、どちらを選ぶだろう。
猫も好きだったはずだが、猫では一緒に散歩へ出る理由になりにくい。犬がいれば、家の中も多少賑やかになる。子供二人が出ていってから、友美恵が寂しそうにしている時があるのも、源一郎は知っていた。
本人へ言えば否定するだろうから、特に口へは出していない。透とは、昔から多く話す親子ではなかった。
仲が悪かった覚えもない。源一郎が居間で本を読み、透が少し離れた場所で別の本を読んでいても、どちらも気まずくならなかった。何時間も同じ部屋にいて、交わした言葉が夕飯の時間を聞く一度きりという日もあった。
それで困ったこともなかった。ずいぶん前に、透からライトノベルを渡されたことがある。
読んでみるかと聞かれたのか、読み終わったから置いていっただけなのか、その辺りは曖昧だった。表紙だけ見れば若い人向けで、源一郎が自分から手を出す種類の本ではなかったが、近くにあったので読んだ。
異世界と日本が扉で繋がる話だったはずだ。向こうから何かが来て、日本側も扉の先へ行き、政府や軍隊が動いていた。細かい筋はもう覚えていない。巻数が続いていたので、何冊か読んだ気もする。
会社へ持っていき、休憩中に読んでいたところを若い人間に見られた。ひどく驚かれた。
その本を知っているらしく、どの人物が好きか、原作のどこまで読んだか、アニメ版は見たかと、次々に話しかけてきた。源一郎は「そうか」「へえ」「それはまだだな」と答えていただけだが、向こうは話が合ったと思ったらしい。
それからしばらく、見かけるたびに新刊の話をされた。
嫌ではなかった。内容の半分ほどは分からなかったが、楽しそうに話すので聞いていた。
現実でも異世界への扉が開くようになり、あの若者は今頃どうしているのだろう。やはり最初は喜んだのかもしれない。テレビへ映る被害や、ダンジョンから出てきた巨大な化け物を見ても、同じ気持ちでいられたかは分からない。
本の中では、もう少し順番に物事が起きていたように思う。現実は、前の問題が片づく前に次が出てくる。制度が作られたと思えば新しい事故が起き、外国で大きな被害が出たと思えば、日本から人が派遣される。昨日まで知らなかった言葉を、翌日にはテレビの出演者が当然のように使っている。
世の中に活気が戻ったという人もいる。
確かに、働き口や新しい商売は増えているらしい。若い人間が先の話をする姿も、以前より目につくようになった。その一方で、ニュースに出る人間はどれも疲れた顔をしていた。
元気になったのか、忙しくなっただけなのか、源一郎には判別がつかなかった。その変化の中へ、透もいる。
ある日、実家へ帰ってきた息子を見た時は驚いた。少し前にも顔を合わせていたはずなのに、玄関に立った姿は様変わりしていた。
社会人になってから腹の周りへ付いていた肉が消え、肩や腕は筋肉質になっていた。無理に大きくした身体ではなく、余計なものが落ちて、必要な部分だけが残ったように見えた。
体型だけなら、昔へ戻ったと言う方が近かったかもしれない。学生の頃の透は、今より細かったがよく動いた。興味を持てば一人でどこかへ出かけ、帰ってくると黙って本を読んでいた。働き始めてからは、帰省しても座ったまま動くことが減り、何をしていても身体のどこかに仕事が残っているようだった。
あの日は目が違った。以前の透の目には、曇った窓のようなところがあった。話をしていても、こちらを通り越して別の場所を見ている。疲れているのだろうと思っていたし、大人が働けばそんなものかとも考えていた。
それが消えていた。三十になった息子を若者と呼ぶのも変だが、何かに夢中になっていた頃の顔へ戻っていた。いや、昔よりも楽しそうだったかもしれない。
安定した会社を、相談もせず辞めた。親として思うところが皆無だったとは言えない。先に一言くらい話してもよかっただろうと、今でも思う。
ただ、腹が立っていたのは会社を辞めたことなのかと考えると、少し違う気がした。頼られなかったことが寂しかったのかもしれない。
相談されたところで、源一郎に何ができたかは怪しい。考え直せと言った可能性もある。安定した仕事を捨てて、正体の知れないダンジョンへ関わると聞かされれば、賛成する方が難しい。
透もそれが分かっていたのだろう。だから黙っていたのだと考えれば筋は通るが、筋が通れば寂しくなくなるというものでもなかった。
実家へ来た透は、以前よりよく話した。何をしているのか、全部を話したわけではない。話せない部分を隠しながら、こちらへ伝えられる範囲を探していたように見えた。源一郎も細かく聞き出そうとはせず、友美恵が質問を重ねる横で聞いていた。
話しているうちに、辞職への不満や、相談されなかったことへの引っかかりは小さくなっていた。消えたわけではない。わざわざ今、取り出して見せるほどでもないと思っただけだ。
結局、口から出たのは一つだった。
「今、楽しいか?」
透は少し驚いた顔をした後、楽しいと答えた。それを聞けば、あとはもうよかった。もちろん、心配は残っている。
世界中でダンジョンの問題が起こり、透はその一端へ関わっているらしい。本人は詳しく語らないが、国との繋がりがあることは、今回の転居で思い知らされた。
ある日いきなり、警備しやすい場所へ移ってほしいと言われた。最初は何を言っているのかと思った。こちらの都合を聞き、必要な手続きを説明し、費用や生活面まで丁寧に整えてくれたが、丁寧であるほど普通の事情ではないことが伝わってきた。
断れば済む話でも、しばらく待てば消える話でもなさそうだった。源一郎は、友美恵より早く転居を受け入れた。古い家へ未練がないわけではないが、命や家族の安全と比べる話でもなかった。
金銭面の不安も、最初にはあった。新しい場所での生活費がどの程度になるか、これから先、透へ負担をかけ続けることになるのか。そんなことを考えていたが、最初に振り込まれた金額を見て、桁を二度確認した。
入力を間違えたのかと思った。透へ聞くと、それで合っていると言う。毎月同じ額を送るつもりらしく、無理をしている様子もなかった。
何をすればそれだけ稼げるのか。聞いてもまともな答えは返ってこないだろうし、答えが返ってきたところで、こちらが落ち着ける内容とも思えなかった。
国が透を雑に扱えないらしいことと、生活費の心配をする段階は過ぎたこと。それだけ分かれば、今は足りる。
あとは、こちらが新しい生活をどう過ごすかだった。好きな本を読んで暮らすのも悪くない。ただ、それだけでは身体の方が先に弱りそうで、こうして散歩なんぞ始めている。
公園の入口まで来たところで、源一郎は足を止めた。柵の向こうでは、小さな犬が二匹、互いの周りを回っていた。片方が走れば、もう片方も追いかける。飼い主同士は少し離れたところで話している。
犬がいれば、散歩も続くだろう。友美恵も外へ出る理由になる。
最近の友美恵は、透の引き締まった身体を見て、自分もダンジョンへ入れば同じようになるのでは、と考え始めている。
冗談かと思っていた。先日、居間のパソコンに五級申請の説明ページが開かれているのを見つけた。講習の日程や必要書類まで真面目に調べており、源一郎は画面と友美恵を何度か見比べた。
申し込む前に話すつもりだったと言われたが、そういう話じゃない。透の母親らしいと言えば、らしい。
この親にしてあの息子あり、という言葉が浮かんだものの、自分まで一緒にされるのは困る。源一郎は少なくとも、ダンジョンへ入ろうとは考えていない。
公園の犬の一匹が、地面へ降りた鳩を追いかけた。紐が張り、飼い主の身体が半歩だけ引かれる。小さくても、油断すればああなるらしい。
犬を飼うのも、思っていたほど気楽ではなさそうだった。それでも友美恵が五級申請を続けるよりは、源一郎としては犬の世話を覚える方がいい。
まずは帰って、どこまで話が進んでいるのか聞かなければならない。パソコンで調べただけなら、まだ間に合う。
源一郎は来た道とは別の出口へ向かった。犬の話を持ち出すのは、夕飯にしようか。




