第349話 署名欄
武器整備室には、洗浄剤と焼けた金属の臭いが残っていた。
スタンピードから戻った装備は、現場で一度洗浄された後、部隊ごとに再点検へ回されている。四人が使った小銃も例外ではなく、机の上には外された部品と、交換予定の弾倉が並んでいた。
ネイサン・クロウは銃身の内側を確認し、布を引き抜いた。
「コールは、あの盾を持ったまま俺より速かった」
正面で弾倉を点検していたマーカス・ベルが、手を止めた。
「今さら何だ」
「感想だよ。俺は精鋭部隊に入ったつもりだった。盾を持った民間人の後ろ姿を見る仕事だとは聞いてなかった」
「民間人扱いは無理がある」
ダニエル・キーンは、洗浄を終えた部品を順番に布の上へ置いた。汚れた物と済んだ物を混ぜないため、置く位置まで決めている。
「少なくとも、今のハウンドを通常の民間人と比べても意味がない。ダンジョンの影響を受けている」
「分かってる。だから気分が悪いんだ」
ネイサンは銃身を覗き直した。先ほど見た時と状態が変わるはずもない。
「俺たちは昨日まで、選ばれた側だった」
「今もそうだ」
マーカスの返事に迷いはなかった。
「大型への射撃は効いていた。州兵も俺たちも、撃つべき時に撃った。あの連中だけで全部片づけたわけじゃない」
「誰もそこまでは言ってない」
部屋の端で防弾プレートを確認していたエリック・ヴォーンが、二人へ視線を向けた。
「だが、見ただろう。第二の大型が酸を撒いた時、俺たちは建物の陰へ移った。グラントは黒い槍を持って、開けた道路を横切った」
「あれは白い人型が水を使った後だ」
「水があっても、俺はあそこを横切らない」
エリックはプレートを机へ戻した。
「命令が出ても、部下には行かせない」
マーカスが椅子を引き、背もたれへ腕を載せた。
「それで次もハウンドを待つのか?」
「そういう話はしていない」
「じゃあ何の話だ」
「兵士をダンジョンへ入れて身体を変えるなら、先に決めることがある」
マーカスは鼻から息を吐いた。反論を急がず、エリックの続きを待つ。
「長期的に何が起きるか。外へ出た後にどこまで残るか。辞めた兵士をどう扱うか。訓練を拒否した者の配置や昇進はどうなるか。家族への説明も要る」
「敵は待ってくれない」
「妻も待ってくれない。帰宅してから、身体を変える訓練へ志願したと報告するつもりか?」
マーカスは答えず、机に置いた携帯端末を見た。待受画面には、笑っている妻と娘が映っている。
ネイサンが小さく口笛を吹いた。
「正しい質問は卑怯だな」
「お前にも息子がいるだろう」
「月に二度しか会わない。父親が少しくらい強くなっても、気づかないかもしれん」
「その言い方を本人の前でやるなよ」
「やらないさ。嫌われたくはない」
ネイサンは笑ったが、目は銃から離れなかった。
大型三体が出た時、彼らの班は対装甲火器を扱う部隊の射線確保に回っていた。建物の角を使い、白い群れとハウンドが敵の姿勢を崩すのを待ち、通せる瞬間に撃った。
弾は外殻を砕いた。脚部にも損傷を与えた。第三の大型が止まった時、軍の火力が役に立ったことを現場にいた全員が知っている。
その一方で、軍人が進めなかった場所へハウンドは入っていた。
「ケイレブも見た」
ダニエルが言った。
「装備を持って、崩れた壁を越えたところか?」
マーカスが聞く。
「その後だ。頭部を殴った直後に、北側の建物へ向き次の個体が出ると考え、もう確認を始めていた」
「斥候だからな」
「装備を持ったまま走って、攻撃を入れ、姿勢を戻して周囲を見る。地上で同じことをやらせたら、あの速度は出ない」
「数字で見たのか?」
「現場映像で距離と時間は出せる。本人たちの検査記録があれば比較もできる」
ネイサンが苦い顔をした。
「お前は何でも測りたがる」
「測らずに訓練計画を作る方が怖い」
「測った結果、俺たちが旧式だと分かったら?」
「訓練を変える」
「簡単に言うな」
ダニエルは手を止め、ネイサンを見た。
「簡単だとは思っていない」
その返事には、普段の説明口調がなかった。
「俺の父は、俺が軍に残っているから治療を続けられる。母も一人では支えられない。訓練で何か起きて任務を外れれば、家の収入が変わる。逆に受けなければ、今の任務へ残れなくなるかもしれない」
ネイサンは布を畳み直した。
「お前まで家庭の話を始めるのか」
「数字だけで決める人間だと思っていたか?」
「半分くらいは」
「残り半分で家賃を払っている」
マーカスが笑った。声は大きかったが、すぐに止まった。
「俺は入る」
三人の視線が集まる。
「次にあれが出た時、妻と娘が避難区域にいるかもしれない。ハウンドや白い群れが来るまで待つ気はない。軍が訓練を始めるなら、俺は最初に行く」
「身体への影響が不明でも?」
エリックが聞いた。
「検査は受ける。医者の説明も聞く。それで志願できるなら行く」
「娘を抱く時の力加減が変わるかもしれない」
マーカスの顔から勢いが消えた。
腕力が上がることを、彼は戦場の中だけで考えていた。帰宅後に娘が走ってきて、いつものように抱き上げる場面まで繋げてはいなかったらしい。
「覚え直す」
「可能ならな」
「可能にする」
エリックはそれ以上止めなかった。代わりに、自分の装備袋から一枚の書類を取り出した。
軍が作成した、ダンジョン内適応訓練の志願意思確認書だった。正式な訓練開始は決まっておらず、参加候補者の人数と条件を調べるためのものと説明されている。
同じ書類が、四人分用意されていた。
「もう来ていたのか」
ネイサンが言う。
「部隊長から預かった。今日中に出す必要はない」
マーカスは書類を受け取り、最初のページを読み始めた。エリックは自分の分を畳み、装備袋の内側へ入れる。
「持ち帰るのか?」
「妻と話す」
「許可をもらう?」
「意見を聞く。俺が任務へ出ている間、家を守っているのは妻だ」
ネイサンは書類を取らず、目の前の小銃を組み始めた。
「お前はどうする」
マーカスが聞く。
「これを組み終えてから考える」
「それは五分で終わる」
「丁寧にやれば二十分かかる」
「二十分で人生を決めるのか?」
「今までだって似たようなものだっただろ。入隊の署名も、再志願も、紙を渡された時には半分決まっていた」
ネイサンはボルトを戻し、作動を確認した。
「俺は軍以外の仕事を知らない。ダンジョン訓練を受けた連中が次の標準になれば、俺も行く。行かずに後ろへ回されるのは御免だ」
「それは志願と言えるか?」
エリックの問いに、ネイサンは肩をすくめた。
「軍が得意なやつだ。選べる形にして、選ぶ先を一つにする」
マーカスが何か言いかけたが、ダニエルが先に書類を取った。
署名欄には触れず、裏面の空白へ項目を書き始める。
「何を書いている」
「訓練前に必要な検査。地上と内部の比較、負荷をかけた後の回復、睡眠、痛覚、精神面。家族への説明項目も要る」
「志願書に書くことじゃない」
「書く場所がここしかない」
「分析班へ移ったらどうだ」
ネイサンが言うと、ダニエルは首を横へ振った。
「現場を知らない人間に、現場用の基準を全部任せたくない」
マーカスは最後まで書類を読み、署名欄へ名前を書いた。
ペンを置いてから、娘の写真をもう一度見る。先ほどより長く眺めたが、署名を消す様子はなかった。
エリックの書類は装備袋の中にある。ダニエルの用紙は、裏面だけが文字で埋まり始めていた。
ネイサンは小銃を組み終え、頬を銃床へ当てた。照準器の向こうには壁しかなく、その先にダンジョン訓練区画がある。
「こいつは昨日も働いた」
誰に言うでもなく、ネイサンが口にした。
「次も持っていく。ただ、持っていく俺の方は、今のままでいいのか分からん」
しばらく照準器を覗いた後、小銃を机へ置いた。
志願書を手に取り、署名欄を親指で隠したまま折り畳む。捨てずに胸ポケットへ入れた。




