第346話 一・三倍
午前三時を回った材料解析室で、X線回折装置が七度目の測定を終えた。画面へ新しい線が立つたび、有馬は椅子を少しずつ前へ寄せていたらしく、最後には膝が机の下へ入りきらなくなっていた。
「試料の向き、間違えてませんよね」
三田が背後から聞いた。二十代の研究員が口にするには失礼な確認だったが、この三か月で同じ言葉を何度聞いたか、有馬の記憶からも抜け落ちている。
「一回目に疑って、三回目に取り直して、五回目に別の人へ任せたでしょう。間違っていたら、全員まとめて明日から事務です」
薄い金属片は、鉄、炭素、ニッケル、クロムを主成分としていた。珍しい組成ではあるが、検出結果は既知元素だけだった。それでも回折像から組み上がる結晶格子は、既存のどの合金にも収まらず、圧力を抜いた後も高圧相らしき構造を維持していた。
三田が測定結果を共有フォルダへ送り、ファイル名の末尾へ暫定番号を加えた。これで今月だけでも、既知元素だけで構成された新規物質は百を超える。
「新元素より、こっちの方が数は多いんですよね」
有馬は返事の代わりに、壁際のホワイトボードを見た。左側には既知元素で構成された物質、右側には未知元素を含む可能性がある物質の管理番号が並び、右端から貼り足した紙が隣の棚まで侵食している。
ダンジョン産の素材も、大半は見慣れた元素からできていた。骨ならカルシウムやリン、刃なら鉄や炭素、甲殻なら炭素やケイ素を中心に、既知の元素が既知の比率から大きく外れた形で組み合わされている。それだけでも、材料科学の教科書を作り直す理由としては過剰だった。
そこへ、原子番号を確定できない成分まで混ざり始めた。最初は装置の汚染を疑われ、次は試料調整中の混入を疑われ、別の国の別のダンジョンから似た信号が出たところで、ようやく元素候補として専用の管理表が作られた。その表も半年を待たず二枚目へ入っている。
「有馬先生、九時の説明会、資料できてます?」
入口から顔を出した研究支援員に聞かれ、有馬は時計を確認した。九時まで六時間を切っている。寝るという選択肢は、昨夜の段階で資料の末尾から削除済みだった。
「新元素候補を三件減らしました。確認不足です」
「減ったんですか。良い知らせですね」
研究支援員の顔へ、ほんの少し明るさが戻った。有馬はそのまま、更新後の集計を表示する。
「代わりに新規物質が二十七件増えました」
研究支援員は何も言わず、持っていた紙コップを有馬の机へ置いて出ていった。中身はコーヒーではなく、薄い味噌汁だった。
九時の説明会には、材料、化学、核物理、地質、生物、医療、装備開発の担当者が集まった。省庁側の担当者は、研究分野がどの程度拡大したのか、一般向けに伝わる表現が欲しいらしい。
「世界がもう一つ増えた、と言うのは大げさでしょうか」
有馬は配布資料をめくる手を止めた。隣の核物理研究者が何か言いたそうに口を開き、結局は有馬へ譲った。
「二倍は言いすぎです。体感では一・三倍くらいですね」
会議室の何人かが笑ったが、冗談として受け取らなかった者もいた。有馬自身も、数字の根拠を求められた場合に備えて、説明の順番を頭の中で組み直す。
「元素の種類だけを数える話ではありません。既知元素でも、結合、配列、欠陥、同位体比、生成条件が変われば別の物性を持ちます。今まで理論上だけで想定していた構造が常温で残り、存在を想定していなかった構造が普通の保管庫で安定している。周期表の端へ新しい枠が増えた上に、既存の枠から出てくる物まで増えました」
昨年まで、一つ見つかれば研究室の看板を十年支えた物質が、今は搬入箱へ三つずつ入ってくる。強度、熱、電気、光、磁気、薬品への反応を一通り測るだけでも、現在の装置と人員では処理待ちの列が伸び続けた。
「優先順位は付けられますか」
その質問には、材料側だけでなく医療担当まで顔をしかめた。危険性、再現性、量、用途、保管安定性のどれを先に置くかで答えが変わり、明日には別の試料が割り込む。
「付けています。発火、腐食、放射、毒性など、危険の可能性がある物から先です。その後に、量が確保できる物、同種が複数地点で回収された物を回します」
「産業利用の可能性が高い物は?」
有馬は、表示していた分類表を閉じた。答えを選ぶ必要もなかった。
「全件です」
今度は会議室のほぼ全員が笑った。有馬は笑わず、資料の次のページを表示した。
加熱しても温度がほとんど変わらない小石、外力を抜くと元の形へ戻る金属繊維、同じ元素組成のまま水中と乾燥時で硬度が入れ替わる甲殻。どれも測定の誤りを潰している途中で、用途を語れば先走りになる。
研究者の側も、だいぶ壊れていた。定年後の予定を取り消して研究所へ残った者、専門外の講義へ学生と一緒に潜り込む者、試料を追って研究室ごと専門を変えようとする者まで出ている。
装置の予約争いだけは、以前より礼儀正しくなった。全員が、相手も人生に一度あるかどうかの試料を抱えていると知っているからだ。
それでも企業は待たず、大学は人を出し、各国はデータの公開範囲を調整しながら、自国で見つかった番号だけは先に押さえようとしている。論文の査読を頼もうにも、その分野で判断できる研究者は別のダンジョン素材を抱え、返信欄へ「三か月後」と書いて寄越した。
「人員を増やす計画は進んでいます」
省庁側の担当者が、やや防御的に言った。有馬は頷き、今年採用された研究員の一覧を思い出す。増えた人数より、昨日だけで登録された試料の方が多かった。
「助かります。装置と保管場所と、試料を壊しても怒られない権限もお願いします」
「最後のものは難しいですね」
担当者の返答は早かった。有馬も本気で通るとは考えていなかったので、資料へ視線を落とす。
「分かっています。言ってみただけです」
説明会が終わる頃には、午後の装置予約を巡って三つの研究室から連絡が入っていた。昼食の予定は温度変化しにくい小石の再測定と入れ替わり、夕方には海外の共同研究先から元素候補の追試結果が届く。
候補の一つは、質量分析装置の部品から出た汚染として消えた。別の一つは二種類の測定法と三か国の試料で同じ信号が出ており、有馬が嫌う「新元素」という言葉を使う段階へ、また一歩近づいている。
三田が報告書を読み終え、椅子の背へ倒れ込んだ。目の下には、昨日まで見当たらなかった薄い隈ができている。
「これ、確認されたら教科書に載りますよね」
「名前が決まれば載ります。その頃には改訂版が三冊くらい必要でしょうけど」
有馬は薄い味噌汁の紙コップを手に取った。冷えて塩気だけが強くなっていたが、隣の机では別の研究員が保護眼鏡を額へ上げ、笑いながら泣いている。本人によれば、五年かけて探していた特性が、別系統の素材から二種類同時に出たらしい。
研究者にとって夢のような時代だと、報道では何度も言われてきた。夢にも供給量というものがあり、今は全員の処理能力を越えて注ぎ込まれている。
夕方、管理部門から新しい搬入通知が届いた。六層由来の石材片と繊維、用途不明の透明板、それに成分分析で既知元素しか検出されなかった黒い粉末。
「最後のは普通ですかね」
三田が期待を隠さず聞いた。有馬は黒い粉末の添付データを開き、磁場をかけた時だけ密度測定値が変わっている欄を見つけた。
「普通の定義から始めましょうか」
装置予約表は翌朝まで埋まっていた。有馬は自分の名前が入っていた休憩時間を消し、黒い粉末の予備測定を差し込む。
その横で三田が、壁に貼る紙を新しく一枚切り出した。




