第336話 よく見ておけよ
第336話 よく見ておけよ
隠しエリアを見つけた翌日、戸張は湿地へ入る前から歩く速度が上がっていた。
次の階層へ続く扉は、まだ見つかっていない。本来なら湿地の外周を調べ、地形と生物の分布を埋めていくところだが、頭に浮かぶのは石造りの広場と、その下に続く空洞ばかりだった。
寄り道を見つけたせいで本筋が進まない。
昔なら、そういうゲームを途中で投げたかもしれない。今は自分の足で寄り道の先へ行ける。攻略情報も、先に踏破した誰かの動画もない。何が入っているか分からない地下構造が、昨日見つけた場所でそのまま待っている。
それを放って湿地を歩くほど、戸張は行儀の良い探索者ではなかった。
森へ入ると、広場の周囲へ残した白い群れから反応が返ってきた。昨日と変わらず、結界の外側にいる個体は正面へ進もうとすると左右へ逸れ、内側へ入った個体だけが戸張の位置を迷わず捉えている。
場所を知っていても、気を抜けば木々の隙間へ視線が流れた。
戸張は広場がある方角を意識したまま歩き、石床の縁を跨いだ。境界を越えた途端、頭の中で曖昧になっていた白い群れの位置が一斉に近づく。何度試しても気持ちの良い仕掛けではないが、隠しエリアとしては随分と本格的だった。
「さて、どうやって入るか」
昨日見つけた溝は、広場の奥で木の根に半分覆われている。
戸張は泥と苔を払い、細く分けた白い糸を差し込んだ。糸は石材の下を走る空間へ入り、途中で滑るように横へ逸らされる。力を込めれば押し切れそうだが、その程度で壊す気にはなれなかった。
中国スタンピード以降、ダンジョン内部の構造物へ手を出すことには慎重になっている。
扉一枚なら壊しても平気かもしれない。隠し部屋なら、むしろ壊すことが正解という可能性もある。それでも、何のための構造か分からないうちから断骨刀を叩き込むのは、探索より解体作業に近かった。
白いワーム型が石床の各所へ身体を押し当て、地下へ振動を送っている。昨日の調査では、中央部に大きな空洞があり、広場の奥側だけ天井までの距離が近かった。
戸張は溝へ入れた糸を増やした。
一本は奥へ、別の一本は横へ。石の下で枝分かれさせ、触れた物の形を確かめていく。溝の先には細い棒のような部品があり、それが横方向へ伸びていた。棒を押しても動かず、引いても変化はない。捻った時だけ、石の奥から小さな擦れが返った。
「回すのか」
白い糸を巻きつけ、少しずつ力をかける。
最初は抵抗が強かった。苔や泥が詰まっているのか、長い間動かされていなかったのか、途中で何度も引っ掛かる。それでも壊さないよう角度を変えながら捻ると、やがて石の奥で硬い物が一段落ちた。
広場の中央から、低い音が響いた。
戸張が振り返ると、石床の一部が周囲より沈んでいる。苔の下へ隠れていた長方形の継ぎ目が浮かび、片側には指が入るほどの隙間ができていた。
「入口は中央か」
昨日は床の盛り上がりだと思っていた場所だった。
白い群れを先に入れると、隙間の下へ何体かが潜り込んだ。内部に生物の反応はなく、石の板を横へ動かす空間が続いている。戸張も白い糸を差し込み、板の下へ回して引いた。
重い石床が、音を立てながら横へ滑っていく。
下から上がってきた空気は冷たく、湿地の近くとは思えないほど乾いていた。開いた穴の中には、人が一人ずつ降りられる幅の石段が続いている。壁には薄い模様が刻まれているが、入口から見える範囲には文字も標識もなかった。
戸張は白い群れを石段へ送り、しばらく待った。
途中で反応が消えることも、急に警戒が強まることもない。石段の下まで進んだ個体は、広い室内へ散っていった。
ここまで隠した場所なら、何かいると思っていた。
何もいない方が、かえって落ち着かない。
戸張は背骨杖の固定を確かめ、腰の山刀へ手を触れた。断骨刀は広い場所なら使えるが、地下の通路には大きすぎる。今回は入口近くへ置いていくことも考えたものの、石段の幅には余裕があり、そのまま背負って降りることにした。
階段は想像していたより長かった。
石材の継ぎ目は一定で、壁面には細い線が何本も続いている。最初は蔓のように見えた線が、途中から葉や水滴へ形を変え、さらに下ると瓶らしき輪郭へ繋がっていった。
湿地の地下という場所から、排水設備か何かとも考えた。
だが、壁の模様は水を外へ流す構造ではなく、何かが形を変えながら一つの場所へ集まっていく順序に見える。
石段を降り切った先には、一つの大きな部屋があった。
学校の教室より少し広い。天井は高く、壁際には何も置かれていない。中央から奥へ向かって石床の色が変わり、その先に低い台と宝箱が見えた。
宝箱の背後には、壁一面を使った浮き彫りがある。
中央へ丸い瓶が刻まれ、その左右から植物の葉、根、何かの器官に見える形が伸びていた。上部には雫を受ける器、下部には火を囲むような波形があり、それぞれが細い線で中央の瓶へ繋がっている。
台の正面にも、似た意匠が彫られていた。
こちらは壁より簡略化され、二つの手が器を支え、その上へ一滴が落ちる構図になっている。器の周囲には小さな葉と、丸い粒のようなものが並んでいた。
宗教的な祭壇にも見えるが、戸張には祈っている人間より、作業手順を絵にした注意書きの方が近く感じられた。
「何かを作ってる……工程?」
壁の意匠を見上げても、寄生体から特別な反応は返ってこない。
警戒も拒絶もなく、普段通り静かだった。戸張が宝箱へ視線を移すと、その気分に引かれたような弱い高揚だけが返ってきた。
ここまで隠された場所にある宝箱だ。
期待するなという方が難しい。
戸張は部屋の外周から調べ始めた。白い群れを壁際へ散らし、蜘蛛型に天井の継ぎ目を探らせる。床へ細い糸を広げても、踏み抜きや動く石板らしき感触はない。宝箱の周囲にも、不自然な空洞や仕掛けは見つからなかった。
触れた瞬間に何か起こる可能性はある。
それでも、調べられる範囲は調べた。
台の前へ立ち、宝箱の金具を確認する。錆びた様子はなく、木材も腐っていない。蓋に鍵穴は見当たらず、両手で持ち上げると、抵抗もなく開いた。
中には透明な小瓶が並んでいた。
「おお……」
声が出た。
透明ポーションだった。
日本では、もはや珍しい品ではない。低層でも安定して出るダンジョンが確認され、探索者間では最低限の流通も始まっている。赤いポーションや高階層の未知品と比べれば、制度側も扱い方を掴みつつある。
それでも、箱一つを埋める量となれば話は変わる。
仕切りの中へいびつな瓶が何十本も収まっている。一本ずつ見れば既知の回収品だが、ここまで揃っていると倉庫か納品箱を見つけた気分になる。
負傷者を救える。
探索者だけではなく、事故や災害、手術で失血した人間にも使える可能性がある。国へ持ち帰れば、保存状態を確認した上で医療用に回されるだろう。研究用に数本取られたとしても、残りだけでかなりの人数を助けられる。
戸張の気分に引かれ、寄生体からも満足に近い感覚が返った。
宝箱の中身はそれだけではなかった。
瓶の上へ被せるように、一枚の皮が広げられている。
巻物のように丸められた物ではない。薄くなめした皮の四隅を細い金属棒で押さえ、箱の幅に合わせて開いた状態で置かれていた。文字は端に少しあるだけで、中央の大半を絵が占めている。
戸張は金属棒へ触れず、皮の表面を覗き込んだ。
上段には、葉と根のような物が描かれている。その隣には、小さな粒、細長い器官、丸い塊。絵の下には短い文字列があるものの、意味は分からない。
次の段では、それらを切り、砕き、別々の器へ入れていた。
さらに下には、液体を注ぐ絵がある。器を火へかけ、別の容器へ移し、布のような物を通す。最後には同じ形の小瓶が並び、その中が透明な液体で満たされていた。
戸張は宝箱の中の瓶を見た。
皮へ視線を戻す。
もう一度、瓶を見る。
「これ……」
答えは分かりやすいほど目の前に揃っていた。
材料らしき絵。加工の順序。加熱と濾過。完成した小瓶。そして、見本のように箱へ詰められた透明ポーション。
透明ポーションの作り方。
そう考えるのが自然だった。
戸張は皮へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
これを国へ持って帰れば、多くの人が助かる。
真っ先に浮かんだのは、それだった。
日本では透明ポーションが最低限の安定を見せているとはいえ、必要な時に誰でも使える量には遠い。負傷した探索者へ優先され、医療転用も研究と制度整備の途中にある。製造できるようになれば、回収数に左右されず、必要な場所へ届けられる。
欠損補填まで期待できる薬が量産可能になれば、救急医療そのものが変わる。
重傷者が助かる。探索者の死亡率も下がる。自衛隊や警察、消防、海外のスタンピード現場へも持ち込める。手元の箱だけで終わらず、作り続けられるなら、救える人数は比べものにならない。
そこまで考えたところで、戸張の指が皮の上で止まった。
「……今、俺は何を考えてた?」
声が石室へ落ちた。
多くの人が助かる。
それは間違っていない。
だが、その次を考えていなかった。製法を渡せば作れる。作れるようになれば必要な量を増やせる。まるで、材料が最初から倉庫へ積まれているように考えていた。
戸張は皮に描かれた最初の段へ視線を戻した。
葉。根。粒。細長い器官。丸い塊。
どれも地上の物かもしれない。似た植物を栽培し、普通の鉱物や動物由来の材料で作れる可能性もある。
ただ、ダンジョンの隠しエリアに置かれた製法だ。
材料の全てが地上で揃うと考える方が、よほど都合が良かった。
一つでも特定階層の植物やモンスター由来素材が含まれていれば、必要量を確保するために人が潜る。安定生産を目指すなら、一度持ち帰って終わりでは済まない。素材を採取し、運び、次の分を取りに戻る。
透明ポーションが作れると分かれば、世界中が動く。
国は自国民を救うために素材を求める。企業は製造と流通へ参入し、研究機関は代替材料や濃縮方法を探す。患者を抱える家族は一日でも早い量産を望み、医療現場は在庫の確保を求める。
どれも間違った理由ではない。
間違っていないからこそ、止まらない。
他国が素材を確保すれば、自国も確保しなければならない。供給量が足りなければ、より深く、より危険な階層へ人を送る理由が生まれる。今なら撤退を選ぶ状況でも、持ち帰る素材で何十人が助かると言われれば、引き返す判断は重くなる。
探索者本人が断ったとしても、別の誰かが手を挙げる。
正式な制度の中だけで収まる保証もない。未申告ダンジョンを使う者、借金を抱えた人間へ採取を強いる者、家族の治療を条件に潜らせる者も出てくる。
素材を持つモンスターが分かれば、狩るための競争が始まる。
植物なら刈り尽くされる。特定の階層にしかないなら入口周辺へ人と資金が集中し、所有権や活動権を巡って争う。素材を多く持ち帰った探索者は英雄になり、死んだ探索者は必要な犠牲として扱われるかもしれない。
透明ポーション一本が救う命だけなら、計算は簡単だった。
製法が作る需要まで含めれば、その先で何人が死ぬのか分からない。
しかも、これで終わるはずがなかった。
透明ポーションを人類が作れたなら、次は別のポーションを探す。強化薬、解毒薬、欠損した部位をさらに補う薬。製法が一つ見つかった事実そのものが、他にもレシピが存在すると証明してしまう。
武器や防具はどうか。
スクロールは。魔術を与える道具は。身体能力を変える何かは。
一枚の皮が、今まで閉じていた技術の枝を何本も開く。
各国は次の隠しエリアを探し始める。見つからなければ、より多くの探索者を送り、階層を進み、宝箱を開ける。現在なら封鎖されるダンジョンも、国家的な価値を理由に攻略対象へ戻される。
その競争で増える死体が、ダンジョンの内部へ残る。
中国で、人間を摂取した個体が増殖した。
アメリカでは、遺体と生きた人間を投入したことがスタンピードの引き金になった。戸張はその結果を住宅街で見ている。道路へ転がった車、壊れた家、避難できなかった人間、大型個体が地上へ出てくる光景まで知っている。
ポーションを作るために人を潜らせ、その人間の死体が次のスタンピードを育てる。
救うための製法が、別の場所で死者を増やす。
「……笑えないな」
寄生体から返っていた機嫌の良さが、消えていた。
警戒へ変わったわけではない。反対している感覚も、戸張の考えを肯定する反応もなかった。
ただ、静かだった。
石室へ入った時も、壁の意匠を調べていた時も、寄生体はいつも通りだった。宝箱を開き、透明ポーションを見つけた時には、戸張の喜びに引かれたような満足さえ返していた。
それが今は、何も返さない。
戸張の体内にいるはずのものが、急に距離を取ったように感じられた。
こちらが何を考え、何を選ぶのか。
じっと見ている。
そんな印象が浮かび、戸張は皮から目を離した。
寄生体が本当に観察しているのかは分からない。戸張の感情が大きく動いたため、寄生体側が反応を整理できずにいるだけかもしれない。人間の社会や国家間競争、製法公開後の犠牲まで理解しているとは思いにくい。
それでも、静寂には意味があるように感じられた。
大人の行動を見ている子供のように。
正解を知っているわけでも、自分の意見を持っているわけでもなく、目の前の誰かが何を選ぶかを、そのまま覚えようとしている。
戸張の背中に冷たいものが走った。
もし今、便利だから持ち帰ると決めれば。
救える人数が多いから、途中で出る犠牲は仕方がないと決めれば。
寄生体は、それを戸張の判断として覚えるのだろうか。
いつか戸張がいない場所で、似た選択をする時に使うのだろうか。
そこまで考えた自分が、寄生体へ人間の親子関係を重ねすぎている可能性もある。寄生体は言葉を話さず、戸張の倫理をそのまま理解する存在でもない。
だが、理解していないと断言できる段階も過ぎていた。
水門で独自に動き、戸張の曖昧な指示を自分なりに解釈し、個体たちを補修し、守り、必要なら人間へも入り込む。戸張が与えた基準を、戸張の想定より広く使ったこともある。
今ここでの選択が、何の意味も持たないとは思えなかった。
戸張は宝箱の前へ腰を下ろした。
人類がダンジョンに対して特別愚かだとは思わない。
未知の場所へ入り、危険な生物と戦い、使える物を持ち帰る。事故が起きれば制度を作り、装備を変え、撤退基準を整える。中国スタンピードの後には各国が深層進入を見直し、入口や内部構造への攻撃も警戒するようになった。
少しずつ、学んではいる。
ただ、まだ幼い。
ダンジョンが現れてから、人類は与えられる物を受け取るだけで精一杯だった。魔石、武器、防具、ポーション、スクロール。用途を調べ、危険を避け、制度へ組み込もうとしている最中に、製造方法という答えだけを渡される。
段階を飛ばせば、その間に覚えるはずだったことまで飛ばしてしまう。
素材がどこから来るのか。
一つのダンジョンからどの程度採ってよいのか。
探索者へどこまで危険を負わせるのか。
回収品を国家や企業がどう分けるのか。
入口を巡る争いをどう抑え、他国との競争をどこで止めるのか。
人間の死体がダンジョンへ何をもたらすのか。
今の人類は、ようやく問いを持ち始めた段階だった。
答えを使いこなす準備が整っていない。
「早い、か」
戸張は小さく呟いた。
永遠に隠しておくつもりはない。
人類側の研究が進み、透明ポーションを構成する物質や作用が分かり、再現できるかどうかという場所まで来た時。この皮が最後の不足を埋めるなら、その時には見つかる意味がある。
材料の安全な採取方法が作られ、探索者の命を消耗品にしない仕組みが整い、世界が製法一つで一斉に深層へ走り出さずに済む段階。
その時なら、これは人類を先へ進める物になる。
今渡せば、先へ進むための橋より、奥へ走らせる餌に近い。
戸張は壁の意匠を見た。
植物、器官、雫、火、中央の瓶。人間が見れば製造工程を想像でき、箱を開けば完成品まで入っている。ここまで親切に答えを置く必要が、どこにあったのか。
ダンジョンは人類へ多くの物を与えている。
身体能力を変え、魔術を与え、地上では作れない装備や薬を出す。危険と引き換えにしても、得られる恩恵は大きい。
本当に、与えるだけで済ませるつもりなのか。
人類が深く潜るほど、ダンジョン側に何が起きるのか。探索者が増え、内部で死ぬ人間が増えることまで含めて、最初から用意された道ではないのか。
結界で隠された部屋を見つけ、地下への入口を解き、宝箱へ辿り着く。
その程度まで進める者なら、製法を持ち帰るだろうと考えたのか。
あるいは、持ち帰るかどうかまで試されているのか。
答えはどこにも書かれていない。
寄生体も静かなままだった。
戸張は皮の端を押さえていた金属棒へ手を伸ばした。
慎重に一本を持ち上げる。皮が傷まないよう端を整え、最初に置かれていた位置へ戻した。戸張が覗き込んだ時から大きく動かしてはいないが、僅かにずれた部分も指で伸ばす。
透明ポーションの瓶にも触れなかった。
完成品だけなら持ち帰ってもいいとも考えた。既に日本で最低限の流通があり、製法の存在を証明しなければ世界を一気に変える物でもない。箱の本数があれば、実際に救える人間もいる。
だが、今ここから何本か抜けば、次にこの部屋を開いた時、最初の状態は失われる。
皮と完成品の配置そのものに意味がある可能性もあった。製法を後世へ残すつもりなら、見本の数や並びまで情報に含まれているかもしれない。
それに、数十本を急いで持ち帰らなければならないほど、日本から透明ポーションが消えているわけでもない。
戸張は瓶の並びを確認し、蓋へ手をかけた。
寄生体からは、まだ何も返ってこない。
「よく見ておけよ」
自分でも、誰に言い聞かせているのか分からない声だった。
「俺だったら、こうするんだ」
宝箱の蓋を、ゆっくり下ろす。
金具が噛み合う直前で止め、皮の端や瓶が挟まっていないことを確かめた。そのまま両手で押さえると、乾いた音が石室へ響いた。
静寂は続いている。
肯定もない。
嫌がる気配もない。
戸張は閉じた宝箱へ手を置いたまま、言葉を探した。
「お前とのショートカットは、嫌いじゃないんだよ」
寄生体によって、戸張は人類が歩くはずだった多くの段階を飛び越えている。
身体能力も、回復も、魔術も、核から得た能力もそうだ。普通の探索者が何年かけても届くか分からない場所へ、戸張は短い期間で立っていた。
それを否定する気はない。
寄生体がいなければ、とっくに死んでいた。見られなかった景色も、会えなかった小人も、ここまで増えた個体たちもいる。近道だったから間違いだと切り捨てれば、今の自分まで否定することになる。
「ただ、それはお前と一緒だからできることだ」
最初から力の使い方を分かっていたわけではない。
寄生ゴブリンを失い、水門へ残した白い群れの行動に怯え、人間へ寄生させた後で自分の判断を疑った。便利な力へ引かれ、使い方を間違えそうになり、そのたびに線を引き直してきた。
寄生体も、戸張が何を嫌がり、どこで止めるのかを覚えてきたように思える。
戸張自身も、寄生体が何を求め、どこまで自分で動くのかを見ながら変わった。
近道であっても、道を歩かなかったわけではない。
「一緒に歩いて、見ていくのが良いんだよ」
人類も、ダンジョンと付き合いながら進む必要がある。
失敗し、危険を知り、撤退の仕方を覚え、素材一つを持ち帰るために何が必要かを理解する。その先で製法へ手が届くなら、答えだけを拾うのとは違う。
戸張の言葉が石壁へ吸われていく。
寄生体が理解したのか、理解できずに黙っているのかは分からない。戸張の中で静かにしているだけなら、今の独り言は全て無駄だったかもしれない。
それでも、返事を求める気にはならなかった。
大人が子供へ何かを教える時、必ずその場で答えが返るわけではない。そもそも戸張が大人役に向いているかも怪しい。
だから、見せるだけでいい。
自分が何を選んだかを、寄生体が必要なら覚えればいい。
戸張は宝箱から手を離し、台の前で立ち上がった。
壁の意匠も、宝箱も、部屋の静けさも、見つけた時とほとんど変わっていない。持ち帰る物は一つもない。それでも空振りだったとは思えなかった。
透明ポーションの製法がある。
それを知っただけで、人類がダンジョンのどこまで来ているのか、戸張自身が何を恐れているのかが見えた。
もう少し先でいい。
人類が自分たちの手で透明ポーションへ近づき、製造できるかもしれないという場所まで来た時。この部屋を開く者が戸張である必要もない。
その時に見つかるなら、ここに置かれた皮は答えになる。
今は、宝箱の中で待っていてもらう。
戸張は石室の出口へ向かった。
数歩進んでも、寄生体から反応は返らない。普段なら戸張の判断が終わった辺りで、安堵や満足に似た感覚が浮かぶこともある。
今回は最後まで静かだった。
戸張は振り返らず、石段へ足をかける。
分かっているのか、何も分かっていないのか。それを確かめる方法はなく、確かめる必要もないように思えた。
背後には、閉じた宝箱が残っている。
石室を出るまで、寄生体は一度も答えなかった。




