第329話 残った仕事
大型個体が途絶えても、占拠区域から音が消えることはなかった。
入口跡では州兵が射線を組み直し、住宅街では警察と救助隊が一軒ずつ確認を進めている。崩れた壁を切る工具の音に、残った小型個体を仕留める銃声が混じり、その合間を白いものが道路の端から端まで行き交っていた。
瓦礫の下から引き出された男性は、右脚を梁に挟まれていた。
エレナは救護ケースを開き、裂けたズボンの上から止血帯を締める。押し潰された脚は形が崩れ、出血を抑えても脈が弱く、呼びかけへの反応も途切れ始めていた。
「血圧が落ちてる。搬送まで持たない」
救急隊員が男性の顔を確認し、担架を近くへ寄せた。
「ここで何ができます」
「一本使う」
エレナは救護ケースとは別に固定していた保護容器を外した。
中には赤いポーションが二本収められている。留め具を外す手に迷いはなかったが、瓶を持ち上げる前に男性の瞳孔と呼吸をもう一度確かめた。
「嚥下反射は残ってる。口を開けて、頭を支えて」
救急隊員が男性の顎を押さえる。
エレナは瓶の口を唇へ当て、嚥下を確かめながら少量ずつ流し込んだ。最初の一口を飲み込むまで間が空いたものの、その後は途切れながらも喉が動いていく。
空になった瓶を離す頃には、押し潰されていた脚の出血が目に見えて減っていた。
腫れた皮膚の下で骨の位置が戻り始め、裂けた筋肉が閉じていく。ズボンと靴は破れたままだが、男性の呼吸は深くなり、頸動脈へ触れていたエレナの指に脈が返ってきた。
「運んで。意識が戻っても立たせないで」
「脚は治ったように見えますが」
「見えるだけで判断しない。診察と採血、経過観察が必要。使った時刻も記録して」
救急隊員が復唱し、男性を担架へ固定した。
エレナは空瓶を専用袋へ入れ、残った一本の固定具を確かめる。ケースを閉じる前に止血材、呼吸器具、測定器の位置を並べ直し、次に手を入れた時に迷わないよう隙間を詰めた。
「次は?」
「二軒先。地下から反応があります」
白い虫の集まりを見ていた兵士が、半壊した家を指した。
玄関は潰れ、窓も瓦礫で塞がれている。白い虫は基礎部分の細い隙間へ入り、数秒後には別の穴から出てきたが、流れは途中で崩れ、床下から鈍い衝突音が響いた。
「敵だな」
グラントが黒い槍を持って前へ出る。
コールはエレナの横へ入り、盾の縁を地面へ落とした。左腕の籠手を内側へ向け、床下から何が飛び出しても救護ケースへ届かない位置を取る。
「エレナはそのまま」
「言われなくても治療中に前へ出ないわ」
エレナは次の負傷者へ使う止血材を取り出しながら答えた。
ケイレブは壁際へ寄り、短槍の先で割れた基礎の周囲を探った。白い虫が出入りしていた穴とは別に、外壁の下へ新しい亀裂が伸びている。
「正面から出ない。右へ回る」
グラントが槍の向きを変える。
床下の黒い甲殻型は、正面の穴を押すふりをして右側の基礎を破った。六本脚のうち三本が先に外へ出て、身体を捻りながらエレナのいる方向へ向きを変える。
コールが盾を差し込んだ。
甲殻型の前脚が盾へ当たり、金属面を滑る。コールは真正面から押し返さず、盾の角度を変えて進路を壁側へ流した。
「今だ!」
グラントの黒い槍が甲殻の継ぎ目へ入ったが、浅いところで止まる。
個体は槍を振り払おうと身体を回し、盾ごとコールを壁へ押しつけた。左腕の籠手が前脚を受け、爪が黒褐色の板を擦る。
「硬いな!」
グラントは槍を引き、石突で別の脚を払った。
ケイレブは短槍を下げ、携行していたウォーハンマーへ持ち替えた。両手で柄を握ると、コールが盾を下げた瞬間を待ち、平らな打撃面を甲殻の側面へ叩き込む。
低い衝撃音が壁へ響いた。
甲殻は割れずに沈み、個体の身体が横へ傾く。グラントの黒い槍が腹側へ入り、白い虫も露出した隙間へ集まった。
「もう一度!」
コールが盾で頭部を壁へ押さえる。
ケイレブは足場を踏み直し、同じ場所へ二撃目を入れた。甲殻に亀裂が走ると、今度は反対側の嘴状部分を差し込み、身体を捻って硬い板を途中から剥がす。
白い虫が内部へ流れ込み、六本脚の動きが乱れ始める。
グラントは黒い槍を抜き、動きの鈍った脚を柄で押さえた。ケイレブが亀裂へ三撃目を入れると、甲殻型は前脚を折り畳み、その場へ崩れた。
「停止確認」
ケイレブはウォーハンマーの嘴で頭部を押し、反応がないことを確かめた。
コールは盾を戻さず、床下の奥へ目を向ける。
「一体だけか?」
白い虫が穴の中へ流れ、しばらくして別の場所から戻ってきた。集まり方に乱れはなく、そのまま道路の亀裂へ散っていく。
「少なくとも、すぐ近くにはいない」
ケイレブはウォーハンマーへ付いた甲殻片を落とし、短槍へ持ち替えた。穂先に曲がりがないことを確かめ、床下へ向け直す。
グラントは黒い槍の穂先を布で拭い、柄との接合部を捻った。大型個体の外殻へ差し込んだ際の浅い傷は残っているが、今の戦闘で広がってはいない。
コールは盾の内側を見た。
ベルトに緩みはなく、左腕の籠手にも新しい傷が増えただけだった。固定具を引き、指の開閉を確かめてからエレナの横へ戻る。
「次に救護へ入る時も俺が付く」
「助かる。ポーションは残り一本」
「次も使うのか」
「死ぬなら使う。それ以外では使わない」
エレナは空瓶を入れた袋を見ず、次の建物へ向かった。
◇
入口跡の近くでは、州兵の前方指揮官が地図を広げ直していた。
確認済みの住宅、未確認の建物、地下構造、残敵を見つけた場所が書き込まれ、白い虫の動きを追って増えた印が紙面の端まで達している。
「西側の地下駐車場で三体。北の排水路に二体。学校の体育館裏にも反応があります」
「学校は避難完了済みか」
グラントは黒い槍を持ったまま地図を覗いた。
「名簿上は。ただし、内部確認はまだです」
「白いのを先に入れろ。人がいれば救助班、敵だけなら出口へ追い出して処理する」
指揮官は地図から目を上げた。
「あなたが命令できるんですか」
「できない」
「では、どうやって」
グラントは道路の反対側を見た。
白い人型が崩れた入口施設の手前に立っている。周囲の白い虫は勝手に動いているように見えたが、人型が顔を向けた先では流れが変わり、狼型や鳥型もそれに合わせて散っていた。
「たぶん、あいつが聞けば通じる」
「たぶんですか」
「今日ずっと、それでやってる」
指揮官は納得しなかったが、反論もしなかった。
その横を白い狼型が走り抜ける。口元には破損した小型個体の脚を咥え、後脚の傷は白い組織で塞がれていた。
「到着時より増えています」
指揮官が低い声で言った。
「見れば分かる」
「こちらの敵を分解し、戦力を補充している」
「その言い方だと、こっちまで食われそうに聞こえるな」
「実際、安心できる光景ではありません」
白い虫は二人の間を避け、入口跡へ向かった。
グラントは流れを目で追った。敵の死体が崩れるたびに白い量は増え、負傷した狼型や猪型も、補修を終えると再び建物の間へ散っていく。
「安心しろとは言わない」
グラントは地図を畳んだ。
「今は撃つな。怖がるのは、全部終わってからにしろ」
指揮官は地図を受け取り、学校方面の部隊へ連絡を始めた。
◇
日が傾き始める頃には、入口から続いていた小型個体の流出も止まっていた。
区域内に残った敵は、建物、地下、車両、排水設備へ潜り込んでいる。州兵と警察だけなら、一つずつ開けて確認しなければならなかった。
白い虫は、その順番を変えた。
側溝へ入った流れが三つ先の蓋から出れば、その区間には何もいない。途中で流れが乱れれば、兵士が両側を塞ぎ、白い狼型が中へ入る。
家屋でも同じだった。
白い虫が人間を避けて外へ出れば、生存者の可能性がある。内部で一か所へ集まり続けるなら、動けない敵か、瓦礫に挟まれた人間がいる。
判断を間違えることもあった。
空の冷蔵庫の裏へ集まった白い虫を追い、救助隊が壁を開けたところ、出てきたのは潰れた小動物だった。別の家では、地下室へ向かった流れを敵だと思って兵士が構えたが、中にいたのは避難できなかった老人だった。
それでも、確認する場所を絞れるだけで救助の速度は変わった。
エレナは酸素マスクを当てた老人を救急隊へ引き渡し、残った赤いポーションの保護容器を手で確かめた。コールは盾を持ったまま、その横で通りの両側を見ている。
「この通りは終わり」
「次は北側です」
救助隊員が答えた直後、屋根の上から白い鳥型が鳴いた。
白い虫が一斉に通りの奥へ流れ始める。
ケイレブは短槍を持って先に角へ向かい、途中で足跡と瓦礫の乱れを確認した。グラントは黒い槍を構え、コールは盾をエレナの前へ置く。
「今度も俺の後ろ」
「分かってる。重傷者がいたら先に行くけど」
「俺ごと連れていけ」
エレナは救護ケースを持ち上げた。
「訂正。まだ終わってない」
角の先で白い虫の流れが急に乱れると、ケイレブは短槍を下げ、ウォーハンマーへ持ち替えた。白い流れは四人の前で割れ、次に確認すべき建物まで道を作っていた。




