第323話 細い虫
グラントたちが最初の規制線へ着いた時、道路はすでに本来の役割を失っていた。救急車と消防車が片側を埋め、反対車線には避難車両が詰まっている。州警察の誘導員が停車位置をずらすたび、後方の列が別の道へ膨らんだ。
ケイレブは封鎖線の手前で車を止めた。
「ここから歩く」
エレナは救護ケースを持ち上げ、グラントは後部から黒い槍を抜いた。近づいてきた警察官は三人の顔を確かめると、住宅街の奥を指した。
「正面は州兵が維持しています。小型が庭と路地へ抜けました」
「現場指揮は?」
「二つ先の交差点です」
グラントたちはそれ以上聞かず、封鎖線を越えた。
数歩進んだところで、ケイレブが足元を見た。救護車両の間を縫って走ったはずなのに、息が乱れていない。装備の重さも、車を降りる前より軽く感じられた。
「境界に入った」
グラントも黒い槍を片手で持ち直した。肩へ食い込んでいた重みが消え、踏み出すたびに身体が前へ出ようとする。
「分かるか」
「分かりやす過ぎるな」
ケイレブは歩幅を抑えた。
「外のつもりで踏むとちょっと戸惑うな。最初の角まで慣らす」
エレナは救護ケースを持つ腕を曲げ伸ばしした。普段なら走りながら扱いたくない重量だが、今は片手でも身体の軸がぶれない。
「報告書通り、現実側でも効くのね」
「一定の範囲だと聞いているが」
グラントは前方の銃声へ顔を向けた。
「使えるものは使おう。調子に乗って壁へ突っ込むな」
「それはコールに言って」
三人は速度を上げた。
住宅街へ入ると、音の向きが定まらなくなった。前方の連射に、家屋裏の破壊音や屋根を走る足音が重なる。狭いダンジョンと違い、警戒すべき方向を前後だけに絞れない。
「ケイレブ、先。エレナは中央」
ケイレブは一度強く踏み込み、身体が予想以上に前へ出るのを腰と膝で抑えた。外で同じ動きをすれば届かない距離を二歩で詰め、最初の角を覗く。
道路の中央では、州兵が黒い甲殻型へ射撃を集中していた。個体は前脚を一本失いながら、軍用車両を押し続けている。
ケイレブは甲殻型より先に屋根を見た。
「上」
細長い個体が屋根の縁から落ちた。兵士の射線が外れた隙に甲殻型が車両を押し退け、横にいた兵士へ車体が迫る。
グラントは路面を蹴った。身体が一気に加速し、黒い槍の穂先が欠けた甲殻の隙間へ入る。外であれば踏み込み直す必要があった距離を一歩で埋め、柄を捻って個体の身体を傾けた。
甲殻型の前脚から力が抜ける一方、屋根から落ちた個体はケイレブの盾へ巻きついた。締めつけが腕へ届く前に、ケイレブは盾ごと道路へ叩きつける。
金属板と路面の間で長い身体が跳ね、エレナが頭部らしい膨らみへ短剣を入れた。刃を引く力も普段より強く、二度目を必要とせず動きが緩む。
ケイレブは盾を引き抜いて腕を確かめた。
「こっちの身体に合わせて装備まで軽くなった気がする」
「装備は同じ。持ってる方が変わってるだけね」
エレナは短剣を払い、車両の陰で倒れていた兵士へ向かった。
兵士の腿には甲殻片が刺さっている。エレナはその横へ膝をついたが、勢いを殺し切れず、膝当てが路面を強く鳴らした。
「座って。脚へ体重をかけないで」
止血材を押し当てる指にも、普段以上の力が入る。痛みに兵士の身体が跳ね、エレナはすぐに手加減した。
「ごめん。今、こっちも加減を探ってる」
「ハウンドか。この区域は恵まれてるな」
「いいから、動かないで」
グラントは黒い槍を引き抜きながら、州兵へ西側の状況を尋ねた。
「小型が民家の間へ抜けています」
「俺たちが入る」
処置を終えたエレナは救護ケースを閉じて立ち上がった。動作そのものが軽くなっており、重いケースを持ち直す必要もなかった。
西側の住宅街では、軍の射撃音が遠かった。開け放たれた玄関前に荷物が残り、道路へ出しきれなかった自転車が倒れている。
ケイレブは交差点を避け、壊れたフェンスから裏庭へ入った。腰ほどの高さがある残骸だったが、片手をついただけで身体が越え、着地しても装備が芝生へ沈む感触はほとんどない。
「便利すぎて気持ち悪いな」
「戻った後に同じことをするなよ」
グラントもフェンスを越え、エレナは救護ケースを先に投げることなく、そのまま続いた。
芝生には人間の靴跡と爪痕が重なり、物置の扉が内側から破られていた。中から出てきた老人は、園芸用の鋤を握っている。
「家に一体いる」
ケイレブが窓を見ると、カーテンの隙間で白い四足型が動いた。
「エレナ、この人を外へ」
老人は家を振り返った。
「薬が中にある」
「救護所で探します。今は出て」
庭の奥から唸り声が聞こえると、老人は鋤を捨てた。
ケイレブが割れた窓枠を盾で叩き、グラントは玄関を開けて槍の柄を壁へ打ちつける。追い立てられた四足型が外へ走り出した直後、横の塀から別の個体が飛び込んだ。
グラントは最初の一体を柄で押し、二体目の突進を肩で受ける。爪が胸当てを滑ったが、身体は柱まで押されなかった。靴底が芝生を削り、強化された脚がその場で踏みとどまる。
ケイレブの短槍が後脚へ入り、振り向いた個体の首を黒い槍が貫いた。
「もう一体は?」
「道路へ出た」
三人は老人をフェンスの外へ押し出し、すぐに道路へ戻った。
逃げた四足型は、避難者を誘導する警察官の列へ向かっている。前には子供を抱えた女性がいた。
ケイレブが走った。通常なら間に合わない距離だったが、最初の数歩で個体との間を詰め、道路脇のごみ箱を蹴り倒す。転がった容器へ前脚が当たり、四足型の身体が傾いた。
グラントの槍が横から入り、個体を歩道へ押し込んだ。警察官が女性を下げ、空いた射線へ撃ち込む。
エレナが追いついた時には、屋根の上へ別の影が集まり始めていた。救護ケースを抱えたまま二人へ遅れず走れたことに気づき、自分の脚を一度見下ろす。
「これは後が怖いわね」
州兵の分隊が通りへ入ったが、放置車両に阻まれて車両は進めなかった。兵士たちは降車し、避難者を北へ流す線を作る。
グラントは黒い槍を持ち直した。
「三人で前へ出る。後ろから撃つな」
分隊長が一度だけ頷くと、三人は住宅街の奥へ進んだ。
右の民家から小型個体が飛びつき、同時に屋根から細長い個体が落ちる。ケイレブが前者を道路へ流し、グラントは振り返らずに石突きで後者を路面へ叩きつけた。
強化された反応は、見えてから考える時間を短くしていた。身体が先に動き、その後で何をしたかが追いついてくる。
エレナが短剣を入れている間に、州兵の射撃が道路へ出た個体へ集中した。左側の庭から灰色の四足型が現れた時、グラントはまだ槍を戻し切っていない。
エレナが救護ケースを投げた。強化された腕から放たれたケースは予想より速く個体の顔へ当たり、頭を大きく逸らして留め具の一つを跳ねさせた。
グラントは槍の柄を短く持ち、穂先を胸へ押し込んだ。
「医療品を投げるな」
「間に合ったでしょ」
エレナはケースを拾い上げ、留め具と保護容器を確かめた。
「次はもう少し弱く投げる」
「命綱だぞ。しっかりしてくれ」
通りの奥では、州兵二人が倒れていた。一人は肩を切られ、もう一人は足首を噛まれている。仲間が二人を守りながら射撃していたが、路地と屋根の両方から個体が近づいていた。
「エレナ!」
「行く!」
エレナは救護ケースを抱え、倒れた兵士へ走った。路面の瓦礫を飛び越えた時には、踏み切りが強すぎて身体が浮いたものの、着地でよろめいただけで転ばず、予定より早く兵士の横へ滑り込んだ。
グラントとケイレブが左右へ分かれ、黒い槍が屋根から降りた細長い個体を払い、ケイレブは路地から来た小型個体へ盾をぶつけた。
エレナは足首を噛まれた兵士の横へ膝をついた。
「止血帯は?」
「自分で巻いた」
「圧迫位置が低い。調整するわ」
兵士が痛みに顔を歪める間に、エレナは止血帯を締め直した。力を入れすぎないよう指先へ意識を集中し、肩を切られたもう一人には止血材を渡す。
「押さえて。立てる方は?」
「俺です」
「この人の脇を持って」
兵士が仲間の上半身を抱えた時、近くの屋根で瓦礫が転がった。エレナが顔を上げると、細長い影が屋根の縁を越えていた。
「上!」
身体能力が上がっていても、しゃがんだ姿勢から短剣を抜き、兵士を避けて迎撃するだけの余裕はない。個体は兵士を外し、エレナへ向かって落ちてきた。
その瞬間、髪の内側で何かが動いた。白い細糸のようなものが頬の横を通り抜け、髪に絡んでいた何かがほどけるように空中へ出ると、細かな虫の群れへ分かれた。
白い虫は飛びかかってきた個体の顔へまとわりついたが、落下の勢いまでは止まらない。
エレナは肩から押され、道路へ倒れた。細長い個体の爪が胸当てを掻き、頭部が顔のすぐ横まで落ちてくる。白い虫は目と口元へ入り込み、個体の頭から首へ広がっていった。
個体はエレナの上で身体を震わせ、噛みつこうと首を動かす。それでも頭の向きが定まらず、前脚だけが路面を掻いていた。
エレナは強化された脚で個体の胴を押し、身体を捻って下から抜け出そうとした。その時、路地から別の影が現れ、灰色の四足型が倒れたエレナへ向かって走ってきた。
グラントは黒い槍をそのまま投擲し、四足型の胴を路面へ縫い留めた。走り寄る勢いのまま頭部を蹴りつけると、首が横へ折れ、身体がエレナの手前へ崩れた。
すぐに向きを変え、エレナの上にいる細長い個体へ踏み込む。
「待って!」
細長い個体はまだ動いていた。白い虫が顔から首へ広がり、皮膚の隙間へ潜り込んでいる。
グラントは攻撃を止め、エレナの腕を掴んで引き抜いた。強く引きすぎてエレナの身体が路面を滑り、二人とも一歩分だけ体勢を崩す。
「噛まれたか」
「違う。あれは……」
エレナは道路へ座り込んだまま自分の髪へ触れ、先ほど頬の横を抜けたものを思い返した。
「白い……虫?」
◇
コールが旧ダンジョンへ着くと、封鎖施設の職員がゲートの外で待っていた。
バイクを止めてヘルメットを外すと、職員は顔写真だけを確認し、すぐにゲートを開けた。別の職員から予備装備のケースを受け取り、コールは歩きながら胸当てと腕当てを身につける。
「ここから先は、あなた一人です」
「分かってる」
「映像が切れたら十五分で戻ってください」
「努力する」
拳銃と短槍を受け取ったコールは、封鎖施設の奥にある入口へ走った。職員たちは施設側に残り、ダンジョン内へは同行しない。
一層へ入った瞬間に身体が軽くなり、勢い余って最初の曲がり角を大きく回った。コールは壁を片手で押し、進路を戻す。
「ここからが範囲内か」
探索時の感覚が一気に戻っていた。予備装備の重さが身体へ馴染み、バイクから降りた時に残っていた脚の強張りも消えている。
一層側のワープへ入り、五層へ移動した。
石造りの空間には誰もいなかった。五層側まで来られるのは、このダンジョンでワープを解放したハウンドのメンバーだけであり、封鎖施設の職員や警備員は一層側から先へ移動できない。
コールは短槍を持ち直し、六層側の通路へ走り込んだ。強化された脚で五層の通路を進み、六層扉の前まで一気に距離を詰める。
扉のこちら側は静かで、内部の気配や振動は何も伝わってこなかった。
コールは呼吸を整え、扉へ手をかけた。
「さあ、ここからは孤立無援だ」
扉を押すと、隙間から六層の光が差し込み、森の匂いと湿った空気が流れ込んできた。同時に、無数の足と草が擦れ合う音が、開いた隙間から一気に押し寄せる。
地面は、細かな白いものに埋め尽くされていた。その間には狼型、鳥型、蜘蛛型、猪型、蜥蜴人らしい姿が並び、森の奥からも次々に白いものが集まって入口へ向かう流れへ加わっている。
中央には白い人型が立ち、以前より大きな刃を背負っていた。腰には、コールにも見覚えのある山刀が差してある。
白い人型が、開いた扉へ顔を向けた。




