第32話 限界だっぴ
帰ると決めてからの足取りは、思ったより安定していた。広間を出る時、背後を何度も確認したくなったが、振り返ったところで何かが分かるわけではない。レッドキャップは消えた。大柄なゴブリンも、取り巻きも、床の血も、少しずつダンジョンに吸われるように薄れていった。残っているのは、壊れたトレッキングポールと、リュックの底に入れた赤錆の山刀だけだ。
赤錆の山刀は重くはない。むしろ、武器としては軽いくらいだった。だが、リュックに入っていると、妙に存在感があった。背中に硬いものがある。布とビニールを挟んでいるのに、刃物を背負っている感覚だけは消えない。持ち帰るべきではない。そういう理屈は、まだ頭の端に残っている。だが、罪悪感ではなかった。置いてくる方が嫌だった。それだけだ。
来た道を戻る。暗がりの輪郭が拾えるおかげで、ライトの光を奥へ向けすぎなくても足元を見失わない。壁の凹凸。床の段差。曲がり角の形。以前なら黒く潰れていたはずの場所が、薄い線だけで分かる。便利だ。そう思った直後に、少しだけ嫌になる。便利だと思ってしまうことにも、もう慣れてきている。
途中、ゴブリンの死体があったはずの場所を通った。ほとんど何も残っていない。粉のようなものが壁際に薄く散っているだけだった。俺が倒したものなのか、ダンジョンが吸った残りなのかも分からない。立ち止まらずに通り過ぎる。今は確認しない。確認すると考えなければならない。
祭壇の部屋にも戻った。空の台座が、相変わらず中央にある。黒い石はない。分かりやすい答えもない。ほんの少し前に、そこから懐かしさと寂しさのようなものが流れてきた。そのことを思い出したが、今は足を止めなかった。
「帰るぞ」
小さく言う。
返事はない。
「今日はもう無理だ。お前のことも、山刀のことも、赤い帽子のことも、全部明日だ」
声に出すと、少しだけ楽になった。体の中の何かに話しかけているのか、自分に言い聞かせているのかは分からない。たぶん両方だ。答えが返ってこない相手に言っているのだから、独り言と大して変わらない。それでも、ただ頭の中でぐるぐる考えるよりはましだった。
暗渠へ続く横道に近づくにつれて、空気が湿り始めた。乾いた石の匂いが薄れ、泥と苔と古い水の匂いが戻ってくる。現実の匂いだ。そう思った。ダンジョンの中で何を見ても、この匂いが近づくと少しだけ安心する。もっとも、ここも普通の場所ではなくなっているのだが。
暗渠に戻る直前、俺は一度立ち止まり、リュックの中を確認した。赤錆の山刀はタオルとビニール袋に包まれている。壊れたトレッキングポールもある。予備のビニール袋に、血のついた手袋の外側を軽く押し込む。腕の傷は浅い。背中と腹は痛いが、歩けないほどではない。骨が折れている感じもない。たぶん、大丈夫だ。
たぶん。
その言葉が一番信用ならない。
それでも帰るしかない。病院に行く選択肢は、今はない。行けば説明が必要になる。説明できることは何もない。ゴブリンに殴られ、レッドキャップに蹴られ、死体が動いて、山刀を持ち帰りました。そんなことを話せる相手はいない。
俺は暗渠の低い天井をくぐり、湿ったコンクリートの水路を戻った。外の光はまだ見えない。だが、空気は明らかに変わっている。遠くで車の音がする。鳥の声も聞こえる。ダンジョンの奥では、あんなに遠かった日常が、もうすぐそこまで戻ってきていた。
出口が見えた。
薄い昼の光。橋の下の影。草の匂い。
俺はゆっくり外へ出た。前回のように転がり出るほどではない。膝は揺れているが、歩ける。外から見れば、少し疲れた散歩帰りの男に見えなくもないはずだ。そう思いたかった。
周囲を確認する。誰もいない。水門の時のような封鎖線もない。警察もいない。犬の散歩をしている老人も、学校帰りの子供も、配信者らしき人間もいない。ただ、古い橋と、草と、水路があるだけだった。
俺は暗渠を振り返らなかった。
振り返れば、また考え始める。黒い石。祭壇。ゴブリン。レッドキャップ。赤錆の山刀。大柄なゴブリンの死体を動かした何か。それらを、帰る前に整理しようとしてしまう。
無理だ。
今は帰る。
それだけでいい。
橋の下から離れ、人通りの少ない道を選んで歩く。リュックが背中に当たるたび、山刀の存在を思い出す。タオルとビニールで包んでいても、持ち帰ってはいけないものを持ち帰っている感覚は消えない。ただ、それは罪悪感ではなかった。もっと実用的な不安だ。見つかったらどうする。落としたらどうする。車に戻るまでに誰かに声をかけられたらどうする。
幸い、何も起きなかった。
コインパーキングまでの道は、拍子抜けするほど普通だった。住宅街の端を歩き、車の横を通り、少し離れた場所で自転車がブレーキを鳴らす。どこかの家からテレビの音が漏れている。昼間の生活音。いつもの世界。俺だけが、別のものを背負ってそこを歩いている。
車に着く。周囲を見る。誰もこちらを見ていない。俺は後部座席のドアを開け、リュックを置いた。置いた瞬間、少しだけ肩が軽くなる。だが、車の中に赤錆の山刀があるという事実が、今度は別の重さになる。
着替えを出し、汚れた外側の服を軽く払う。血は目立たない。暗い色の服を選んでおいてよかったと思った。痛む腕や脇腹は、外から見ただけでは分からない。顔の汚れをタオルで拭う。靴の泥をできる範囲で落とす。完璧ではないが、長居はしたくなかった。
運転席に座る。
しばらく、エンジンをかけられなかった。
手が震えているわけではない。むしろ、ダンジョンの中よりずっと普通に動く。キーを回せる。ハンドルも握れる。ブレーキも踏める。ただ、車のフロントガラス越しに見える住宅街が普通すぎて、頭の切り替えが追いつかなかった。
数分前まで、俺は赤い帽子の怪物に殺されかけていた。
今は軽自動車の運転席で、レンタカーの返却時間を気にしている。
差が激しすぎる。
「もう処理能力が限界だっぴ……」
口から出た言葉は、かなり情けなかった。
疲れすぎると、人間は変な語尾になるらしい。壊れてもいいじゃない、人間だもの。
笑いそうになった。笑えなかった。でも、少なくとも泣くよりはましだった。
エンジンをかける。ナビを自宅近くへ設定する。直接家の前ではなく、少し離れたコインパーキングにした。そこから歩いて帰る方が目立たない。たぶん。もう、その程度の判断しかできない。
帰りの運転は順調だった。
信号で止まる。歩行者を待つ。右折車をやり過ごす。コンビニの前を通る。配送トラックが停まっている。学生が自転車で横を抜ける。何も特別なことは起きない。起きないのに、赤信号で止まるたびに、体の奥が少し遅れて震えるような気がした。
山刀は後部座席のリュックの中。
レッドキャップは消えた。
ボス部屋の器は触らなかった。
大柄なゴブリンの棍棒も置いてきた。
祭壇には何もなかった。
体の中の何かは、俺の知らないところで死体を動かした。
考えるな。
運転中に考える内容ではない。
俺は信号だけを見ることにした。赤。青。前の車のブレーキランプ。横断歩道。制限速度。そういう、分かりやすいものだけを見る。分からないものは、全部後回しだ。
レンタカーを返す前に、一度だけ人気のない場所で荷物を確認した。山刀の包みは解けていない。血の匂いが外へ漏れている感じもない。壊れたポールも袋の中だ。俺はそのまま車を返し、リュックだけを背負って店を出た。
店員に何か言われることはなかった。
普通に返却手続きが終わる。
それが逆に不思議だった。
俺は何か、とんでもないことをして帰ってきたはずなのに、社会は普通にレンタカーの返却確認をして、精算を終えて、ありがとうございましたと言う。それで終わる。世界は本当に、俺の事情など知らないまま動いている。
自宅までは歩いた。
人通りの少ない道を選んだつもりだったが、まったく人がいないわけではない。スーツ姿の男。買い物袋を持った女。スマホを見ながら歩く若者。誰も俺を見ない。見ても、ただ通り過ぎるだけだ。リュックの底に赤錆の山刀が入っているとは思わないだろう。
玄関の前に着いた時、ようやく自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
鍵を出す。少し手間取る。鍵穴に入れる。回す。扉を開ける。中へ入る。
閉める。
鍵をかける。
チェーンをかける。
そこで、終わった。
俺は背中を扉に預け、そのままずるずると床へ崩れた。
膝が笑っている。肩が重い。背中が痛い。腹も痛い。腕も痛い。全部まとめて痛い。ダンジョンの中では、まだ動けると思っていた。車も運転できた。歩いて帰ってこられた。だが、部屋に入って鍵を閉めた瞬間、体が一気に現実を思い出したようだった。
「無理」
声が出た。
「もう無理。閉店。今日の俺は閉店しました」
玄関の床に座り込んだまま、俺はしばらく動かなかった。リュックは肩からずり落ち、床に横たわっている。その中に赤錆の山刀がある。考えなければならないことは山ほどある。山刀の保管。怪我の処置。レッドキャップを吸収した影響。あの器。祭壇で流れてきた感情。大柄なゴブリンの死体を動かしたこと。政府制度。水門。暗渠。
全部、無理だった。
「大変なことは、明日の俺に任せる」
そう言うと、少しだけ楽になった。
明日の俺には悪いが、今日の俺にはもう何も処理できない。
とはいえ、最低限だけはやる必要があった。俺は床に手をつき、どうにか立ち上がる。リュックを持ち上げる。赤錆の山刀は、タオルとビニールに包んだまま、さらに大きな袋へ入れ、部屋の隅に置いた。机の上には出さない。今見たら、絶対に考え始める。考え始めたら終わる。
壊れたトレッキングポールも袋のまま置く。服は脱げる範囲だけ脱ぐ。傷を見る気にはならなかった。深くない。たぶん。出血もひどくない。たぶん。さっとシャワーを浴びて乱暴にシャンプーで体を洗う、泡が出りゃなんでもいいだろ。体をふくが鏡は見ない。見たら、また何かを確認したくなる。
冷蔵庫の小瓶も見ない。棚の奥の結晶も見ない。白い粉も見ない。
今日は見ない。
何も見ない。
布団までたどり着き、倒れ込む。服をきちんと着替えたのか、半分だけなのかも曖昧だった。背中が痛んで、横向きになる。腹も痛む。腕の傷が少し熱い。だが、眠気の方が強かった。
目を閉じる直前、体の奥で何かが静かに動いた気がした。
レッドキャップを取り込んだ影響かもしれない。
大柄なゴブリンを動かした何かの残りかもしれない。
俺自身の疲労かもしれない。
知らない。
それも明日だ。
今日の俺は、もう閉店している。
そう決めて、俺は眠った。




