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第33話 亀さんの公式配信

 亀山という名前より、今は「亀さん」と呼ばれることの方が増えた。昔からそうだったわけではない。虫取り動画を上げていた頃は、コメント欄でたまにそう呼ばれるくらいだった。水辺の虫、夜の灯火に集まる蛾、用水路の魚、外来種の話。そういう地味な動画を出していた俺が、今では国公認のダンジョン配信者として、自衛隊の後ろを歩いている。

 国公認ダンジョン配信者。

 何度聞いても、肩書きが強すぎる。俺の中身は、少し前まで水門の中に虫を探しに行って、死にかけて、謎の人に助けられた男でしかない。

「亀山さん、配信開始できます」

「はい。始めます」

 広報担当の職員に促され、俺は胸元のカメラと手持ちカメラを確認した。表示は安定している。映像も音声も途切れていない。水門ダンジョンの中からLIVE配信をする。最初に聞いた時は無理だと思ったが、最近は違うらしい。発生直後に比べると、通信も映像も妙に安定してきている。

 配信が始まると、すぐにコメントが流れた。

『きた』

『亀さん生きてた』

『国公認虫取りおじさん』

『おじさんじゃないだろ』

『水門ダンジョンきた』

『画質いいな』

『本当に中からライブできるんだ』

 おじさんではない。まだギリギリ違う。たぶん。

「えー、本日は合同対策本部の許可を得て、水門ダンジョン内部の調査に同行しています。自衛隊および調査員の指示に従い、安全を確保した上で撮影します。配信を見て興味を持っても、絶対に個人で近づかないでください。ここは観光地でも、配信スポットでもありません」

 用意された説明を口にする。最後の一文だけは、自分の本音だった。俺が言うな、という話ではある。けれど、俺だからこそ言えるとも思う。興味本位で入った先で、実際に死にかけた人間なのだから。

 水門の中は、初めて入った時とは別の場所のようになっていた。コンクリートの足場には滑り止めが敷かれ、黒い横道の入口には仮設ライトと番号付きのマーカーがある。ケーブルも通され、途中には中継機材らしきものも置かれている。以前は、ただ光を吸うような穴だった。今は調査現場だ。それでも、奥から流れてくる乾いた石の匂いだけは変わらない。

「通信がかなり安定していますね」

 俺が言うと、横にいた調査員が小さく頷いた。

「発生初期の不安定な状態から、内部空間が安定期に移行しつつある、という仮説があります。まだ仮説ですが」

「安定すると、安全になるんですか?」

「それは別です。むしろ、内部生物の活動が安定する可能性もあります」

 さらっと怖いことを言う。コメント欄もすぐに反応した。

『安定期って何』

『安定したら敵も増えるの?』

『怖いこと言うな』

『ダンジョンが馴染んできてるってこと?』

『それ安全じゃなくて悪化では』

 俺も同じことを思った。通信が安定しているから配信できる。だが、配信できることと、安全であることはまったく別だ。水門ダンジョンは、人間の都合に合わせて配信向きになってくれているわけではない。

「前方、スライム一体」

 自衛隊員の声が飛んだ。

 俺は反射的にカメラを向ける。今日の配信は基本的に常時撮影だ。隠すより、管理された形で見せる。その方針らしい。もちろん、本当にまずいものが映りそうなら止められるのだろうが、少なくとも今はその合図は出ていない。

 黒い石の通路の先に、半透明の塊がいた。

 小型スライム。

 薄い青緑色の体。中に浮いた濁った核。床を這うというより、ゆっくり形を変えながら進むような動きだった。あの日、俺が通路で見たものと同じ種類だと思う。もっとも、その時の俺はまともに観察していたわけではない。大型スライムの印象が強すぎて、小型のことは後から思い出したようなものだった。

 コメント欄が跳ねる。

『スライムきた』

『思ったより透明』

『かわいい……か?』

『いや核きもい』

『これ触ったら溶ける?』

『撃つの?』

「対象、停止。核位置、中央。撃ちます」

 銃声は思ったより乾いていた。

 一発目は体を揺らしただけだった。二発目が核の近くを削る。三発目が、中心の濁った粒を撃ち抜いた。スライムの体が大きく波打ち、そのまま床へ広がっていく。半透明の粘液が崩れ、しばらくすると薄くなり始めた。

 処理は早い。

 迷いがない。

 強い。

 自衛隊は、やはり強い。

 俺が言うまでもない。装備がある。人数がいる。連携がある。誰がどこを見るか、どこへ撃つか、誰が記録するかが決まっている。小型スライム一体など、彼らにとってはもう未知の怪物ではなく、処理対象に近づいている。

 だからこそ、思い出す。

 あの日、俺の前に落ちてきた大型スライム。

 人間を丸ごと包めそうな巨大な半透明の塊。目の前に落ちた時、俺は何もできなかった。カメラを持って、口を半開きにして、ただ固まっていた。

 それを倒したのが、あの人だった。

 レインウェアでもなく、迷彩服でもなく、防護服でもなく、虫除け帽子みたいなメッシュで顔を隠した、妙な格好の男。

 俺は今でも顔を知らない。

 名前も知らない。

 声もほとんど覚えていない。

 ただ、動きだけは覚えている。

 走り込む角度。ポールを構えた姿勢。巨大スライムの核へ向かう一瞬。あれは無茶ではなかった。いや、無茶ではあった。無茶ではあったが、ただ突っ込んだわけではない。自分が通る線を最初から知っていたような動きだった。

 あれこそが探索者なんじゃないか。

 そんなことを思う。

 今、国が制度を作ろうとしている探索者。登録制。講習。装備基準。保険。報酬。そういう言葉で囲われる前の、もっと原始的なもの。

 誰も知らない入口に入り、持っているものだけで生き延び、目の前の怪物を処理する人間。

 それが探索者なら、あの人はたぶん、俺が初めて見た探索者だった。

 いや、現代の忍者と言った方が近いかもしれない。

 水門の奥に現れて、顔も名乗らず、俺を助け、記録カードを指で潰し、何も言わずに去っていく。

 いや、忍者はない。忍者だったら名乗りを上げなければいけない。古事記にもそう書いてあった。

「亀山さん、次の広間に入ります」

「はい」

 俺はカメラを構え直した。水門ダンジョンのボス部屋。前に大型スライムが落ちてきた場所だ。あの日、俺はあの部屋で死にかけた。だが、今日の俺は一人ではない。前には自衛隊、横には調査員、後ろには広報担当がいる。頼もしすぎる。

 それでも、足が少し重くなった。

 広間は変わっていなかった。黒い石の床。高い天井。ライトが届ききらない奥。ここに入った瞬間、空気が少し沈むような感じがある。俺が来た時もそうだったかは覚えていない。ただ、今は分かる。ここは通路ではない。何かを待つ部屋だ。

「天井、確認」

 隊員がライトを上へ向ける。

 コメント欄の流れが少し遅くなった。さっきまでスライムで騒いでいたのに、今は空気を読んだように静かだ。画面の向こうでも、この部屋の嫌な感じが伝わっているのかもしれない。

 その時、天井の一部が揺れた。

「大型個体!」

 声が飛ぶ。

 半透明の巨大な塊が、天井から剥がれ落ちた。あの日と同じだった。薄い青緑色の体。中に浮かぶ濁った核。人を丸ごと包めそうな質量。床に落ちる音は、やはり水っぽくない。どん、と重く、広間全体が揺れる。

 コメント欄が爆発した。

『でかいでかいでかい』

『これスライム?』

『無理』

『逃げろ』

『自衛隊前!』

『亀さん下がって!』

『音やば』

『これ前に出たやつ?』

 俺は後ろへ下がっていた。指示されたからではない。体が勝手に下がっていた。情けないとは思わない。あれを目の前で見て下がらない方がおかしい。

「三方展開。射線注意。核位置、中央やや右。距離維持」

 自衛隊員たちが広がる。

 四方からではない。三方だ。射線が被ると危ない。大型スライムを囲み込みすぎれば、味方の弾が味方のいる方向へ抜ける可能性がある。だから、三方向から角度を取り、撃つ。事前の説明で聞いてはいたが、実際に見ると、ただ撃てばいいという話ではないことが分かる。

「撃て」

 銃声が重なった。

 一発や二発ではない。三方から弾が撃ち込まれる。スライムの体が波打ち、弾を飲み込むように揺れる。全部が通っているわけではなかった。弾のいくつかは粘性のある体に勢いを殺され、核へ届く前に止まっているように見える。いくつかは体内で逸れ、青緑の塊の中に黒い筋を残した。

「効いてるのか、これ……」

 俺の声が漏れた。

「核に届けば効きます。体表で止まる弾が多い」

 調査員が答える。声は冷静だが、目は笑っていない。

 自衛隊員たちは撃ち続ける。大型スライムが前へ伸びる。隊員が下がる。別方向から撃つ。核を直接狙っているのは分かるが、体が分厚すぎる。弾が処理しきれず、内部で止まり、逸れ、遅れて進む。

 そのうちの一発が、偶然のように核へ届いた。

 濁った粒が割れた。

 大型スライムの体が大きく膨らみ、それから一気に崩れた。床に広がった半透明の粘液が波打ち、少しずつ薄れていく。銃声が止む。隊員の一人が「対象、沈黙」と言った。

 コメントはもう叫び声しかなかった。

『うわあああ』

『倒した!?』

『弾幕で核割った?』

『自衛隊つよ』

『でも怖すぎ』

『これ一人で遭遇したら終わり』

『亀さんよく生きてたな』

 そうだ。

 一人で遭遇したら終わりだ。

 俺はそれを知っている。

 そして、あの人は一人で遭遇して、終わらなかった。

 三方から銃撃を浴びせて、ようやく処理しきれなかった弾が核に届いた。それで倒した。自衛隊のやり方は正しい。合理的だ。安全だ。部隊として強い。

 だが、あの人は違った。

 あの人は、巨大スライムの体の中にある核へ、一本の金属先端を通した。

 無茶だ。

 おかしい。

 やっぱり、あの人だけ何かが違う。

「亀山さん」

 調査員の声で我に返った。俺はカメラを下げそうになっていたらしい。

「あ、すみません。映像、大丈夫です」

「大丈夫です。むしろ、よく撮れていました」

 褒められても、うれしくはなかった。大型スライムが床へ広がった跡を見ていると、喉の奥が乾く。

「発生初期なら、やはり部屋の閉鎖性も不安定だったのかもしれませんね」

 別の調査員が、ぼそっと呟いた。

 俺はそちらを見る。

「今なら大型個体の処理前に離脱できるか分かりません。ただ、発生直後の不安定な状態なら、条件が固定されていなかった可能性はあります」

 それは、俺に向けた説明ではなかったのだと思う。調査員同士の独り言に近い。だが、俺の耳には妙にはっきり残った。

 発生直後の不安定なダンジョンなら、ボス部屋から出られた可能性がある。

 俺の証言の穴を埋める仮説。

 助かった、と思った。

 同時に、まずいとも思った。

 その仮説が通れば、俺の嘘は少しだけ目立たなくなる。だが、調査が進めば進むほど、別の穴が出てくる。道中のスライムはどうしたのか。大型スライムのドロップは見なかったのか。最初に持っていた記録カードはなぜ空だったのか。

 最初は、空の記録カードを代用して「撮り忘れた」でどうにかなった。ダンジョン内では機材トラブルも多かったし、発生直後の混乱もあった。だが、今は映像が安定している。調査が進んでいる。俺の言い訳だけが、発生直後の不安定さにぶら下がっている。

 今はまだ、お客さん待遇だ。

 第一発見者。通報者。現地証言者。国公認配信者。便利な立場で、まだ問い詰められてはいない。

 でも、いつか誰かがしびれを切らすかもしれない。

 いや、うやむやになるかもしれない。というか、うやむやになる気もする。この水門ダンジョンだけでも、国の調査員たちは明らかに持て余している。通信の安定化、スライム、大型個体、ボス部屋、ドロップ、死体消失。俺一人の証言の穴を詰めるより、目の前の未知現象の方が大きすぎる。

 それでも、完全には安心できない。

「亀さん、コメント来てます。大型個体について説明できますか」

 広報担当が小声で言う。

 俺は画面に向き直った。

「えー、今のが大型スライム個体です。以前、俺が初めて水門ダンジョンを見つけた時にも、似た大型個体に遭遇しました。見ての通り、体積が大きく、銃撃でも核まで届かない弾があります。今回も自衛隊の方々が三方向から射撃して、最終的に核を破壊したことで沈黙しました。繰り返しますが、単独で遭遇した場合はまず助かりません。絶対に入らないでください」

『亀さんどうやって助かったん?』

『初回映像ないの惜しすぎ』

『撮り忘れってマジかよ』

『生きてるだけ偉い』

『あれソロ遭遇は無理』

『国公認で言われると説得力ある』

 どうやって助かったのか。

 俺が一番聞きたい。

 いや、知っている。

 あの人だ。

 でも、俺は言わない。

 配信は続いた。大型スライムの残骸は薄れて消え、床には小さな灰色の結晶と、青緑色の核片が残った。今回は、それを自衛隊員が防護容器に回収する。俺はその様子を撮影した。

 あの日も、たぶん何かが残っていたはずだ。

 それを誰が持っていったのかも、俺は知っている。

 言わない。

 言えない。

 大型スライムの処理後、広間の奥にある階段へ向かった。ここから先が、いわゆる下の階層だ。事前説明では、虫型モンスターはこの階層で確認されているらしい。上層では基本的にスライム。下層では虫型。完全に分かれているわけではないが、今のところそういう傾向があるという。

「下層へ進みます。足元に注意」

 隊員の声が通路に響く。

 階段を下りた瞬間、空気が変わった。湿っているのに乾いている。水の匂いではなく、古い殻のような匂いがする。ライトを向けると、壁の亀裂が多い。細い穴もある。虫が隠れるには、いかにも都合がよさそうな場所だった。

 コメント欄も不安げになる。

『雰囲気変わった』

『下の階やばそう』

『虫ってここから?』

『亀さんの本職エリア』

『本職って言うな、死ぬぞ』

『壁の穴きもい』

 俺もきもいと思う。

 虫好きでも、壁の穴から大型の何かが出てくるかもしれない場所は普通に嫌だ。

「左壁面、虫型一」

 声がした直後、ライトの端で脚が動いた。

 ムカデに似た赤黒い体が、壁の亀裂からゆっくり出てくる。長い。太い。脚が石を叩く音が、カメラ越しにも入りそうだった。

 コメント欄が一気に壊れた。

『ぎゃあああああ』

『無理無理無理』

『足足足足』

『画面閉じたい』

『亀さんこれ好きなの?』

『好きでもこれは無理だろ』

『デカすぎる』

『頼む撃って』

 俺も頼む撃ってと思った。

「虫型モンスターです。見た目は既存の節足動物に似ていますが、通常の生物とは異なる点が多く、絶対に接触しないでください。毒性についても調査中です」

 説明しながら、自分の声が少し硬くなるのが分かった。虫は好きだ。だが、好きな虫と、人間の太ももくらいありそうなムカデは別の話だ。ただ、どんな構造をしているのかという好奇心が少し出てくる自分もいた。嫌になる。

「射線確保。撃ちます」

 銃声が鳴った。壁のムカデ型が体を跳ねさせ、数発目で頭部を砕かれた。床へ落ちた脚がしばらく動き、それから止まる。さらに奥から、今度はゲジゲジのような脚の長い個体が流れるように出てきた。速い。細い脚が波のように動き、床を滑るように迫る。

 隊員たちが距離を取って撃つ。足が散り、胴が裂け、最後は動かなくなった。

 やはり自衛隊は強い。

 けれど、ここまで来ると、俺の頭には別の記憶も浮かんでいた。

 夢ではなく、証言でもなく、俺が後で調査員から聞いた話。初期の調査で、白っぽい特殊な虫型個体らしきものが一度だけ確認されたという話だ。脚の根元や体節の隙間に白い付着物があったらしい。映像は一瞬だけ。追跡はできず、その後は一度も見つかっていない。

 初期以降、まったく見なくなった特殊個体。

 調査員たちは、幼体か、変異個体か、光の反射かもしれないと言っていた。俺はその話を聞くたびに、少しだけ嫌な気分になる。理由は分からない。分からないが、水門の奥には、まだ俺の知らないことが沈んでいる気がしてならない。

 下層の撮影は短時間で終わった。虫型を二体処理し、壁面と床のサンプルを回収し、隊は引き返す。深入りはしない。配信用にも、調査用にも、今日はここまでと決まっていた。

 水門の外に戻る頃には、夕方に近づいていた。機材の確認を終え、広報担当に礼を言われる。俺は何度か頭を下げ、現場から少し離れた場所でようやく腰を下ろした。スマホを開くと、今日の配信アーカイブがすでに伸び始めている。

『国公認・水門ダンジョン内部LIVE 大型スライム確認』

 再生数は、虫取り動画では見たことのない数字になっていた。コメントも増え続けている。

『亀さんすごい』

『自衛隊同行は安心感ある』

『虫型きつすぎ』

『大型スライム怖すぎ』

『初回の動画ないの?』

『撮り忘れたの一生言われそう』

『ボス部屋からよく出られたな』

 最後のコメントで、指が止まる。

 ボス部屋からよく出られたな。

 その通りだ。

 俺もそう思う。

 俺は返信欄を開きかけて、やめた。何を書いても嘘になる。何も書かないのが一番いい。

 代わりに、メモアプリを開いた。配信用ではない。自分用だ。誰にも見せない。

 水門ダンジョン。

 通信、かなり安定。

 上層はスライム中心。

 大型スライム、ボス部屋に再出現。

 自衛隊、三方向から射撃。処理しきれなかった弾が核に到達して撃破。

 下層で虫型確認。視聴者に大不評。

 白い特殊個体、初期以降は未確認。

 ボス部屋離脱、発生直後の不安定さで説明される可能性あり。

 証言の穴、まだ残る。

 記録と撮れ高は違う。

 最後の一文を書いて、俺はスマホを伏せた。

 俺は配信者だ。見たものを撮って、話して、誰かに見せる仕事をしている。

 けれど、あの日のことだけは、まだ動画にできなかった。

 見られていないことにしたい人がいる。

 そして、見せてしまったら戻れないものもある。

 水門の奥から、風が吹いた。

 湿った水路の匂いの中に、ほんの少しだけ、乾いた石の匂いが混じっていた。


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