表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/430

第31話 暗渠ダンジョン6

レッドキャップが動くたび、広間の空気が薄く裂けた。


 速いと認識した時には、もう遅い。視界の端で赤い帽子が揺れ、次の瞬間には刃が迫っている。俺は石を投げたが、当たらない。狙った場所へ届く前に、相手がそこから消えていた。


 本体を狙うのを諦め、床や壁へ石を当てる。砕けた破片で足元を乱し、それでようやく一歩分の時間を稼げるかどうかだった。


 俺は横へ跳び、床を転がりながら体勢を立て直した。直前までいた場所を黒い刃が通り過ぎ、遅れて音が耳へ届く。刃物が空気を切るというより、薄い板で水面を裂いたような音だった。


 まともに受ければ終わる。


 服や皮膚だけでは済まない。骨ごと持っていかれる。そう確信させるだけの鋭さがあった。


 左手の石を握り、投げる。狙ったのは顔ではなく、レッドキャップが次に足を置きそうな場所だった。石が床に当たって割れ、破片が散る。相手の動きがほんのわずかにずれ、その隙に俺は後ろへ下がった。


 だが、逃げられる範囲にも限りがある。広いはずの部屋が、レッドキャップの速さによって少しずつ狭められていく。


 広間の中央には、大柄なゴブリンの死体が倒れていた。首は少し離れた場所へ転がり、太い棍棒は片手に握られたままだ。少し前まで、この部屋の主だったもの。本来なら俺が戦うはずだったボスは、今では床へ沈んだ肉の塊にしか見えなかった。


 それを眺めている余裕など、本来はない。


 レッドキャップがまた消えた。


 俺は反射的にこん棒を構えた。


 右側。


 そう判断したというより、体が先に動いた。横から迫った黒い刃へ、こん棒を斜めに差し込む。


 受け止めた。


 そう思った次の瞬間、手の中のこん棒が割れた。


 木とも骨ともつかない棒が斜めに裂け、先端が床へ落ちる。刃を止められたわけではない。斬られるまでの時間を、ほんの一瞬だけ稼いだにすぎなかった。


 俺は反射的に後ろへ下がろうとした。


 その前に、レッドキャップの足が腹へ入った。


 蹴られたと理解するより早く、体が浮いた。


 背中から壁へ叩きつけられ、肺の空気がまとめて押し出される。息が詰まり、腹の奥が熱を持つ。背中には痺れが走り、視界が大きく揺れた。足から力が抜け、膝が落ちかける。


 俺は肩を壁へ押しつけ、どうにか倒れずに踏みとどまった。


 逃げろ。


 頭のどこかではそう叫んでいたが、体はすぐに動かなかった。


 割れたこん棒が床へ落ちる音がした。


 手元に残っているのは、握りの部分だけだ。武器と呼べるものではない。石はあと一つ残っているが、この距離では投げる余裕がなかった。リュックの横には予備のトレッキングポールがある。だが、それを取り出す時間もない。


 レッドキャップが近づいてくる。


 急いでいなかった。


 赤い帽子の下で、口元が歪んでいる。笑っているのかもしれない。腹を蹴られ、壁へ叩きつけられ、呼吸も戻らず、武器まで失った。俺がもう逃げられないことを分かっている。


 実際、その判断は間違っていなかった。


 俺は喉を鳴らし、無理やり息を吸った。胸も背中も痛み、視界の端が白く滲んでいる。足を動かそうとしても、最初の一歩が出なかった。


 レッドキャップは目の前まで来ると、黒い刃をゆっくり持ち上げた。


 速さを見せる必要すらない。


 もう終わった相手へ、とどめを刺すだけの動きだった。


「……おい」


 声が掠れた。


 誰へ向けたのかは、自分でも分からない。少なくとも、レッドキャップに話しかけたわけではなかった。たぶん、俺の中にいる何かへ向けた言葉だ。


「勝手に助けろって、言ったよな」


 返事はない。


 レッドキャップの刃が、さらに持ち上がる。


 首か、胸か。どちらを狙われても、次で終わる。


 俺は残った石を握った。投げるには近すぎる。叩きつけようとしても、腕が届く前に斬られるだろう。それでも、何もしないよりはましだった。


 レッドキャップの腕が動き始める。


 その直前、広間の奥で空気が唸った。


 風切り音とは違う。もっと重く、空気そのものが上から押し潰されるような低い音だった。レッドキャップの赤い帽子が、わずかに揺れる。


 初めて、奴が俺以外の何かへ反応した。


 振り返ろうとする。


 だが、遅かった。


 太い棍棒が、上から落ちた。


 大柄なゴブリンが握っていた、黒い石を埋め込んだ棍棒。その先端が、レッドキャップの背中から肩へ叩きつけられる。


 普通の打撃ではなかった。


 棍棒がぶつかった瞬間、広間の床が震え、鈍い衝撃が壁まで伝わってくる。弾けた空気が、壁際にいる俺の頬まで打った。


 レッドキャップの体が床へ沈んだ。


 潰れたと思った。


 だが、違う。


 細い体は大きく折れ曲がりながらも、まだ動いていた。赤い帽子が床を擦り、黒い刃を握った手が石の床を掻いている。完全には潰れていない。ただ、あれほど止まらなかった動きが、初めて止まっていた。


 棍棒を振り下ろしたものを見て、俺の理解が追いつかなかった。


 大柄なゴブリンの体が立っている。


 首を飛ばされ、床へ倒れたはずのボス。その巨体が、いつの間にか立ち上がっていた。


 首は胴へ戻っている。だが、正しく繋がっているようには見えない。横へ傾き、死んだ目はどこも見ていなかった。口は半開きのままで、声も出ていない。


 生き返ったわけではない。


 直感で分かった。


 動かされているだけだ。


 誰が動かしているのかは、考えるまでもなかった。


「……お前」


 俺は、自分の体へ向けて呟いた。


 いつからだ。


 いつの間に、俺にもレッドキャップにも気づかれず、そんなことをしていた。


 返事はない。


 だが、目の前で動く死体そのものが答えだった。


 俺が逃げ回っている間に、俺の中にいる何かは別の手を打っていた。大柄なゴブリンの首と胴を繋ぎ、再び立たせ、棍棒を振らせた。俺へ知らせることも、許可を求めることもなく。


 背筋が冷えた。


 だが、今はそれどころではない。


 レッドキャップが動き始めた。


 あれだけの一撃を受けても、まだ死んでいない。片手を床へつき、折れた体を起こそうとしている。赤い帽子の下の目には、今度こそはっきりと怒りが浮かんでいた。


 感情がある。


 先ほどまでの余裕は、もう消えていた。


 この隙を逃せば、次はない。


 壊れたこん棒は使えず、残った石だけでも足りない。俺はリュックの横へ手を伸ばした。暗渠へ戻る前に用意していた、予備のトレッキングポール。指をロックへ掛け、そのまま引き抜く。


 完全に伸ばしている時間はない。折り畳まれた状態から最低限の長さだけを引き出し、固定する。


 先端のゴムキャップを外す。


 金属の石突きが露出した。


 水門の大型スライムと戦った時にも使った。あの時は核を突いた。今回はもっと小さく、狙える範囲も狭い。少しでもずれれば終わる。


 頭を砕くほどの力はいらない。


 必要なのは、狙いを外さないことだ。


 レッドキャップが体を起こす。


 大柄なゴブリンの死体が再び棍棒を持ち上げようとするが、動きは遅い。レッドキャップはその気配を察したのか、床を蹴って横へずれた。


 それでも、完全には逃げ切れていなかった。棍棒を受けた影響が残り、体勢が崩れている。傾いた帽子の下から、顔がこちらへ向いた。


 小さな黒い目が見えた。


 俺は踏み込んだ。


 腕の奥で、何かが張る。


 投石の時とは違った。肩から指先だけではない。足、腰、背中、腕。そのすべてが一本の線へ繋がっていく。


 体重を乗せる。


 先端をぶらさない。


 レッドキャップが刃を振ろうとした。


 間に合わない。


 俺はトレッキングポールの石突きを、レッドキャップの右目へ突き込んだ。


 嫌な感触が手に伝わる。


 柔らかいものを抜け、その奥の硬いものへ当たり、そこを滑るように入り込んだ。頭蓋を正面から砕いたわけではない。目の奥にある隙間へ先端を通した。


 普通なら、狙ってできるはずがない。


 だが、今の俺の体は、ほんの数センチの穴へ石突きを通すためだけに動いていた。


 レッドキャップが初めて声を上げた。


 甲高い悲鳴ではない。喉の奥から絞り出すような、耳障りな音だった。細い体が激しく暴れ、振られた刃が俺の腕をかすめる。服が裂け、皮膚へ浅い痛みが走った。


 それでも、手は離さない。


 押し込む。


 逃がさない。


 体重をかける。


 ポールが軋み、金属の先端が曲がっていく感触が伝わった。レッドキャップが身をよじり、赤い帽子が激しく揺れる。俺は歯を食いしばり、さらに押し込んだ。


 奥で、何かが潰れた。


 レッドキャップの体が大きく跳ねた。


 黒い刃を握った手が、俺の脇腹のすぐ近くで止まる。あと少し動いていれば、刃が突き刺さっていた。


 だが、その手はもう動かなかった。


 全身から力が抜け、赤い帽子が床へずり落ちる。俺はポールを握ったまま、しばらく手を離せなかった。


 倒れた。


 レッドキャップが、倒れた。


 俺は荒い息を吐きながら、その場へ膝をつきかけた。背中が痛い。腕も切れている。脇腹にも冷たい感触があり、血が出ているのかもしれない。それでも傷は深くなさそうだった。たぶん、まだ動ける。


 勝った。


 いや、勝たされた。


 そう思った。


 俺一人なら、間違いなく死んでいた。石も、こん棒も、暗がりを見通す力も、あの相手には足りなかった。大柄なゴブリンの死体が動かなければ、俺は壁際で首を飛ばされて終わっていた。


 最後の一撃を入れたのは俺だ。


 だが、その一撃を通すための隙は、俺の知らないところで作られていた。


 大柄なゴブリンの死体は、棍棒を振り下ろした姿勢のまま傾いていた。首は不自然に繋がり、目には生気がない。やがて支えを失ったように、巨体がゆっくりと床へ倒れた。


 今度こそ、ただの死体へ戻ったように見えた。


 レッドキャップの体が、ぴくりと動いた。


 俺は反射的に後ろへ下がる。


 だが、動いたのはレッドキャップ自身ではなかった。


 白い糸が伸びていた。


 俺の指からでも、腕からでも、目からでもない。いつの間にか床を這っていた細い白いものが、レッドキャップの体へ触れている。


 大柄なゴブリンを動かしていたものの残りなのか、俺の体から切り離されていたものなのかは分からない。


 白い糸はそのまま傷口へ滑り込んでいった。


 赤い帽子が白く濁る。


 黒い刃を握っていた手が震える。


 体全体から、内側より色が抜けていく。普通のゴブリンを吸収した時よりも遅く、レッドキャップ自身が抵抗しているようにも見えた。赤が薄れ、黒が抜け、細い体が乾いた泥のように崩れ始める。


 それでも、白い糸は止まらなかった。


 俺は、その様子を見ていた。


 止める気はない。止められるとも思っていなかった。


 あれを取り込むのか。


 そう考えた瞬間、背筋がわずかに冷えた。


 レッドキャップは明らかに普通のゴブリンとは違った。たぶん、ユニークと呼ばれるような存在なのだろう。少なくとも、俺はそう考えることにした。


 そんなものを取り込んで、俺の中にいる何かがどう変わるのか。


 考えたくはなかった。


 だが、吸収はすでに始まっている。


 すべてが終わるまで、数分かかった。


 レッドキャップの体は、最後まで普通のゴブリンのようには崩れなかった。何度か形を保とうとするように震え、そのたびに白いものが内側から広がっていく。


 最後に赤い帽子が潰れ、乾いた粉のようになって床へ散った。


 その場には、一本の武器だけが残った。


 山刀だった。


 刃渡りは短く、鉈にも近い形をしている。刃は血錆のような赤黒さを帯び、柄は黒く、妙に細い。レッドキャップが使っていた黒い刃と同じもののはずなのに、死体が消えた後では刃の赤みが前よりもはっきり見えた。


 赤錆の山刀。


 そんな名前が自然に浮かんだ。


 俺はしばらく、それを拾えなかった。


 持ち帰ってはいけないものだと思った。


 刃物であり、しかも明らかに普通の品ではない。こん棒のように、その場で拾って使い、壊れれば捨てるような道具でもない。これは武器だ。それも、レッドキャップが残したものだった。


 だが、置いていくのも怖い。


 次に誰かが拾うかもしれない。時間が経てばダンジョンへ吸われる可能性もあるが、確証はなかった。特別な存在が残した武器を広間へ放置して帰ることも、まともな判断には思えない。


 持ち帰りたい理由を探している。


 そう気づいた時点で、答えは出ていたのかもしれない。


 俺はこれを置いて帰りたくなかった。


 これから先、こん棒だけでは足りない。現地で拾った棒では、レッドキャップの刃を一瞬止めることすらできなかった。投石にも限界がある。近い距離で生き残るための武器が必要だった。


 そう考えれば、この山刀はあまりにも分かりやすい答えだった。


 俺は手袋の状態を確認し、赤錆の山刀を拾い上げた。


 見た目よりも軽い。


 握った瞬間、嫌になるほど手へ馴染んだ。まだ一度も振っていないのに、どこから斬ればいいのかが分かるような気がする。


 相手の正面から叩き割るための武器ではない。


 死角へ入り、隙間へ刃を通す。


 レッドキャップの動きの名残が、刃の中へ残っているように思えた。


 気持ち悪い。


 だが、使える。


 俺は山刀をタオルで包み、ビニール袋を二重にしてから、リュックの底へ入れた。帰りは車で、電車へ乗るわけではない。


 それでも、まともな判断ではなかった。


 広間は静かになっていた。


 大柄なゴブリンと取り巻きの死体も、少しずつ薄れ始めている。床へ広がっていた血が消え、レッドキャップのいた場所に残った赤黒い粉も、石の中へ沈むように失われていった。


 壁の亀裂の前に置かれていたものだけが、まだ残っている。


 箱ではなかった。


 黒い石で作られた、小さな器だった。


 中には何も入っていないように見えたが、底に薄い赤い染みが残っている。レッドキャップの帽子とよく似た、暗い赤だった。


 触れる気にはなれなかった。


 今は無理だ。


 戦いで体力を使いすぎた。背中も痛み、腕も切れている。トレッキングポールは先端が曲がり、もうまともには使えない。赤錆の山刀は手に入れたが、ここでさらに何かを調べる余裕はなかった。


 生きて帰る。


 それを優先する。


 俺は壊れたポールを回収し、大柄なゴブリンが持っていた太い棍棒へ目を向けた。黒い石を埋め込まれた先端は、先ほどの一撃で床をわずかに砕いている。


 欲しいとは思わなかった。


 大きすぎて、重すぎる。持ち帰る方法も理由もない。何より、あれを見ると、首を繋がれた死体が棍棒を振り下ろした光景が頭へ浮かんだ。


「……お前……いや、やるじゃねえか」


 俺は小さく言った。


 今度は、はっきりと体の中にいる何かへ向けていた。


「助かったよ」


 返事はない。


 だが、それでよかった。


 広間を出る前に、俺はもう一度だけ振り返った。


 本来なら戦うはずだった部屋の主は死に、特別な外れくじのように現れた赤い帽子も消えた。床では、少し前までの戦いが嘘だったように、すべての痕跡が失われつつある。


 勝った。


 生きている。


 そして、持って帰ってはいけないものを、また一つ持ち帰る。


 俺はリュックの重さを確かめ、来た通路へ向かった。


 今度こそ、帰るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ