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第31話 暗渠ダンジョン6


 レッドキャップが動くたびに、広間の空気が薄く裂けた。速い。そう思った時には、もう遅い。視界の端で赤い帽子が揺れ、次の瞬間には刃が来る。俺は石を投げる。だが、当たらない。正確には、当てる場所へ相手がいない。床を狙い、壁を狙い、砕けた破片で足元を乱そうとする。それでようやく、一歩分の時間が稼げるかどうかだった。

 俺は横へ跳び、転がるように体勢を立て直した。さっきまでいた場所を、黒い刃が通り過ぎる。音が遅れて耳に届く。刃物が空気を切る音というより、薄い板で水面を裂いたような音だった。あれをまともに受ければ終わる。服や皮膚ではなく、骨ごと持っていかれる。そう思うだけの説得力があった。

 左手の石を握り、投げる。狙ったのは顔ではない。レッドキャップの進路の少し前。足を置きそうな場所だ。石が床に当たり、割れる。破片が散る。レッドキャップの動きが、ほんのわずかにずれた。俺はその隙に後ろへ下がる。だが、下がる先にも余裕はない。広間は広いはずなのに、レッドキャップの速度のせいで逃げ場が削られていく。

 広間中央には、大柄なゴブリンの死体が倒れている。首は少し離れたところに転がり、太い棍棒は片手に握られたままだった。さっきまでこの部屋の主だったもの。普通なら、俺が戦うはずだったボス。今はただ、床に沈んだ肉の塊に見えた。

 それを見る余裕など、本来ない。

 レッドキャップがまた消えた。

 俺は反射的にこん棒を構える。右側。そう思った。いや、思わされたのかもしれない。体が先に動く。黒い刃が横から来る。俺はこん棒を斜めに入れた。

 受けた、と思った。

 次の瞬間、手の中のこん棒が割れた。

 木とも骨ともつかないその棒が、斜めに裂ける。刃を止めたのではない。斬られるまでの一瞬を稼いだだけだった。

 俺は反射的に後ろへ下がろうとした。

 だが、その前にレッドキャップの足が腹に入った。

 蹴られた、と理解するより先に体が浮く。

 背中が壁に叩きつけられた。

 息が詰まる。

 腹の奥が熱く、背中が痺れる。肺の中の空気が、まとめて押し出されたようだった。視界が揺れる。足に力が入らない。膝が落ちかける。壁に肩を押しつけ、どうにか倒れずに済ませる。逃げろ。頭のどこかでそう思う。だが、体がすぐには動かなかった。

 割れたこん棒が、床へ落ちる音がした。

 手元に残ったのは、握りの部分だけだった。武器とは呼べない。石はあと一つ。だが、今の距離では投げる余裕がない。リュックの横にはトレッキングポールがある。だが、取り出す時間がない。

 レッドキャップが近づいてくる。

 急いでいなかった。

 赤い帽子の下で、口元が歪んでいる。笑っているのかもしれない。俺が動けないことを分かっている。腹を蹴られ、背中を壁に打ちつけ、呼吸が戻らず、手元のこん棒も壊れた。もう逃げられない。そう判断しているようだった。

 実際、間違っていない。

 俺は喉を鳴らし、無理やり息を吸った。胸が痛む。背中も痛い。視界の端が白く滲む。足を動かせ。そう思っても、最初の一歩が出ない。レッドキャップは目の前まで来ると、黒い刃をゆっくり持ち上げた。

 速さではなかった。

 余裕のある動きだった。

 もう終わった相手に、とどめを刺すだけの動き。

「……おい」

 声が掠れた。

 誰に向けたのかは、自分でも分からない。レッドキャップではない。俺の中の何かに、たぶん言っていた。

「勝手に助けろって、言ったよな」

 返事はない。

 レッドキャップの刃が、さらに上がる。

 首か、胸か。どちらにせよ、次で終わる。そう分かった。俺は残った石を握った。投げるには近すぎる。叩きつけるにも、届く前に斬られる。それでも、何もしないよりはましだ。

 レッドキャップの腕が動き出した。

 その直前、広間の奥で空気が唸った。

 風切り音ではない。もっと重い。空気そのものが上から押し潰されるような、低い音圧だった。レッドキャップの赤い帽子が、ほんのわずかに揺れる。

 レッドキャップが初めて、俺ではない何かへ反応した。

 振り返ろうとする。

 だが、遅かった。

 太い棍棒が、上から落ちた。

 大柄なゴブリンが持っていた、黒い石を埋め込んだ棍棒。その一撃が、レッドキャップの背中から肩にかけて叩きつけられた。普通の打撃ではなかった。棍棒がぶつかった瞬間、広間の床が震え、鈍い衝撃が壁まで伝わってくる。空気が弾け、俺の頬にも圧が当たった。

 レッドキャップの体が床へ沈む。

 潰れた、と思った。

 だが違った。

 細い体は折れながらも、まだ動いている。赤い帽子が床に擦れ、黒い刃を持った手が石の床を掻いた。レッドキャップは完全には潰れていない。ただ、初めて動きが止まっていた。

 そして、その棍棒を振り下ろしたものを見て、俺は理解が追いつかなかった。

 大柄なゴブリンの体が立っていた。

 さっき首を飛ばされたはずのボス。床に倒れ、死体になっていたはずの巨体。それが、いつの間にか立ち上がっていた。首は胴に戻っている。だが、正しく繋がっているようには見えない。傾いている。死んだ目が、どこも見ていない。口は半開きのまま、そこから声は出ない。

 生き返ったわけではない。

 そう直感した。

 動いているだけだ。

 誰が動かしているのかなど、考えるまでもない。

「……お前」

 俺は自分の体へ向けて呟いた。

 いつからだ。

 いつの間に。

 俺にも、レッドキャップにも気づかれないまま、何をしていた。

 答えはない。だが、目の前の死体が答えだった。俺が逃げ回っている間に、俺の中の何かは、別の手を打っていた。大柄なゴブリンの首と胴を繋ぎ、棍棒を振らせた。俺に相談もなく、俺に知らせもなく。

 ぞっとした。

 だが、今はそれどころではない。

 レッドキャップが動き始める。

 棍棒の一撃を受けても、まだ死んでいない。床に片手をつき、細い体を起こそうとしている。赤い帽子の下の目が、今度は明らかに怒っていた。感情がある。そう思った。さっきまでの余裕は消えている。

 この隙を逃したら、もうない。

 壊れたこん棒は使えない。石も足りない。俺はリュックの横へ手を伸ばした。予備のトレッキングポール。暗渠へ戻る前に持ってきたもう一本。指がロックに触れる。引き抜く。伸ばしている余裕はない。折りたたんだ状態から最低限の長さだけを出し、固定する。

 先端のゴムキャップを外す。

 金属の石突きが露出した。

 大型スライムの時にも使った。あの時は核を突いた。今回は違う。狙うのは、もっと小さい。もっと狭い。ずれれば終わる。

 頭を砕く力はいらない。

 必要なのは、ずれないこと。

 レッドキャップが体を起こす。大柄なゴブリンの死体がもう一度棍棒を振ろうとするが、動きが遅い。レッドキャップはその気配を察したのか、床を蹴って横へずれた。だが、完全には逃げられていない。棍棒の圧で体勢が乱れている。帽子が傾き、顔がこちらへ向いた。

 目が見えた。

 小さな黒い目。

 俺は踏み込んだ。

 腕の奥で、何かが張る。投石の時とは違う。肩から指先までではなく、足、腰、背中、腕、その全部を一本の線にされるような感覚だった。体重を乗せる。ぶれない。先端を逃がさない。

 レッドキャップが刃を振ろうとする。

 間に合わない。

 俺はトレッキングポールの石突きを、レッドキャップの右目へ突き込んだ。

 嫌な感触があった。

 柔らかいものを抜け、奥の硬いものに当たり、そこを滑るように入り込む。頭蓋を砕いたわけではない。目の奥の隙間を通した。普通なら、狙ってできるはずがない。だが、今の俺の体は、ほんの数センチの穴へ先端を通すためだけに動いていた。

 レッドキャップが初めて声を上げた。

 甲高い悲鳴ではない。喉の奥から絞り出すような、耳障りな音だった。細い体が暴れる。刃が俺の腕をかすめる。服が裂け、皮膚が浅く切れる。痛みが走る。だが、手を離さなかった。

 押し込む。

 逃がさない。

 体重をかける。

 ポールが軋む。先端が曲がる感覚が伝わる。レッドキャップが身をよじり、赤い帽子が揺れる。俺は歯を食いしばり、さらに押した。

 奥で、何かが潰れた。

 レッドキャップの体が跳ねた。

 黒い刃を持った手が、俺の脇腹の近くで止まる。あと少し動いていれば刺さっていた。そう思ったが、その手はもう動かなかった。体から力が抜け、赤い帽子が床へずり落ちる。俺はポールを握ったまま、しばらく離せなかった。

 倒れた。

 レッドキャップが、倒れた。

 俺は荒い息を吐きながら、その場に膝をつきかけた。背中が痛い。腕も痛い。脇腹に冷たい感触がある。血が出ているのかもしれない。だが、深くはない。たぶん動ける。

 勝った。

 いや、勝たされた。

 そう思った。

 俺一人なら、間違いなく死んでいた。石も、こん棒も、暗視も、今の相手には足りなかった。大柄なゴブリンの死体が動かなければ、壁際で首を飛ばされて終わりだった。最後の一撃だけは俺がやった。だが、その一撃を入れるための隙は、俺の知らないところで作られていた。

 大柄なゴブリンの死体は、棍棒を振り下ろした姿勢のまま傾いていた。首は不自然に繋がり、目は死んだまま。もう動いていない。支えを失ったように、その巨体がゆっくり倒れる。今度こそ、ただの死体になったように見えた。

 レッドキャップの体が、ぴくりと動いた。

 俺は反射的に後ろへ下がった。だが、動いたのはレッドキャップ自身ではなかった。

 白い糸が伸びていた。

 俺の指からではない。腕からでも、目からでもない。いつの間にか床を這っていた細い白いものが、レッドキャップの体へ触れていた。大柄なゴブリンを動かしていたものの残りなのか、俺の体から落ちていたものなのかは分からない。分からないまま、白い糸はレッドキャップの傷口へ滑り込んでいく。

 赤い帽子が白く濁る。

 黒い刃を持っていた手が震える。

 体全体が、内側から色を失っていく。ゴブリンの時より遅い。抵抗しているようにも見えた。赤が薄れ、黒が抜け、細い体が乾いた泥のように崩れていく。それでも、白い糸は止まらなかった。

 俺はそれを見ていた。

 止める気はなかった。止められるとも思っていなかった。

 あれを取り込むのか。

 そう考えた時、少しだけ背筋が冷えた。

 レッドキャップは明らかに特別だった。普通のゴブリンとは違う。たぶん、ユニーク。少なくとも、俺はそう思うことにした。そんなものを取り込んで、俺の中の何かがどう変わるのか。考えたくない。だが、目の前ではもう始まっている。

 数分かかった。

 レッドキャップの体は、最後まで普通のゴブリンのようには崩れなかった。何度か形を保とうとするように震え、そのたびに白いものが内側から広がった。最後に赤い帽子が潰れ、乾いた粉のようになって床へ散った。

 その後に、一本の武器が残った。

 山刀だった。

 刃渡りは短めで、鉈にも近い。刃は赤黒く、血錆のような色をしている。柄は黒く、妙に細い。レッドキャップが使っていた黒い刃とは同じもののはずなのに、死体が消えた後に見ると、刃の赤みが前よりはっきりしていた。

 赤錆の山刀。

 そんな名前が、自然に浮かんだ。

 俺はしばらく、それを拾えなかった。

 持ち帰ったら駄目なものだ。

 そう思った。

 刃物だ。しかも、明らかに普通ではない。持って帰る理由などない。いや、普通ならない。こん棒とは違う。ここで拾って、ここで捨てるような道具ではない。これは武器だ。しかも、レッドキャップが残したものだ。

 だが、置いていくのも怖かった。

 次に誰かが拾うかもしれない。ダンジョンに吸われて消えるかもしれないが、確証はない。ユニークっぽいボスが残した武器を、このまま広間に放置する。それは、それでまともな判断には思えなかった。

 持ち帰りたい理由を探している。

 そう気づいた時点で、もう答えは出ていたのかもしれない。

 俺はこれを置いて帰りたくなかった。

 今後、こん棒だけでは足りない。現地調達の棒では、レッドキャップの刃を止めることすらできなかった。投石も万能ではない。近接で、生き残るための武器がいる。そう考えると、この山刀はあまりにも分かりやすい答えだった。

 俺は手袋を確認し、赤錆の山刀を拾った。

 見た目より軽かった。

 握った瞬間、嫌なほど手に馴染んだ。振っていないのに、どこから斬ればいいのか分かるような気がした。相手の正面から叩き割る武器ではない。死角へ入り、隙間へ通す。そういう武器だ。レッドキャップの動きの名残のようなものが、刃の中に残っている気がした。

 気持ち悪い。

 だが、使える。

 俺は山刀をタオルで包み、ビニール袋を二重にした。リュックの底へ入れる。帰りは車だ。電車に乗るわけではない。それでも、まともな判断ではない。

 広間は静かになっていた。

 大柄なゴブリンの死体も、取り巻きの死体も、少しずつ薄れ始めている。床の血も消えていく。レッドキャップがいた場所には、赤黒い粉のようなものがわずかに残り、それも石の床に沈むように消えていった。

 壁の亀裂の前に置かれていたものが、まだ残っている。

 箱ではなかった。

 黒い石でできた小さな器だった。中には何も入っていない。いや、底に薄く赤い染みのようなものが残っている。レッドキャップの帽子と同じような、暗い赤。触る気にはなれなかった。

 これは、今は無理だ。

 そう判断した。

 戦いで体力を使いすぎた。背中も痛い。腕も切れている。トレッキングポールは先端が曲がり、もうまともには使えない。赤錆の山刀は手に入れたが、今ここでさらに何かを調べる余裕はない。

 生きて帰る。

 それを優先する。

 俺は壊れたポールを回収し、大柄なゴブリンが持っていた太い棍棒を見た。黒い石が埋め込まれたそれは、さっきの一撃で床をわずかに砕いていた。欲しいとは思わなかった。大きすぎる。重すぎる。持ち帰る理由も方法もない。何より、あれを見ていると、首の繋がった死体が棍棒を振り下ろした光景が頭に浮かぶ。

「……お前......いや......やるじゃねえか」

 俺は小さく言った。

 今度は、はっきりと体の中の何かに向けていた。

「助かったよ」

 返事はない。

 だが、それでよかった。

 俺は広間を出る前に、もう一度だけ振り返った。普通なら戦うはずだった部屋の主は死に、特殊な外れくじみたいな赤い帽子も消えた。床には、少し前までの戦いが嘘だったように何も残らなくなっていく。

 勝った。

 生きている。

 そして、持って帰ってはいけないものを、また一つ持って帰る。

 俺はリュックの重さを確かめ、来た通路へ向かった。

 今度こそ、帰るために。


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