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第30話 暗渠ダンジョン5


 広間の入口で、俺は動けずにいた。足を踏み入れたわけではない。まだ、黒い石の通路の端にいる。だが、広間の中にいる大きなゴブリンは、こちらを見ていた。気づかれた。そう思った瞬間、喉の奥が少し乾いた。

 中央にいる大柄なゴブリンは、今までの個体とは明らかに違っていた。小柄な子供ほどの体ではない。背丈は低いが、胴が太く、腕が長い。肩には獣の皮のようなものを掛け、片手には黒い石を埋め込んだ太い棍棒を握っている。周囲には取り巻きらしい小型のゴブリンが二体。片方は板を構え、もう片方は短い槍を持っている。

 あれが、この部屋の主だ。

 見た瞬間に、そう分かった。

 水門の大型スライムとは形も気配も違う。だが、広間の中央にいる存在感だけは似ていた。通路のゴブリンとは違う。あれを倒さないと、この先へは進めない。たぶん、そういう部屋なのだ。

 俺は入口の手前で、もう一度状況を整理した。手元の石は二つ。足元にも拾えそうなものはある。右手にはこん棒。使い慣れているとは言えないが、ゴブリン一体なら押し切れることは分かった。暗がりの輪郭も拾える。天井に何かが張りついていないかは、さっき確認した。今のところ、見える範囲に異常はない。

 それでも、勝てるかどうかは分からない。

 取り巻きを石で落とす。大柄なやつは距離を取りながら足を潰す。近づかれたら逃げる。棍棒の一撃は受けない。そう考える。考えるほど、計画というより願望に近い気がしてくる。

「……普通なら、ここで帰るよな」

 声は小さく出た。

 体の中から返事はない。

「でも、帰ったところで、また来るんだろうな」

 自分で言って、少し嫌になった。たぶん、その通りだった。ここで引き返しても、俺はこの部屋のことを考え続ける。あの大きなゴブリンの奥に見えたもの。壁の亀裂の前に置かれた、箱か、壺か、石の器のようなもの。あれが何なのか分からないまま帰れば、どうせまた戻ってくる。

 なら、今見る。

 そう決めるしかなかった。

「答えなくていい」

 俺は体の中の何かへ向けて言った。

「ただ、死にそうになったら勝手に助けろ」

 言ってから、自分でも勝手な話だと思った。勝手に入ってきた相手に、勝手に助けろと言っている。だが、今さら遠慮するような関係でもない。

 俺は左手で石を握り、右手のこん棒を持ち上げた。

 一歩。

 広間へ足を踏み入れた。

 その瞬間、空気が変わった。

 見えない膜を越えたような感覚があった。背後の通路が遠くなる。音が少し沈む。広間の中央にいた大柄なゴブリンが、ゆっくりとこちらへ体を向けた。取り巻き二体も動く。板持ちが前へ出る。槍持ちが横へずれる。大柄なゴブリンは、太い棍棒を肩に担いだまま、口を歪めた。

 笑った。

 そう見えた。

 俺は石を構えた。まず板持ちを落とす。次に槍。大柄なやつはその後だ。そう決め、腕へ力を通そうとした。

 だが、先に動いたのは、広間の中央のゴブリンではなかった。

 大柄なゴブリンの背後で、赤いものが揺れた。

 最初は、壁の影かと思った。次に、布だと思った。薄暗い広間の奥、黒い石壁の前に、赤い布のようなものが浮かんでいる。いや、浮いているのではない。誰かがかぶっている。

 赤い帽子。

 血を吸ったような、暗く濡れた赤だった。

 大柄なゴブリンが気づいたのか、わずかに肩を動かした。

 次の瞬間、首が飛んだ。

 俺は、何が起きたのか理解できなかった。

 黒い線が走ったように見えた。刃物だ。だが、形は見えない。赤い帽子の小さな影が、大柄なゴブリンの背後をすり抜けた。その直後、太い首が胴体から離れ、重い音を立てて床へ落ちた。

 首を失った体は、しばらく立っていた。

 信じられないほど、長く見えた。太い棍棒を握ったまま、肩を揺らし、膝を曲げ、それから崩れる。床に倒れた衝撃で、広間の空気が震えた。取り巻き二体が固まる。片方が短く鳴いた。恐怖なのか、警戒なのかは分からない。

 俺は石を握ったまま、動けなかった。

 あれは、この部屋の主だった。

 俺の見立ては間違っていなかったはずだ。普通なら、あの大柄なゴブリンと戦う部屋だった。取り巻きもいて、武器も違って、中央に立っていた。あれは本物のボスだった。

 だが、そのボスが、一瞬で殺された。

 赤い帽子の影が、ゆっくりとこちらを向く。

 背は低い。普通のゴブリンより少し小柄にすら見える。だが、体の線が違った。痩せているのに、弱そうには見えない。手足は細く、動きに無駄がない。腰のあたりには、短い刃物がぶら下がっている。片手に持った刃は、ゴブリンの石刃とはまるで違う。黒く、薄く、濡れているように光っていた。

 赤い帽子から、何かが滴っていた。

 血だ。

 たぶん、さっき飛ばした首の血ではない。もっと古い。乾きかけ、また濡れたような、嫌な赤。帽子そのものが、血を吸って色を保っているように見えた。

 レッドキャップ。

 そんな名前が、頭に浮かんだ。

 どこかで見たことがある。民間伝承か、ゲームか、小説か。赤い帽子の小人。血で帽子を赤く染める怪物。思い出した情報が正しいかどうかは分からない。だが、目の前のものには、その名前が妙に合っていた。

 取り巻きのゴブリンが一体、逃げようとした。

 赤い帽子が揺れる。

 次の瞬間、そのゴブリンの体が斜めに裂けた。俺には、ほとんど動きが見えなかった。足音もなかった。気づいた時には、レッドキャップはさっきと違う位置に立っていて、逃げようとしたゴブリンは床に崩れていた。

 もう一体は、板を構えたまま震えている。

 レッドキャップがそちらを見る。

 板持ちのゴブリンは、甲高い声を上げて突っ込んだ。恐怖でそうなったのか、命令されているのかは分からない。板を前に押し出し、体ごとぶつかろうとする。

 赤い帽子が、少し沈んだ。

 刃が下から上へ走る。

 板ごと、腕が落ちた。

 次に首が裂けた。

 板持ちのゴブリンは、叫ぶ間もなく倒れた。

 広間の中で、動いているのは俺とレッドキャップだけになった。

 いや、俺は動けていない。

 動けているのは、あいつだけだ。

 まずい。

 そう思った。

 戦う相手ではない。

 少なくとも、今の手札で正面からやっていい相手ではない。石を投げれば当たるのか。こん棒が届く距離まで近づけるのか。暗がりの輪郭が見える程度で、あの動きを追えるのか。考えるまでもなかった。

 無理だ。

 体の奥が冷えた。だが、不思議と足は床に貼りついていない。逃げろ。そう思えば、たぶん動ける。だが、背後の通路へ戻れるのか。ボス部屋に入った以上、外へ出られるのか。確かボス部屋からはボスを倒さなければ出られなかったはず。もしも出られないとしたら致命的な隙を見せる事になる、逃げ道はないと考えろ。

 レッドキャップが、こちらを見る。

 目は小さく、黒かった。笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。口元がわずかに歪む。大柄なゴブリンが見せた笑いとは違う。あれは威嚇だった。目の前のこれは、もっと静かで、もっと嫌なものだった。

 俺は左手の石を握った。

 投げるか。

 投げた瞬間に、避けられる気がした。

 なら、足元か。壁に当てて逸らすか。取り巻きはもういない。囮もない。こん棒はあるが、近づかれた時点で終わる。距離を維持しなければならない。だが、相手の方が速い。

「……おい」

 俺は声を出していた。

 誰に言ったのか、自分でも分からない。レッドキャップにではない。たぶん、体の中の何かにだった。

「これ、引いていいやつじゃないだろ」

 返事はない。

 だが、体は動いた。

 俺は石を投げた。

 狙ったのは、レッドキャップ本体ではない。足元の少し手前。石が床に当たり、砕け、破片が散る。その瞬間、俺は横へ跳んだ。レッドキャップの姿が消える。いや、消えたように見えた。

 さっきまで俺がいた場所を、黒い刃が通った。

 空気が裂ける音がした。

 遅れて、背中に冷たい汗が噴き出す。

 見えなかった。

 だが、避けられた。

 石の破片でほんの一瞬だけ、相手の踏み込みがずれたのかもしれない。あるいは、俺の体の中の何かが、先に動かしたのかもしれない。どちらでもいい。今は、生きている。

 レッドキャップが振り返る。少し意外そうにしている、やっぱり感情もあるのかこいつら!。

 赤い帽子が揺れる。

 俺はこん棒を構えた。

 勝てる気はしない。

 だが、死ぬ気もなかった。

 この部屋の普通の主は、もう死んだ。

 俺は、引くに引けないまま、特別な外れくじと向き合っていた。


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