第29話 暗渠ダンジョン4
祭壇の奥へ続く通路は、前に逃げ込んだ時よりも長く感じた。実際に長くなっているのか、俺の足取りが遅いだけなのかは分からない。あの時は、背後からゴブリンに追われていた。左腕から血を流し、右手に黒い石を握りしめ、ただ行き止まりへ向かって走った。今は違う。逃げているわけではない。石を持ち、こん棒を持ち、ライトを構えて、自分の意思で奥へ進んでいる。
それだけの違いなのに、通路の見え方はかなり変わっていた。壁の黒さ。床の細かな段差。天井の低さ。前回は全部、逃げ場のない圧迫感にしか見えなかった。今は、どこから敵が出るか、どこで石を拾えるか、どこなら引いて戦えるかを見ている。自分がそういう目でダンジョンを見ていることに、少しだけ苦笑しそうになった。
「なあ」
声は、思ったより小さく出た。
誰に向けた言葉なのかは、考えるまでもなかった。俺以外には誰もいない。いや、正確には、俺の中にいる。
「さっきの祭壇、お前の場所だったのか」
返事はない。
分かっていた。返事が来るとは思っていない。声が頭の中に響くこともないし、言葉で答えてくれることもない。それでも、口に出してみると妙な感じがした。独り言よりは、少しだけ誰かに向けている。問いかけているのに、答えを期待していない。
「懐かしいって感じたのは、俺じゃない。たぶん、お前だろ」
通路は静かだった。こん棒を持つ手に、さっきまでの血の重さが少し残っている気がする。俺は歩きながら続けた。
「答えなくていい。どうせ答えられないんだろうし」
言ってから、少しだけ変な気分になった。話しかけている相手は寄生虫だ。体の中に勝手に入って、傷を塞ぎ、死体を吸収し、俺の腕を強くした何かだ。普通なら、会話の相手として扱うようなものではない。
だが、祭壇で流れてきた感情を思い出すと、ただの道具や病気のようにも思えなかった。
懐かしさ。
寂しさ。
あれが本当にこいつのものなら、こいつには何かがある。言葉にならないだけで、何かを覚えているのかもしれない。あるいは、覚えていないのに、感情だけが残っているのかもしれない。
「お前、何なんだろうな」
返事はなかった。
代わりに、前方から小さな物音がした。
俺は足を止め、声を出すのをやめた。通路の先は緩く曲がっている。ライトを向けると、奥の壁が黒く光った。音は一つではない。ゴブリンの足音。軽い。だが、今回は妙に間隔が整っていた。
見張りか。
そう思った。
曲がり角の手前で身を低くする。暗がりの輪郭が見えるおかげで、ライトを真正面へ向けなくても壁の位置が分かる。俺は床に落ちていた石を拾い、左手で握った。右手のこん棒は下げたままにする。
曲がり角の向こうに、ゴブリンが一体いた。
ただ立っているのではない。壁際に身を寄せ、通路の手前を見ている。手には短い槍。足元には、拳ほどの石がいくつか置かれている。偶然落ちているのではない。置いてあるように見えた。
嫌な感じだ。
今までのゴブリンは、見つければ襲ってくるだけだった。こいつは違う。何かを待っている。少なくとも、通路の入口を見るという役割をしている。
俺は石を握り直した。気づかれる前に落とす。そう決めた瞬間、ゴブリンの耳がぴくりと動いた。こちらを見たわけではない。だが、何かに気づいた。
石を投げる。
腕の奥が張る。石はまっすぐ飛んだ。ゴブリンのこめかみを狙った。だが、ゴブリンはほんのわずかに体を引いた。完全には避けられない。石は額の端に当たり、頭を裂くように弾けた。ゴブリンは倒れたが、声が漏れた。
短い悲鳴だった。
俺は舌打ちしそうになり、すぐに前へ出た。
奥で足音が増える。
やはり、見張りだったらしい。
二体。いや、三体いる。
通路の奥から走ってくる音がした。俺はすぐに次の石を握った。一体目が見えた瞬間に投げる。胸に当たる。倒れはしない。板のようなものを体の前に構えていた。石はその板を砕いたが、勢いが殺された。ゴブリンはよろめきながらも止まらない。
近い。
俺はこん棒を構えた。
ゴブリンが石刃を振る。俺は半歩引いてかわし、横からこん棒を叩きつける。腕を弾く。もう一撃で頭を狙おうとした時、奥から二体目が飛び出した。そいつは石刃ではなく、短い棒を突き出すように持っていた。俺の足を狙っている。
雑ではない。
そう思った。
前の一体を押し倒すように蹴り、俺は横へ逃げた。足元を狙った棒が、石の床を打つ。そこへ左手の石を投げる。距離が近すぎて、投げるというより叩きつけるに近かった。石は二体目の頬に当たり、顔の半分を潰した。倒れる。
一体目が起き上がろうとしていた。
俺はこん棒を振り下ろした。
鈍い音。
動かなくなる。
残りの一体は、少し後ろで止まっていた。喉を膨らませている。呼ぶつもりだ。俺は床の石を拾う時間がないと判断し、右手のこん棒を投げた。
こん棒は綺麗には飛ばなかった。回転しながら壁に当たり、跳ねて、ゴブリンの肩にぶつかっただけだった。だが、喉の膨らみは崩れた。声が途切れる。俺はその隙に走り寄り、落ちていた板の破片を蹴り飛ばしながら踏み込んだ。
拳で殴るか、一瞬迷った。
だが、右手はすでに動いていた。こん棒を拾い直す時間はない。俺はゴブリンの顔を、壁へ押し込むように殴った。拳に硬い感触が返る。痛い。だが、痛みより先に骨のようなものが砕ける感覚があった。ゴブリンの体が壁に跳ね、床に崩れる。
息が上がっていた。
腕も少し痺れている。
投石だけなら、もっと楽だった。距離があり、相手がこちらに気づかず、射線が通っていれば処理できる。だが、一度崩れると一気に面倒になる。盾のような板。見張り。声で呼ぶ役。足を狙う奴。単体なら弱い。だが、組み合わされると手間が増える。
俺は倒れた三体を見下ろした。
さっきまでのゴブリンとは違う。
強いというより、やりにくい。
その言葉が近かった。
「……お前らも、奥に行くほどまともになるのか」
返事の代わりに、通路の奥から空気が流れてきた。
俺は落としたこん棒を拾った。さっき投げたせいで、先端に欠けが入っている。まだ使えるが、長くはもたないかもしれない。現地調達品としては十分だ。使えなくなったら捨てればいい。
白い糸は、今回は出なかった。
俺は少しだけそれを意識した。ゴブリン三体の死体がそのまま残っている。吸収するのかと思ったが、反応はない。食う気がないのか、もう必要ないのか、それとも俺の中の何かにも好みがあるのか。
「好き嫌いするのか、お前」
また返事はない。
だが、声に出すこと自体には、少し慣れてきた。誰もいない通路で、体の中の何かに話しかける。普通に考えれば、かなり危ない人間だ。けれど、実際に俺の中には何かがいる。なら、話しかけるくらいはおかしくない。そう思うことにした。
俺は三体の横を抜け、さらに奥へ進んだ。
しばらくは、敵が出なかった。通路は緩く下っているように感じた。床の傾きが少しずつ変わり、壁の黒さも濃くなっていく。空気は乾いているが、奥から微かに別の匂いがした。ゴブリンの血や体臭とは違う。土と石の奥に、焦げた木のような匂いが混じっている。
通路の幅が広がり始めた。
俺は足を止めた。
嫌な予感がした。
水門の時と同じだ。通路の先で、ライトの光が壁に当たらない。奥へ吸い込まれる。天井が高くなっている。床も広い。狭い通路が、急に開けている。
広間だ。
ボス部屋。
その単語が、今度は自然に浮かんだ。
前なら、そう思っても認めたくなかったかもしれない。だが、もう水門で経験している。通路が広がり、空気が重くなり、奥が見えない。そういう場所には、何かがいる。
俺は広間の入口の手前で止まった。足を踏み入れない。まず見る。ライトを動かし、床、壁、天井を順に確認する。水門の大型スライムは天井にいた。だから、今回は最初から上を見る。
天井には何もいないように見えた。
だが、安心はしない。
広間の中央に、何かが立っていた。
ゴブリン、ではある。
だが、今までのものより大きい。子供ほどの背丈ではなく、小柄な大人に近い。背中は曲がり、腕は長い。皮膚は緑がかった灰色よりも黒に近く、肩には獣の皮のようなものをかけている。手には、太い棍棒が握られていた。石片や木の枝ではない。先端に黒い石のようなものを埋め込んだ、明らかに重い武器だった。
そいつは、こちらを向いていなかった。
広間の中央で、じっと立っている。
その周囲に、小さなゴブリンが二体いる。片方は板を持ち、もう片方は短い槍を持っていた。護衛なのか、取り巻きなのか。どちらにしても、今までの通路の敵とは違う配置だった。
俺は呼吸を浅くした。
ボス部屋だ。
たぶん、入れば始まる。
水門の広間では、配信者が一歩踏み込んだ瞬間に大型スライムが落ちてきた。ここも同じとは限らない。だが、指定された場所に踏み込むことで何かが起きる可能性は高い。
引き返すべきか。
その考えは、当然浮かんだ。
ここまで来ている。祭壇は確認した。寄生虫の感情らしきものも分かった。ゴブリンの質が上がっていることも分かった。ボスらしきものまで確認した。帰る理由は十分にある。
だが、広間の奥に何かが見えた。
台座ではない。
水門で見た宝箱とも少し違う。
黒い石の壁に、縦長の亀裂がある。その前に、何かが置かれている。箱か、壺か、石の器か。距離があり、はっきりとは見えない。だが、ただの岩ではない。
あれを見ずに帰れるか。
俺は自分に問いかけた。
答えは、出ていた。
「……行けると思うか」
俺は小さく呟いた。
体の中の何かは答えない。
けれど、俺は左手の石を握り直し、右手のこん棒を持ち上げた。
広間の中にはまだ入らない。
まず、入口からどう崩すかを考える。
遠距離なら石。
近距離ならこん棒。
暗がりでは輪郭を拾う。
今ある手札は、それだけだ。
それだけで足りるのか。
広間の中央で、黒い皮をまとった大きなゴブリンが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
目が合った気がした。
俺は一歩も動いていない。
まだ、部屋には入っていない。
なのに、そいつは笑ったように口を開いた。




