第28話 暗渠ダンジョン3 抜け殻の祭壇
暗がりの輪郭が拾えるようになったからといって、ライトを消す気にはなれなかった。見えると言っても、はっきり見えるわけではない。色も分からないし、細かな傷や罠まで判別できるわけでもない。ただ、今まで黒く潰れていた場所に、壁の凹凸や床の傾きが浮かぶ。それだけだった。それでも、あるのとないのとではまるで違う。俺はライトを低く構え、左手には石、右手にはこん棒を持ったまま進んだ。
通路の形には、少しずつ見覚えが出てきた。前回は逃げるだけだったせいで、まともに覚えていないと思っていた。だが、壁に肩をぶつけた場所、足を取られそうになった床の段差、息が詰まりそうなほど狭くなった通路。そういう断片だけは、体の方が覚えていたらしい。進むたびに、あの時の焦りが薄く戻ってくる。戻ってくるが、飲まれるほどではない。
途中で、ゴブリンを一体見つけた。通路の奥に立ち、こちらとは逆側を見ている。手に持っているのは石刃ではなく、短い槍のようなものだった。槍と言っても、真っ直ぐな棒の先に尖った石片を縛りつけただけの粗末なものだ。それでも、さっきまでの石刃よりは少しだけ武器らしい。
俺は足を止め、石を握った。
距離はある。相手は気づいていない。なら、やることは決まっている。
投げる瞬間、腕の奥が張った。さっきより戸惑いは少ない。肩から指先まで、力が一本の線になる。その線へ石を乗せる。石はまっすぐ飛び、ゴブリンのこめかみに当たった。小さな体が横へ弾け、壁にぶつかって崩れる。槍もどきが床を転がった。
近づいて確認する。死体はまだ残っている。今回は白い糸は出なかった。出る時と出ない時の違いは分からない。吸うものを選んでいるのか、さっきので十分だったのか、俺が分からないだけで理由があるのか。考えても答えは出ない。俺は槍もどきには触れなかった。長さはあるが、作りが悪い。使えば一度で折れそうだった。
その後も、進行は思ったより順調だった。ゴブリンは出る。だが、距離があれば石で落とせる。近づかれそうなら、こん棒で牽制できる。逃げるしかなかった相手が、今は処理できる相手になっている。その事実には、まだ違和感があった。
ただ、奥へ進むほど、ゴブリンの様子が少しずつ変わっているのも分かった。
二体で動く個体が増えた。片方が前に出て、もう片方が少し後ろに立つ。手に持つ武器も、ただの石刃や棒だけではない。板切れのようなものを片腕に縛っている奴がいた。盾と言うには粗末だが、顔の前に持ち上げれば石を防げるかもしれない。実際、一度投げた石は、その板に当たって軌道がずれた。
俺はすぐに二投目を用意したが、ゴブリンはその間に声を上げようとした。
喉を膨らませた瞬間、二投目が顎に入った。声は出なかった。倒れた体の後ろで、もう一体がこちらへ向き直る。そいつは逃げなかった。石刃を持って突っ込んでくる。距離は少し近い。投げるより、待つ方が早かった。
俺は半歩引き、こん棒を横に振った。
石刃を持つ腕に当たる。体勢が崩れる。そこへ膝を入れるように踏み込み、頭へもう一撃。倒れる。動かない。
雑ではなくなっている。
俺はそう感じた。
急に強くなっているわけではない。ゴブリン一体一体が劇的に強いわけでもない。だが、武器が少し整い、数が増え、役割のようなものが見え始めている。前に出る奴。後ろで声を上げようとする奴。板を構える奴。通路の角に立つ奴。
数だけではない。質も少しずつ上がっている。
それが分かったところで、進むのをやめる理由にはならなかった。むしろ、今のうちに確かめておくべきだと思った。ここで引き返しても、俺の中にいるものの正体は分からない。水門の奥で何が起きているのかも分からない。最初の場所に何が残っているのかも分からない。
やがて、通路の先が小さく開けた。
俺は足を止めた。
そこは、見覚えのある部屋だった。
六畳ほどの黒い石室。低い天井。壁も床も、同じ黒ずんだ石でできている。中央には石を積んだような簡素な台座があった。
祭壇。
前回、あの黒い石が置かれていた場所だ。
俺はしばらく動けなかった。怖い、とは少し違った。ここで石を手に取った。ここでゴブリンに斬られた。ここから逃げた。ここで、俺の人生が完全に違う方向へ曲がった。そういう場所に、もう一度戻ってきたのだ。
台座の上に、黒い石はなかった。
当然だ。あれは割れた。中の白いものは、俺の中に入った。分かっていたはずなのに、空になった台座を見ると、胸の奥が妙に静かになった。
何もない。
本当に、祭壇だけが残っていた。
俺は近づいた。今回は、すぐには触らない。ライトを当て、角度を変え、台座の周りを見る。黒い殻の欠片らしいものはほとんど見当たらない。床の隅に黒っぽい粉のようなものが残っている気もしたが、石の汚れと区別がつかない。文字もない。絵もない。分かりやすい説明もない。
ただの台座だ。
そう言い切るには、ここで起きたことが大きすぎる。
その時、胸の奥に、知らない感情が落ちた。
懐かしい。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
だが、それは俺の感情ではない。俺にとってここは、懐かしい場所ではない。死にかけた場所だ。人生を勝手に変えられた場所だ。なのに、胸の奥には、どこかへ帰ってきたような感覚があった。
帰ってきた。
でも、もう何も残っていない。
そんな薄い寂しさが、ほんの一瞬だけ流れ込んだ。
俺は息を止めていた。
言葉ではない。記憶でもない。誰かの声が聞こえたわけでもない。ただ、感情の切れ端だけが混ざったような感じだった。俺のものではない。そう分かるのに、完全に他人事として切り離すこともできない。胸の奥に落ちたそれは、すぐに薄れていった。
「……お前、ここを知ってるのか」
返事はない。
当然だ。今までだって、まともな返事など一度もなかった。俺の中の何かは、体を補助し、傷を塞ぎ、死体を吸収し、能力らしきものを増やす。だが、会話はしない。こちらの問いに答えない。
それでも、今のは違った。
ただの本能だけなら、懐かしさなどあるのか。
ただの寄生虫なら、寂しさなど感じるのか。
分からない。分からないが、俺は初めて、こいつそのものに興味を持った気がした。自分の体をどうされるのか。自分がどう変わるのか。それだけではなく、こいつは何を失ったのか。なぜここにいたのか。何を覚えていないのか。
疑問だけが増える。
祭壇は答えをくれなかった。
俺は台座をもう一度見た。触れようとして、やめる。今は不用意に触る必要はない。写真を撮ることも考えたが、スマホを出すのはやめた。記録を残せば便利だ。だが、記録は厄介にもなる。必要なら、後で紙に描けばいい。今は頭に入れる。形、位置、部屋の広さ、台座の高さ。それだけで十分だった。
ここでは分からない。
そう判断するしかなかった。
なら、先へ進む。
祭壇の奥には、前に俺が逃げ込んだ通路がある。台座の横を抜け、暗がりへ続いている。あの時は、ただゴブリンから逃げるために走った。今度は違う。何かを探すために進む。
俺はこん棒を握り直した。左手には石。ライトの光を奥へ向ける。暗がりの輪郭が、光の外側でも少しだけ見えた。
空になった祭壇を背にして、俺はその先へ進んだ。




