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第27話 暗渠ダンジョン2


 通路の奥へ進むほど、暗渠の気配は薄れていった。湿った水路の匂いはもうほとんどない。代わりに、乾いた石と土の匂いが鼻の奥に残る。黒い壁は似たような景色ばかりで、前に通った道なのか、新しく曲がった道なのか分かりにくい。俺はライトを低く構え、右手に拾ったこん棒を持ったまま進んだ。

 こん棒は思ったより手に馴染んだ。軽すぎず、重すぎない。握りの部分は汚れているし、何かの骨にも木にも見える材質は気味が悪い。だが、使うだけなら問題はなかった。持ち帰るつもりはない。ここで拾い、ここで使い、ここで捨てる。その割り切りがあるだけで、少し気が楽だった。

 曲がり角の手前で、足を止める。前方から小さな音がした。さっきより近い。石を踏む音ではない。何かが壁を引っかくような音だ。俺は左手でポケットの石を確認した。投げるなら今だ。そう思ったが、角度が悪い。通路が曲がっているせいで、相手が見えない。石を投げるには、相手が見えている必要がある。少なくとも、今の俺にはそうだった。

 投石は強い。距離と射線があれば、ゴブリンは殺せる。さっきそれは分かった。だが、曲がり角の向こう、こちらの視界の外にいる相手には使えない。石を構える間もなく飛び出されたら、投げる前に詰められる。

 これだけでは駄目だ。

 近接もできるようにならないと、先には進めない。

 俺はこん棒を握り直した。右手だけではなく、左手も添える。長さは短い。間合いは狭い。だが、狭い通路で振るなら、このくらいの方が扱いやすいかもしれない。頭ではそんなことを考えていたが、手の内側は汗ばんでいた。投石とは違う。相手が近いというだけで、体の奥の緊張が変わる。

 曲がり角の向こうから、ゴブリンが出てきた。

 小柄な体。緑がかった灰色の皮膚。濁った目。右手には粗末な石刃。前に俺の左腕を斬ったものと似ている。ゴブリンもこちらに気づき、一瞬だけ動きを止めた。

 近い。

 石を投げる距離ではなかった。

 俺は先に踏み込んだ。

 ゴブリンが石刃を振り上げる。以前なら、そこでもう体が固まっていたと思う。だが、今は動けた。こん棒を横から叩きつける。技術はない。構えもまともではない。ただ、力はあった。

 こん棒が石刃ごとゴブリンの腕を弾いた。

 思ったより軽かった。いや、俺の力が強すぎたのかもしれない。ゴブリンの腕が外へ流れ、体勢が崩れる。小さな口が開き、甲高い声が漏れた。俺はもう一歩踏み込み、こん棒を上から振り下ろした。

 鈍い音がした。

 頭を打った、というより、硬いものの奥にある柔らかいものまで潰した感触が腕に返ってきた。ゴブリンの膝が抜ける。体が床へ落ちる。その重さが、通路に響いた。距離はなかった。目の前だった。崩れる顔も、喉から漏れた空気も、近すぎるほど近かった。

 俺はこん棒を握ったまま、倒れたゴブリンを見下ろした。

 投石で倒した時とは違った。

 あれは遠かった。狙い、投げ、当たった。それで終わった。相手の体が倒れるところは見えたが、手に残るのは石を離した感覚だけだった。

 だが、これは違う。

 こん棒を振り下ろした腕に、手応えが残っている。骨か、甲殻か、肉かは分からない。だが、何かを壊した感触だけははっきりしていた。人間ではない。ゴブリンだ。モンスターだ。そう分かっていても、人型の頭を殴り潰したという事実は、思っていたより重かった。

 気持ち悪い。

 そう思った。

 だが、目は逸らさなかった。

 俺が殴らなければ、あいつが俺を斬っていた。そういう場所に、自分の足で入ってきたのだ。遠くから石を投げている時には、少しだけ誤魔化せていた。近くで殴ると、誤魔化せない。相手がいて、自分がいて、どちらかが倒れる。その距離に立つしかない。

 これは、戦いというより、生きる行為に近い気がした。

 生きるために、目の前の相手を殺す。

 その手応えが、腕に残っていた。

 俺は息を吐き、こん棒を軽く振った。先端に黒っぽい血がついている。嫌な重さだった。けれど、使えた。ゴブリン一体なら、近接でも押し切れる。もちろん条件はある。不意打ちを食らえば危ない。複数なら分からない。相手がもっと大きければ、こん棒一本でどうにかなるとも思えない。

 それでも、近くに来られたら終わり、ではなくなった。

 それだけでも大きい。

 倒れたゴブリンの横を抜けようとした時、人差し指にかすかな違和感が走った。

 ああ、またか。

 俺はそう思っただけだった。

 右手の爪の間から、細い白い糸のようなものが伸びる。前に核片へ触れた時より、迷いはなかった。白い糸は倒れたゴブリンの首元に触れ、そこから傷口へ滑り込むように広がっていった。

 ゴブリンの体が、内側から白く濁り始める。

 血の色が薄れる。皮膚の灰色が抜ける。手足の輪郭が少しずつ崩れる。燃えるわけでも、溶けるわけでもない。形を保っていたものが、細かい粉か、乾いた泥のように崩れていく。さっきまで俺が殴った手応えのあった体が、音もなく薄れていった。

 俺はそれを見ていた。

 止めようとは思わなかった。止め方も分からないし、今さら止める意味も分からない。相手はモンスターだ。俺を殺そうとしたものだ。そう割り切ることにした。

 数十秒もしないうちに、ゴブリンの死体は消えた。

 床には、黒っぽい染みのようなものがわずかに残り、それも少しずつ薄れていく。白い糸は爪の間へ戻った。指は普通に見える。さっきと同じだ。普通に見えるだけだった。

 その時、通路の奥が少し見えた。

 ライトを向けていない場所だ。完全な暗闇のはずだった。だが、黒一色ではない。壁の凹凸。床の傾き。曲がり角の輪郭。はっきり見えるわけではない。色が分かるわけでもない。けれど、闇の中に形だけが浮いている。

 俺はライトを下げた。

 暗がりが、少しだけ残った。

 目が慣れた、という感じではなかった。暗闇そのものが薄くなったような、輪郭だけを別の感覚で拾っているような見え方だった。

「……暗い場所で暮らしてたからか」

 誰に言うでもなく呟く。

 ゴブリンは、この暗い通路で動いていた。ライトも持たずに、石刃やこん棒を持っていた。なら、暗がりを見る力があってもおかしくない。俺の中の何かが、それを取り込んだのだとしたら。

 考えかけて、やめた。

 分からないことは増えた。だが、今は使えるかどうかだけでいい。暗闇の中で輪郭が拾えるなら、探索は少し楽になる。ライトは必要だ。だが、ライトが届かないところをまったく見失わずに済む。それは大きい。

 俺はこん棒を握り直し、倒れていたはずのゴブリンの場所を避けるようにして進もうとして、立ち止まった。

 振り返り、こん棒を一度床に置き、両手を合わせる。

 冥福なんて祈ったところで意味があるのか。

 そう思いながらも、手を下ろせなかった。

 こちらを見て、声を上げた相手を殺した。その事実からは逃げてはいけない、怪物であろうと。

 遠距離なら石。

 近距離ならこん棒。

 暗がりでは、輪郭を拾う。

 できることが増えている。

 その事実を、喜ぶべきなのかは分からない。だが、先へ進むには必要だった。

 通路の奥は、まだ続いている。

 前に逃げた行き止まりとは違う方向へ、黒い石の道が伸びていた。

 俺はライトを上げた。明るさの届かない先で、壁の形がかすかに浮かぶ。何かが動く気配はない。けれど、油断はしない。石を一つ左手に持ち、右手にはこん棒を持つ。

 そして俺は、さらに奥へ進んだ。


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