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第26話 暗渠ダンジョン1

 暗渠の中は、前と同じように湿っていた。泥と苔と、古い水の匂いがする。低い天井。狭い幅。ライトの光を向けると、コンクリートの壁に水滴が細く光った。外から見れば、ただの古い水路だ。だが、俺はもう、その奥に何があるのかを知っている。正確には、知っているつもりでいる。

 足元を確認しながら進む。前回よりも、歩き方は落ち着いていた。あの時は、何も分からずに踏み込んだ。暗い。狭い。怖い。それだけで頭がいっぱいだった。今は違う。足場を見る。滑りやすい場所を避ける。壁に肩をぶつけないように体をずらす。ライトを奥へ向けすぎず、足元と横の亀裂も見る。ほんの少しだけだが、探索の手順らしきものが体に入っていた。

 やがて、記憶にある横道が見えた。暗渠の壁に、そこだけ別の空間を差し込んだような穴。コンクリートの縁が途中から黒い石に変わり、奥から乾いた空気が流れてくる。前回は、この横道を見つけた時点で胸が熱くなっていた。怖いのに、見たい。戻るべきだと分かっているのに、足が前へ出た。

 今も怖さはある。

 だが、熱は少し違っていた。

 俺は横道の前で一度止まり、背後を振り返った。暗渠の出口は、まだ遠くない。戻ろうと思えば戻れる。車も近くの駐車場に置いてある。前よりは、帰る手段を残している。それを確認してから、俺は黒い石の通路へ足を踏み入れた。

 空気が変わる。湿った水路の匂いが薄れ、乾いた石と土の匂いが強くなる。ライトの光は、やはり奥まで届きにくい。黒い壁に吸い込まれるように見える。俺は足元に落ちていた石をいくつか拾い、ポケットに入れた。拳より小さいもの。角があり、握りやすいもの。軽すぎないもの。水門で虫型を倒した時から、石の選び方も少し変わった気がする。   今度趣味を聞かれたら「石選び」と答えよう。鼻水のオプションはいるかな・・・。

 通路は静かだった。前に逃げた時ほど、何もかもが分からないわけではない。曲がり角の数も、壁の色も、足元の凹凸も、少しずつ記憶と照らし合わせながら進む。もっとも、記憶など当てにならない。前回は逃げるだけで精一杯だったし、ダンジョンの通路が変わらない保証もない。

 しばらく進んだところで、音がした。

 軽い足音。石を擦るような、乾いた爪の音。俺は足を止め、ライトを少し下げた。真正面を照らすと、向こうからも気づかれやすい気がしたからだ。壁際に寄り、曲がり角の先へ耳を澄ます。

 一つではなかった。

 小さな声がする。甲高い、濁った声。言葉には聞こえない。だが、何かがやり取りしているような調子だった。足音が二つ。片方は少し軽く、もう片方は少し重い。

 ゴブリンだ。

 しかも、二体いる。

 俺はゆっくり息を吐いた。前回は一体に追われ、行き止まりまで逃げた。左腕を斬られ、黒い石を握りしめ、そこで終わるところだった。今、その同じ場所に近い通路で、二体のゴブリンがいる。

 増えているのか。

 それとも、前から他にもいたのか。

 分からない。ただ、少なくともこの暗渠は、俺が最初に入った時のままではない。そう考えた方がいい。

 俺はポケットから石を一つ取り出した。重さを確かめる。手の中で転がす。石は冷たく、角が指に当たった。曲がり角の先、足音の位置、相手がこちらへ向くまでの時間。そういうものを、頭の中で測っている自分がいた。

 以前なら、この時点で引き返していたかもしれない。

 だが、今はまず距離を見ていた。

 曲がり角までの長さ。ライトを向ける角度。石を投げる腕の振り。相手がこちらを認識する前に当てられるかどうか。

 そういえば、俺はまだ本気で投げたことがない。

 虫型の時も、スライムの時も、必要に迫られて投げた。狙ってはいた。だが、全力で投げるというより、当てることを優先していた。今は違う。相手は人型だ。小さいが、武器を持つ。こちらを見つければ、逃げるか襲ってくるかするだろう。

 先に殺す。

 そう決める必要があった。

 俺は曲がり角の手前から、少しだけ身を乗り出した。ライトの端に、緑がかった灰色の皮膚が映る。一体は粗末な石刃を持ち、もう一体は短い木の棒のようなものを握っていた。二体とも、こちらには気づいていない。通路の奥を見て、何かを探しているようだった。

 石を握る。

 肩を引く。

 投げる。

 そう思った瞬間だった。

 右腕の奥で、何かが膨らんだ。

 筋肉が目に見えて変わったわけではない。皮膚が盛り上がったわけでもない。だが、肩の下、肘の奥、手首から指先にかけて、細い束のようなものが一瞬だけ張りつめた。腕全体が、投げるための形へ勝手に整えられていくような感覚。

「っ」

 戸惑った時には、もう石は手から離れていた。

 石は低く飛んだ。

 速かった。

 自分の手から離れた瞬間を、ほとんど見失いかけるほどだった。次の瞬間、石刃を持っていたゴブリンの額にめり込んだ。乾いた音がして、小柄な体が後ろへ弾けるように倒れる。声もなかった。目を見開いたまま、壁に背を打ち、床へ崩れた。

 もう一体が振り返る。

 遅い。

 俺は二つ目の石を握っていた。今度は、さっきより少しだけ分かった。投げる瞬間、腕の奥に何かが張る。肩から肘、肘から手首、手首から指先へ、力の通り道が勝手に作られる。俺はそこへ石を乗せるだけでいい。

 二投目。

 こん棒を持ったゴブリンが口を開く。叫ぶより早く、石が顔の中心に当たった。鼻か、目か、額か。正確には分からない。だが、鈍い音がして、ゴブリンの頭が後ろへ跳ねた。体が半回転し、そのまま床へ倒れる。握っていたこん棒が、石の床を転がって音を立てた。

 通路が静かになった。

 俺はしばらく動かなかった。右手に感覚が残っている。痛みではない。疲労でもない。何かが投げる瞬間にだけ入り込み、終わると引いていくような感覚だった。腕は普通に動く。指も開く。見た目も変わっていない。

 だが、今のは普通の投石ではなかった。

 ゴブリンなら、距離があれば殺せる。

 その事実が、頭の中に落ちた。

 安心した。そう言っていいのかもしれない。少なくとも、前回のように一体のゴブリンから逃げ回るだけではない。こちらから先に見つけ、石を投げ、倒せる。二体でも、距離と射線があれば処理できる。

 だが、それだけでは駄目だとも思った。

 今のは、条件が良かった。相手はこちらに気づいていなかった。距離もあった。石も手元にあった。通路はまっすぐで、遮るものもなかった。もし曲がり角の向こうで鉢合わせていたら。背後から来られたら。石を握る前に飛びかかられたら。投げる余裕はない。

 これだけじゃ駄目だ。

 近くに来られた時の手段がいる。

 俺は倒れたゴブリンへ近づいた。石刃は拾わなかった。刃物を持つ気にはなれない。使い方も分からないし、切れ味なんて期待できない・・・俺はざっくりいかれたけど。だが、もう一体が落としたこん棒には目が止まった。短い。人間用の武器というより、太い枝を削って握りやすくしたようなものだ。だが、片手で振るには十分な重さがある。

 これは持ち帰るものではない。

 ここで拾って、ここで捨てる道具だ。

 そう割り切れば、使える。

 俺はこん棒を拾った。手袋越しに握る。木とも骨とも違う、妙に乾いた感触がした。ゴブリンがどこから持ってきたものかは分からない。少なくとも、ホームセンターで売っている木材ではない。握りの部分には汚れがついている。血なのか、泥なのか、何かの体液なのかは考えないことにした。

 軽く振る。

 悪くない。

 トレッキングポールより短い。リーチはない。だが、重心が良い、近くで振るならこっちの方だ。折りたたみの道具ではない分、力を込めても不安がない。倒すためというより、近づかれた時に一瞬止めるための保険。そう考えれば、十分だった。

 俺は二体のゴブリンを見下ろした。

 一体なら逃げるしかなかった相手を、今は二体まとめて遠くから殺した。その事実は、先へ進む理由になった。同時に、この暗渠の奥にいるものが前と同じとは限らないという証拠にもなった。ゴブリンが二体で動いていた。数が増えているのか、配置が変わっているのか。どちらにしても、前回より楽になる保証はない。

 それでも、今は進める。

 石がある。距離があれば倒せる。近づかれたら、このこん棒を使う。うまくやれるかは分からない。だが、試さないまま奥へ進む方が危ない。

 俺はポケットに残った石を確認した。あと三つ。足元にも拾えそうな石はある。こん棒は右手に持つ。トレッキングポールは畳んだままリュックの横だ。状況によって使い分けるしかない。

 通路の奥から、また小さな音がした。

 足音ではない。石が転がる音に近い。風かもしれないし、何かが動いたのかもしれない。

 俺はライトを少し下げ、こん棒を握り直した。

 前回なら、ここで迷っていたと思う。

 今は違った。

 怖いかどうかより、進めるかどうかを考えている。

 それだけでも、たぶん変わったのだ。

 俺は倒れたゴブリンの横を抜け、暗渠ダンジョンの奥へ進んだ。


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