第25話 仄暗い岩の割れ目から
その夜、また夢を見た。
今度は、動き回る夢ではなかった。俺は、狭い場所にいた。岩と岩の隙間。黒い石の壁にできた割れ目の奥。そこから、外を覗いている。視界は低い。人間の目線ではない。床に近く、石の表面がやけに大きく見える。だが、前の夢のように自由に進んでいる感覚はなかった。ただ、じっと隠れている。息を潜めている。いや、息をしているのかどうかも分からない。
割れ目の外は、黒い石の通路だった。見覚えがある。水門の横道から入った先。あの乾いた石の匂いがする通路。夢の中なのに、鼻ではない場所でそれが分かった。通路の奥から光が揺れてくる。白く強い光。懐中電灯やヘッドライトの光ではあるが、俺が持っていたものより数が多い。足音も一つではなかった。
迷彩服の人間が、ゆっくりと通路を進んできた。
自衛隊員だ。そう思った。全員が同じ動きをしているわけではないが、足の運びが慎重だった。ライトを壁と床へ分けて向け、時々止まり、手で合図を送る。銃のようなものを持っている者もいる。昨日、封鎖線の外から見た迷彩服とは違う。今はあの人間たちが、俺のいたダンジョンの中にいる。
「前方、異常なし」
「足元、粘液痕なし」
「右の壁面、亀裂あり。接触するな」
声が聞こえる。水門の通路なのに、水音はほとんどない。声だけが石に反響して、細く伸びた。俺は割れ目の奥からそれを見ていた。見ているだけだった。動こうとは思わなかった。思ったとしても、動けたかどうか分からない。
しばらくすると、迷彩服とは違う人間たちが続いた。白衣ではない。だが、明らかに自衛隊員とは毛色が違う。ヘルメット、防護服に近い上着、背負ったケース、手に持った記録端末。研究者か、調査員か。そういう人間たちに見えた。彼らは自衛隊員の後ろを歩きながら、壁や床を見ていた。怖がっているというより、見逃すまいとしている目だった。
「先ほどの洞窟とは違いますね」
一人が言った。
「湿度も違う。壁面の質感も、上層とは別物に見えます」
「水門内部から連続しているのに、環境が切り替わりすぎています。通常の地下構造としては説明できません」
「説明できないから、ここにいるんだろう。説明できないって事が説明できるな、ヨシ!」
「なんでこの人クビになってないのか未だにわからん」
低い声で誰かが返した。自衛隊員の一人だった。気の知れた軽口。過度な緊張をほぐすような中で、しっかりと要点の確認は怠らない。
先ほどの洞窟。
その言葉が、夢の中の俺に引っかかった。先ほど、ということは、この人間たちはもう別の場所を見ている。俺が先日通った通路とスライムのいた広間の方だろうとは思うが、水門ダンジョンはもうただの入口ではなく、調査の対象として分けられ始めていた。
視界が、一瞬だけぶれた。
岩の割れ目から見ていたはずの景色が、別の場所へ滑る。今度は床の上だった。低い視点のまま、通路の端を移動している。石の凹凸を避け、壁際の影を選ぶ。見えているのは人間たちの足元だ。迷彩服の裾。硬い靴。ライトの光。床に落ちた細かな砂。それらが、近く、大きく見える。
「待て」
自衛隊員の声が鋭くなった。
視界が止まる。いや、俺が止めたわけではない。夢の中の何かが、ぴたりと動きを止めた。
「色が違う個体がいる。右の壁際だ。気を付けろ」
「どれだ」
「通常個体より白い。脚の根元、体節の間に白いものが見える」
ライトがこちらへ向く。
視界が白く焼けた。眩しい。反射的に、奥へ逃げるように景色が動く。壁の亀裂、床の隙間、石の影。そこへ滑り込むように進む。人間の足音が少し乱れた。
「逃げた」
「追いますか」
「待て。無理に追うな」
「特殊な個体かもしれませんね。今の、他の虫型とは行動パターンが違います。こちらに向かうのではなく、明確に避けました」
「映像は?」
「一瞬だけ。白っぽい付着物のようなものが見えました」
「サンプルが必要だな」
「近づいて取れる相手なら、ですが。向こうも不意の遭遇って感じでしたね。虫の幼体であれば色素の薄いものもいますが、大きさはそれこそ通常と同じに見えましたね」
会話が遠ざかる。視界は狭い隙間の奥で止まっていた。石の影の向こうに、光がいくつも揺れている。人間たちはまだそこにいる。だが、こちらへ踏み込んではこない。割れ目の奥は狭すぎる。人の手も、道具も、簡単には届かない。
また視界が変わった。
今度は、少し高い位置からだった。割れた石の上か、壁のくぼみか。そこから、通路の奥が見える。自衛隊員と調査員たちのさらに後ろに、見覚えのある男がいた。
昨日の配信者だった。
カメラを持っている。撮影しているというより、両手で抱えるように持っていた。顔は緊張している。先日、スライムの前で固まっていた時の顔に近い。だが、今は自分で勝手に奥へ進んでいるわけではない。自衛隊員の後ろにいて、呼ばれた時だけ前を指差している。
「たぶん、この先です。昨日、広い場所があって……その、落ちてきたのも、その辺りで」
「落ちてきた?」
「上からです。天井から。あ、いや、正確には天井にいたんだと思います。見てないですけど。見てたら死んでたので」
「その時、他に誰かは?」
配信者は、一瞬だけ黙った。
俺は夢の中で、息を止めた気がした。
「……見てません。俺は、一人でした。すぐに引き返して逃げたので」
配信者はそう言った。
調査員らしき人間が、何かを記録端末へ入力する。自衛隊員が水門の奥へ目を向ける。配信者はカメラを抱えたまま、少しだけ肩を縮めていた。
あいつは、言っていない。
夢の中なのに、そのことだけは妙にはっきり分かった。
次の瞬間、足元が揺れた。いや、夢の視界が崩れた。岩の割れ目。壁の隙間。白っぽい体。赤黒い脚。ライト。迷彩服。配信者の顔。全部が混ざり、遠ざかっていく。
目が覚めた。
天井が見える。部屋だ。まだ朝ではない。カーテンの外は暗く、スマホの画面を点けると、夜明け前の時刻が表示された。俺は布団の上でしばらく動かなかった。前の夢よりも、見たものがはっきり残っている。岩の割れ目。自衛隊員。調査員。配信者。白っぽい虫型の個体。
あれは水門だ。
そう思った。
夢に決まっている。そう言うことはできる。だが、見たものは水門ダンジョンの中だった。俺が通った黒い石の通路。スライムのいた広間。下層の虫型モンスター。そのどれかに近い場所。あの配信者がいた以上、別の場所のはずがない。
それがリアルタイムなのか、少し前の記憶なのかは分からない。俺が寝ている間に、向こうで何かを見たのか。あるいは、置いてきた白いものが見たものを、夢として見せられているのか。考えても答えは出なかった。ただ、一つだけ分かることがある。水門の中で、俺の知らないところに、白いものがいる。しかも、それは一つではないのかもしれない。
色が違う個体。白っぽい付着物。逃げた虫。通常個体とは違う行動パターン。自衛隊員と調査員の会話が、頭の中で何度も繰り返される。俺は布団の上で右手を見た。人差し指の爪の間は、今は普通に見える。白い糸など出ていない。普通に見える。それだけでは、もう安心できなかった。
俺は起き上がり、水を飲んだ。冷蔵庫の中には小瓶がある。棚の奥には灰色の結晶がある。密閉容器には白い粉がある。全部、昨日までに持ち帰ったものだ。だが、水門の奥には、俺が持ち帰らなかったものが残っている。
あそこはもう、自衛隊と調査員の場所になった。俺が行ける場所ではない。
なら、俺が確かめられる場所はどこだ。
答えは、考えるまでもなかった。
最初の暗渠。
俺が黒い石を見つけた場所。祭壇があった場所。ゴブリンに斬られ、白いものが目から入った場所。黒い殻の欠片を置いてきた場所。あそこなら、まだ封鎖されていない。誰にも知られていない。少なくとも、水門ほど表には出ていない。
あそこへ戻るしかない。
そう思った時、不思議と迷いは少なかった。怖くないわけではない。だが、怖いから行かないという段階は、もう過ぎている。俺の中にいるものが何なのか。水門で何をしているのか。虫型のモンスターに広がっているのか。それを知る手がかりがあるとすれば、最初の場所しかない。
俺は夜が明けるまで、ほとんど眠れなかった。
朝になり、最低限の荷物を用意する。ヘッドライト。懐中電灯。予備電池。手袋。水。救急セット。ホイッスル。ビニール袋。折りたたみのトレッキングポールは、昨日のものではなく、予備として買っていたもう一本を出した。石を投げればいい。そう思ったが、棒があるだけで安心感は違う。
武器を持っていくつもりはない。
だが、何も持たずに戻るほど、もう無知でもなかった。
装備をリュックへ詰めた後、着替えとタオル、予備のビニール袋、水をもう一本追加した。前回は帰り道で人目を避けるだけでも面倒だった。今回は、徒歩や電車で戻る気にはなれない。怪我をするかもしれない。服が汚れるかもしれない。何かを持ち帰るかもしれない。そう考えると、移動手段くらいは用意しておくべきだった。
俺はスマホで近くのレンタカーを予約した。大きな車は必要ない。軽自動車で十分だ。部屋を出る前に、冷蔵庫を一度だけ見た。小瓶はそのまま卵の横にある。棚の奥の密閉容器も確認する。灰色の結晶は動いていない。白い粉も変化していない。確認したところで、安心できるわけではない。それでも確認せずにはいられなかった。
鍵を閉め、外へ出る。
朝の空気は少し冷たかった。通勤する人間がいる。制服姿の学生がいる。犬を連れた老人がいる。世界はいつも通り動いている。水門で自衛隊がダンジョンを調査していても、俺の中に何かがいても、暗渠の奥に黒い祭壇があっても、朝は普通に来る。
駅前のレンタカー店で手続きを済ませ、俺は小さな軽自動車に乗り込んだ。荷物は後部座席に置く。ナビには、暗渠のある橋そのものではなく、少し離れた住宅街の端にあるコインパーキングを入れた。目的地を直接あの場所にしない程度の用心は、さすがに覚えた。
車を走らせる間、余計なことは考えないようにした。道路は普通に混んでいて、信号で止まり、歩行者を待ち、対向車をやり過ごす。ダンジョンへ向かっているとは思えないほど、ただの朝の運転だった。コンビニの配送車。自転車の学生。犬の散歩。出勤する会社員。どれも、自分が少し前までいた側の景色だった。
コインパーキングは、橋から少し離れた住宅街の端にあった。平日の朝だからか、空きは多い。俺は一番奥の枠に車を停め、しばらくエンジンを切らずに座っていた。ここなら、帰ってきた時に人目を避けやすい。着替えも置いておける。最悪、すぐに離れられる。
ようやくエンジンを切り、荷物を持って外へ出た。リュックを背負い、トレッキングポールを畳んだまま横に固定する。いかにも散歩か軽いハイキングに行くような格好だ。少なくとも、ダンジョンへ戻る人間には見えない。そう思いたかった。
俺は人通りの少ない道を選んで歩いた。
川沿いへ向かう。橋の下。子供の頃に見た暗い水路。あの日、横道を見つけた場所。近づくにつれて、胸の奥が静かになっていく。緊張しているのに、妙に頭は冷えていた。走っている時と似ている。ただ足を動かし、ただ目的地へ向かう。
しばらく歩くと、見覚えのある橋が見えた。
低いコンクリートの橋。その下に、古い暗渠が口を開けている。外から見れば、ただの薄汚れた水路だ。水門のように封鎖されてもいない。警察もいない。自衛隊の車両もない。野次馬もいない。
俺だけが、そこに何があるのかを知っている。
いや、正確には知っているわけではない。
知るために、戻ってきた。
俺は橋の下へ下りた。湿った土の匂いがする。草が靴に擦れる。暗渠の入口は、前と同じように黒く見えた。その奥に、本来あるはずのない横道がある。俺の人生を変えた場所がある。
息を吐く。
ヘッドライトを点ける。
トレッキングポールを握り直す。
そして俺は、暗渠の中へ足を踏み入れた。




