第24話 考える前に
部屋にいると、考えが同じところを回り続ける。制度に乗るか、隠れて動くか。魔石らしき結晶をどうするか。冷蔵庫に入れた小瓶は本当にあのままでいいのか。爪の間から出てきた白い糸は、次に何へ反応するのか。考え始めると、どれもすぐには答えが出ない話ばかりだった。
だから、外へ出ることにした。気分転換ということにする。行き詰ったら体を動かす。体の変化を確かめる意味もあるし、部屋の中で机を見つめ続けるよりはましだ。目的地は決めない。そう思いながら、俺は走りやすい服に着替えた。だが、玄関を出る前にはもう、自分がどこへ向かうつもりなのか分かっていた。
水門だ。
確認するだけだ。近づきすぎない。声もかけない。何かを探すわけでもない。昨日の配信者が本当に通報したのか、あそこがどうなっているのか、それを遠くから見るだけ。そう自分に言い聞かせて、俺は外へ出た。
走り始めてすぐ、体の軽さに気づいた。前よりもさらに息が乱れにくい。足が自然に前へ出る。膝や足首に変な負担もない。地面のわずかな段差を、意識する前に足が避ける。速度も出ている。学生時代に運動部だったわけでもない、デスクワーク上がりの三十歳とは思えない走りだった。
おかしいのは分かる。
だが、今さらそこに一つずつ立ち止まっても仕方がない。
俺は少しだけ速度を落とし、呼吸を整えた。無理はしない。速く走れるからといって、速く走り続ける必要はない。体の調子を確認するだけでいい。そう思いながらも、足は滑らかに動く。昨日の虫型モンスターと向き合った時の投石ほどではないが、体の中の無駄な引っかかりが、また一段減ったような感覚があった。
川沿いの道に出ると、空気が少し変わった。水と草の匂い。遠くの車の音。自転車のブレーキ音。見慣れた景色のはずなのに、水門へ近づくにつれて人の流れがいつもと違うことに気づく。散歩というより、見に来ている人間がいる。スマホを手にした若い男。犬の散歩を装っている老人。自転車を止めて遠くを見ている学生。みんな、同じ方向を気にしていた。
水門は封鎖されていた。
警察の黄色いテープだけではない。コーンと簡易バリケードが置かれ、その奥に迷彩服の人間が立っている。さらに奥には、緑色の車両が一台停まっていた。テレビやニュース映像で見るような、自衛隊の車両だ。警察官もいる。自治体の職員らしき作業服の人間もいる。だが、一番目を引くのは迷彩服だった。
自衛隊。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、昨日まで自分が入っていた場所の意味が変わった気がした。昨日は、ただの水門だった。いや、ただの水門ではなかったが、少なくとも俺の目の前に開いた横道だった。俺が入り、俺が戻ってきた場所だった。今は違う。国が封鎖している入口だった。
俺はランニング中の人間らしく、少し離れた場所で足を止めた。息を整えるふりをして、水門の方を見る。封鎖線の外側には、同じように見ている人間が何人かいた。誰かが小声で「自衛隊まで来てる」と言った。別の誰かが「やっぱりダンジョンなのか」と呟く。スマホを向けている人間もいたが、警察官に注意されて下げていた。
水門の暗い開口部を見た時、脳裏に一瞬だけ、昨夜の夢がかすめた。
低い視点。湿った石の床。赤黒い脚。触覚が空気を探る動き。
俺は瞬きをした。
見えているのは、ただの水門だ。コンクリートの斜面。鉄扉。浅い水路。封鎖線。迷彩服の隊員。昨日の夢とは違う。それでも、あの奥にあった黒い石の通路を知っているせいで、普通の設備にはもう見えなかった。
少しだけ視線を動かした時、封鎖線の内側に見覚えのある男がいた。
昨日の配信者だった。
カメラを持っている。だが、撮影しているというより、機材を抱えているだけに見えた。首から小型のカメラを下げ、肩にはバッグ。昨日持っていた虫捕り網はない。男は自衛隊員か警察官らしき相手に、何かを説明していた。水門の方を指差し、横道の位置を示すような仕草をする。昨日の軽さはほとんどなかった。顔色までは遠くて分からないが、少なくともはしゃいでいる様子ではない。
あいつ、本当に通報したんだな。
そう思った。
疑っていたわけではない。だが、実際に封鎖線の内側で説明している姿を見ると、少しだけ胸の中の引っかかりが取れた気がした。あの男は危機感が壊れていたが、逃げたままにはしなかった。少なくとも、あの水門を放置しなかった。
配信者はこちらを見なかった。そもそも、封鎖線の外側には野次馬が何人もいる。ランニング途中の男一人に目を向けるような状況ではない。俺も、向こうと目が合うことを心配しなかった。今の俺は、ただの通行人だ。少し足を止めて現場を見ている、野次馬の一人でしかない。
それでいい。
俺はもう一度、水門を見た。
昨日、あの中に入った。スライムを倒した。配信者を助けた。巨大スライムの核を砕いた。下の階層で虫型の魔物と戦った。宝箱を開け、結晶と小瓶を持ち帰った。そういう出来事が、あの封鎖線の奥に沈んでいる。だが、外から見れば、そこにあるのは自衛隊が封鎖した危険区域だけだった。
俺の入口は、もう俺の入口ではなくなった。
喪失感はあった。だが、思ったほど強くはなかった。むしろ、少しだけ安心もあった。これで、子供や配信者や、見たこともない馬鹿があの横道へ入り込む可能性は減る。あの下層にいた虫型の群れを思えば、封鎖されている方が正しい。分かっている。分かっているのに、完全には割り切れないだけだ。
封鎖線の内側で、配信者がまた水門の方を指差した。警察官がメモを取り、自衛隊員が奥を見ている。現場はもう動き始めていた。俺が何かを言う余地はない。言うつもりもない。
俺はゆっくりと体を伸ばし、ランニング中の休憩を終えた人間のように見える動きをした。それから、来た道とは少し違う方向へ走り出す。
足は軽かった。
封鎖線から離れるにつれて、野次馬の声も、水門の気配も遠ざかっていく。代わりに、川沿いの風が耳元を流れた。呼吸はまだ余裕がある。体は走りたがっている。なら、今日は走ればいい。考えるのは部屋に戻ってからでも遅くない。
水門は失った。
けれど、俺がダンジョンから離れられたわけではない。
灰色の結晶は部屋にある。小瓶は冷蔵庫にある。黒い石も、まだ捨てていない。そして俺の中には、あの白いものがいる。
封鎖線の向こう側へ行く道は、少しずつ国のものになっていく。俺がその道を歩けるかどうかは、まだ分からない。
それでも、足は止まらなかった。
俺は速度を少し上げた。デスクワークで鈍っていたはずの体が、川沿いの道を軽く進んでいく。風が頬を叩く。視界の端で、草むらが流れる。遠くで自転車のベルが鳴る。
今日は、ただ走ることにした。
走っている間だけは、制度も、魔石も、白い糸も、少しだけ遠くに置いておける気がした。
そうだ、今はただ走る事を考えるだけでいいのかもしれない。
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カクヨムの近況ノートに多少画像がありますので、もしよければ覗いてみてください。




