第23話 明るい道か暗い道か
白い粉は、結局しばらくそのまま机の上に残っていた。触る気にはなれなかった。掃除するべきなのは分かっている。元がスライムの核片なのか、それとも俺の中の何かに食い尽くされた残りなのかも分からない。普通に考えれば、ティッシュで拭き取って捨てればいいだけのものだ。だが、それを普通のゴミ箱に入れるだけで本当に終わるのか、少しも分からなかった。
俺は台所から使い捨ての割り箸を持ってきて、白い粉を小さな紙の上へ集めた。量は少ない。元の核片は指先ほどの大きさがあったはずなのに、残った粉はひとつまみもなかった。体積が合わない。どこへ消えたのか。考えたところで、答えは一つしか思いつかない。俺の中にいる何かが取り込んだ。食ったのか、吸ったのか、分解したのか、言葉の選び方は分からないが、そういうことなのだろう。
紙ごと小さな袋に入れ、口を閉じる。捨てるのは後にした。後回しばかり増えていく。記録カードの破片。壊れたトレッキングポール。黒い石。白い粉。冷蔵庫の小瓶。机の上の灰色の結晶。俺の部屋は、少しずつ自分でも説明できないものに侵食されていた。
まず、考える必要があった。
頭の中だけで考えると、たぶん悪い方へ行く。昨日からそうだった。怖い想像と事実が混ざる。混ざったものを事実だと思い込みそうになる。そうなる前に、言葉にした方がいい。
俺はスマホを手に取った。いつものようにAIを起動する。画面に表示された過去の会話タイトルを見て、少しだけ迷った。自作小説の設定メモ。寄生虫の種類。身体能力の変化。どれも、今見れば笑えない。笑えないが、役には立っている。少なくとも、俺は今、自分の状況を現実の相談として誰かに投げる気にはなれなかった。
入力欄に指を置く。少し考えて、文章を打ち込んだ。
『自作小説の設定メモ。
主人公が未確認ダンジョンから、魔石らしき結晶、スライムの核片、ポーションらしき小瓶を持ち帰った。
主人公は未登録で、政府の探索者制度はまだ整備中。
持ち帰った物品の扱いと、今後制度に乗るべきかどうかを整理したい。
主人公は自分の体に異常がある可能性があり、検査されることを警戒している。
創作設定として、選択肢とリスクを出して。』
送信してから、自分の文章を読み返す。創作設定として、という逃げ道がなければ、かなり危ない相談だった。だが、それでも必要だった。しばらく待つと、画面に回答が表示される。
『設定整理として見るなら、主人公が取れる選択肢は大きく四つあります。
一つ目は、公的機関へ通報・提出すること。合法性と安全性は高いですが、未登録で持ち帰った経緯や、主人公自身の身体異常が発覚するリスクがあります。物品だけでなく、本人も調査対象になる可能性があります。
二つ目は、探索者制度が整うまで保留すること。短期的には物品を密閉・隔離し、触れない、使わない、売らない、記録だけ残す方針です。リスクは物品の劣化、未知の影響、自宅保管そのものの危険です。
三つ目は、闇ルートや個人間で売却すること。金銭的利益は得られるかもしれませんが、犯罪・詐欺・脅迫・追跡のリスクが高く、主人公の性格的にも避けた方が自然です。
四つ目は、未登録のまま探索を続けること。物語的には動きやすいですが、事故時に説明不能になり、制度整備後は違法性が強くなります。また、主人公の身体異常が進行している場合、単独行動は危険です。
制度に乗る場合のメリットは、合法的に探索できること、情報・装備・売却ルートにアクセスできることです。デメリットは、身元確認、健康診断、行動記録、持ち物検査などにより、主人公の秘密が露見する可能性です。
したがって、現時点の主人公なら「制度の詳細が出るまで保留し、物品は使わず、売らず、記録だけ取る」が最も自然です。ただし、この方針は問題の先送りでもあります。いずれ、主人公は制度に乗るか、隠れて動くかを選ばなければなりません。』
画面を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
分かっていたことだった。
だが、文字にされると逃げにくい。
制度に乗るか、隠れて動くか。
その二択が、はっきりと見えてしまった。
政府の制度ができれば、ダンジョンへ入る道は開ける。登録探索者。調査員。民間協力者。呼び方が何になるのかは分からないが、少なくとも無許可で水門や暗渠に潜るよりはましだ。装備も情報も手に入るかもしれない。魔石を売るルートもできる。ポーションらしきものの正体を知る機会もある。
だが、その道を歩くには、たぶん俺自身を見せなければならない。
名前。住所。職歴。健康状態。身体検査。血液検査。目の検査。傷跡の確認。精神状態の聞き取り。想像するだけで胃のあたりが冷える。
目から白いものが入った。
左腕の傷が異様な速さで塞がった。
爪の間から白い糸が出て、スライムの核片を真っ白にして崩した。
そんなものを、医者や政府の担当者に見せられるのか。
見せたら、俺は何になる。
探索希望者か。患者か。被験者か。危険物か。
スマホの画面を暗くする。反射した画面に、自分の顔が薄く映った。普通の顔だ。少し疲れていて、目の下に影がある。髪も乱れている。だが、見た目だけならただの寝起きの男だった。体内に正体不明の寄生体を抱えているようには見えない。
それが怖かった。
外から見えないなら、俺はどこまで普通のままでいられるのか。
外から見えないなら、どこまで隠せてしまうのか。
俺はスマホをもう一度点け、AIの回答を読み直した。保留。記録。触れない。使わない。売らない。制度の詳細を待つ。言葉にすれば簡単だ。実行するのも、今日明日だけなら難しくない。
問題は、その先だ。
俺はもう一度、机の上の灰色の結晶を見た。ビニール袋越しでも、ただの石ではないと分かる。光を当てると奥で何かが沈むように揺れる。これを売れば金になるかもしれない。制度ができれば、合法的に扱えるようになるかもしれない。だが、そのためには出どころを説明する必要がある。
未確認の水門ダンジョンで拾いました。
同行者はいません。
通報は別の人間がしました。
自分はその場にいたことを隠していました。
そう説明する未来を想像して、すぐに諦めた。
無理だ。
少なくとも今は無理だ。
俺はノートを取り出した。スマホのメモでもよかったが、今回だけは紙に書きたかった。誰かに見られた時の危険はある。だが、頭の外に出さないと整理できない。表紙に適当な文字を書く。
創作メモ。
その下に、今日の項目を並べる。
灰色の結晶。魔石疑惑。未接触。袋越しに保管。
小瓶。ポーション疑惑。未使用。冷蔵庫保管。
核片。白い糸により変質、崩壊。残粉あり、廃棄予定。
記録カード。破壊済み。廃棄予定。
トレッキングポール。破損。分解廃棄予定。
黒い石。保留。
書きながら、だんだん現実味が遠のいていく。創作メモという体裁にしたせいか、本当に自分の小説設定を書いているような気分になる。だが、机の上には魔石らしき結晶がある。冷蔵庫にはポーションらしき瓶が入っている。俺の爪の間からは、さっき白い糸が出た。
創作なら楽だった。
主人公の秘密。政府制度。隠し持った魔石。未知の寄生体。こう並べれば面白そうだ。読者なら先を知りたいと思うかもしれない。俺だって、他人事ならたぶんそう思う。
だが、これは俺の体の話だった。
俺はペンを置いた。ノートの余白に、もう一つだけ書く。
制度に乗る条件。
その下で手が止まる。
条件。
俺が政府の制度に乗るとしたら、何が必要なのか。
身体検査が軽いこと。ダンジョン産品の出どころを深く追及されないこと。未登録期間の行動が即座に犯罪扱いされないこと。登録後に自分の意思で探索先を選べること。異常が見つかった場合、いきなり拘束されないこと。
書けば書くほど、都合のいい条件ばかりになった。
政府から見れば、未登録でダンジョンに入り、ダンジョン産品を持ち帰った人間など、管理したい対象でしかない。しかも、もし俺の体内のものが発覚すれば、管理どころでは済まない可能性がある。
それでも、制度を完全に無視するのも危険だ。
この先、ダンジョンは増える。確認済みだけで四十二か所。掲示板でも、テレビでも、政府発表でも、その数字はもうただの噂ではなくなっている。登録制度が整えば、未登録で潜る行為への目は厳しくなる。通報も増える。封鎖も早くなる。俺一人がこっそり潜り続けられる世界では、少しずつなくなっていく。
俺は制度に乗りたいのか。
乗りたくないのか。
答えは、どちらでもなかった。
ダンジョンには入りたい。
だが、俺自身を差し出したくはない。
子供じみた我儘だと思った。安全な道はほしい。情報もほしい。売却ルートもほしい。けれど、自分の秘密は守りたい。そんな都合のいい話はない。
だが、今の俺が求めているのは、まさにそれだった。
ノートを閉じる。灰色の結晶は、小さな密閉容器に入れて棚の奥へ隠した。白い粉の入った袋も別の容器へ入れる。黒い石は、まだ捨てずに置いておく。記録カードとトレッキングポールは、昼を過ぎてから処理することにした。いきなり全部を片づける気力はなかった。
冷蔵庫をもう一度開ける。小瓶は、卵の横に大人しく収まっていた。どう見ても場違いだ。だが、妙に現実的でもあった。ダンジョンから持ち帰った得体の知れない液体を、家庭用冷蔵庫に入れて保管している。馬鹿げている。馬鹿げているが、今の俺にはそれが精一杯だった。
冷蔵庫を閉める。
部屋に戻ると、スマホの画面にAIの回答がまだ表示されていた。
いずれ、主人公は制度に乗るか、隠れて動くかを選ばなければなりません。
その一文だけが、やけに目に残った。
今すぐ決める必要はない。そう自分に言い聞かせる。だが、決めなくていい時間は、たぶん長くない。水門はもう封鎖される。別の場所でも、別の誰かがダンジョンを見つけている。世界の方が、俺の都合を待ってくれるはずがなかった。
俺はスマホを伏せ、机の前に座った。
火種は消えていない。
薪も、確かにくべられた。
ただ、その火を大きくするための道は、思っていたよりずっと狭く、見張られていて、途中で自分自身を晒さなければ通れない場所にあるのかもしれない。
俺は自分の右手を見た。さっき白い糸が出た人差し指は、もう普通の指にしか見えない。




