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第22話 這う夢

 暗い場所だった。湿った石の匂いがする。水の音は遠い。けれど、完全に乾いているわけでもない。床の近くを冷たい空気が流れ、時々、壁のどこかで小さく水が跳ねるような音がした。俺はそこを這っていた。いや、這っているように見えていた。自分の体がある感覚は薄い。手足を動かしている実感もない。ただ、視界だけが床に近かった。人間がしゃがんだ時よりも、さらに低い。石の凹凸が大きく見える。小さな砂粒や、濡れた跡や、壁際の亀裂まで、やけにはっきり見えた。

 映画を最前列で見ているような夢だった。近すぎる画面。暗く、湿った洞窟。揺れる視界。自分がそこにいるのか、それとも誰かの見ているものを覗いているだけなのか、よく分からない。それでも、不思議と怖くはなかった。右へ行こうと思うと、視界が右へ流れた。止まれと思うと、動きが止まった。前へ進みたいと思うと、石の床が滑るように近づいてくる。夢の中だから、そういうものなのだろう。俺はそう思った。思うことにした。子供の頃、空を飛ぶ夢を見た時と同じだ。なぜ飛べるのかなど考えない。ただ飛べる。なら、今もそういう夢なのだろう。

 俺は暗い洞窟の中を、散歩でもするように進んだ。視界の端で、細いものが揺れる。最初は壁の亀裂かと思った。けれど違う。脚だ。赤黒い、細い脚。何本も、何本も並んでいる。それは、今日見たゲジゲジに似ていた。ダンジョンの下層で見た、犬ほどの長さがある虫型の魔物。長い脚を波のように動かし、床を流れるように近づいてきたやつだ。俺が石を投げ、トレッキングポールで動きを乱し、最後に胴を千切った。その姿が、同じ目の高さにあった。

 向こうもこちらに気づいているらしい。長い触覚が、ゆっくりと伸びてくる。空気を探るように。こちらが何なのか確かめるように。触覚の先が、視界のすぐ前で揺れた。次の瞬間、視界が跳ねた。何かが前へ飛び出す。ゲジゲジの脚が一斉に広がる。触覚が乱れる。濡れた石の匂いが強くなる。

 そこで、目が覚めた。

 天井が見えた。白い天井。薄いシミ。見慣れた照明。いつもの部屋だった。俺はしばらく、何もできなかった。布団の上に仰向けになったまま、荒くはないが妙に浅い息をしていた。心臓は速い。喉が乾いている。手足はちゃんとある。指を動かす。動く。足もある、二本だけだ。

「……夢、だよな」

 声に出してから、あまり安心できないことに気づいた。夢に決まっている。少なくとも、俺の体はこの部屋にある。暗い洞窟を這い回っていたわけではない。ゲジゲジと同じ目線で向き合っていたわけでもない。けれど、ただの夢だと切り捨てるには、見え方が妙に生々しかった。床の近さ。石の湿り気。視界の揺れ方。触覚が空気を探る動き。思い出すだけで、首の後ろがぞわついた。

 俺は上体を起こした。カーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。スマホを見ると、朝というには少し遅い時間だった。昨日、家に戻ってからどうしたのかを思い出す。水門から帰ってきた。鍵を閉めた。机に荷物を並べた。巨大スライムの結晶。核片。小さな瓶。砕いた記録カード。曲がったトレッキングポール。拾った石。そこまでは覚えている。その後が曖昧だった。

 たぶん、考える前に限界が来たのだ。風呂に入る気力も、荷物を片づける気力も、何かを調べる気力も残っていなかった。服だけは着替えた気がする。手も洗った気がする。だが、ちゃんと洗えたのかは怪しい。寝るつもりで横になったというより、横になったらそのまま落ちたのだと思う。昨日はそれだけのことがあった。水門の横道。小型スライム。配信者。巨大スライム。宝箱。下へ続く階段。虫型の魔物。通報される水門。そして、持ち帰ったもの。

 俺は布団から出て、机の前に立った。そこには、昨日の現実が並んでいた。ビニール袋に入れた灰色の結晶。青緑色の核片。小さな瓶。砕いた記録カード。曲がったトレッキングポール。ダンジョン内で拾った黒い石。どれも小さい。灰色の結晶も、手のひらに収まる程度だ。核片はもっと小さい。小瓶に入った透明な液体も、量で言えば大したことはない。曲がったトレッキングポールだけは長いが、壊れた道具にすぎない。記録カードの破片など、ただのゴミにしか見えなかった。

 だが、それは全部、ダンジョンの中から持ち帰ったものだった。俺が自分の足で入り、自分の手で拾い、生きて外へ持ち出したものだった。胸の奥に、小さな熱が灯る。怖い。気持ち悪い。説明できない。扱い方も分からない。そういう感情はある。それでも、机の上に並ぶものを見ていると、昨日までとは違う何かが確かにあった。

 火種。

 会社を辞めた時、俺はそれを見つけたのだと思った。消したら本当の意味で死ぬかもしれない、小さな火種。あの時は、ただ衝動だけだった。見つけたい。入りたい。知りたい。それだけで会社を辞めた。そして今、その火種に小さな薪が一本くべられている。そんな気がした。これがいつか、大きな火になることがあるのだろうか。自分でも馬鹿なことを考えていると思った。机の上にあるのは、財宝でも、英雄の証でもない。正体不明の危険物と、壊れた道具と、処分に困る証拠のようなものだ。だが、それでも。俺は少しだけ、前に進んでいた。

 まずは、現実的なものから片づけることにした。砕いた記録カードは、もう使い物にならない。あれを政府が追ってくるとは思えなかった。そもそも、政府は俺が水門にいたことすら知らない。通報した配信者が俺のことを言っていないなら、俺はただの一般人だ。無職で、部屋にこもっている三十歳の男。少なくとも社会から見れば、その程度の存在でしかない。

 曲がったトレッキングポールも同じだ。普通に捨てればいい。折れた登山用品を、どこかの役所や政府機関が探し回るはずもない。少し気にしすぎていたのかもしれない。いや、気にしすぎるくらいでちょうどいいのだろうが、全部を陰謀みたいに考えていたら生活できない。記録カードの破片は、袋を二重にして別のゴミと混ぜる。トレッキングポールは後で分解して捨てる。黒い石も、扱いに困るが、普通の石に見える。しばらく袋に入れておくことにした。

 次に、小さな瓶を見た。透明な液体。蝋のような封。ポーションかもしれないもの。飲む気はない。かける気もない。今のところ怪我はしていないし、試す理由もない。いや、理由を作ろうと思えばいくらでも作れる。指先を少し切って、そこにかければいい。そうすれば効くかどうか分かるかもしれない。そう考えた時点で、俺は瓶を持ち上げるのをやめた。知りたいから試す。昨日から何度も考えてはやめようとしている、一番危ない考え方だ。

 好奇心は飼いならさなければならない。恐怖で動けなくなった時には支えになるかもしれないが、放っておけば簡単に足を踏み外させる。俺は小瓶をビニール袋に入れたまま、台所へ持っていった。冷蔵庫を開ける。卵、ペットボトルの水、半分残った惣菜、使いかけの調味料。その一角に、ダンジョン産のポーションらしきものを置く。あまりにも場違いだった。だが、他に思いつかない。

「……とりあえず冷蔵庫って、人類の知恵だよな」

 自分で言っておいて、何の納得にもならなかった。

 机へ戻る。残ったのは、灰色の結晶と、青緑色の核片だった。灰色の結晶は、たぶん魔石だ。そう呼ぶしかない。見た目より重く、光を当てると奥で鈍いものが沈むように揺れる。これが本当に魔石なら、価値がある。金になるかもしれない。研究対象になるかもしれない。政府が売却ルートを作るなら、いつか表に出せる日が来るかもしれない。問題は、その日までどう持っておくかだ。俺は結晶を袋越しに指で押し、すぐにやめた。素手で触る気にはなれない。

 次に、青緑色の核片を見る。スライムの核。たぶん、そういうものだ。小型スライムを倒した時に残ったものと、巨大スライムを倒した時に残ったもの。その一部。乾いてきたのか、昨日より表面のぬめりは薄れている。薄い青緑色の欠片は、割れた飴玉のようにも見えた。綺麗、と言えなくもない。

 そう思った時、人差し指に違和感が走った。痛みではない。痒みでもない。爪の奥を、細いものが押すような感覚だった。

「……は?」

 俺は右手を見た。人差し指の爪の間から、白いものが出ていた。髪の毛よりも細い。いや、それよりもっと細いかもしれない。見ようと意識しなければ、ただの光の反射か、爪の端についた埃にしか見えないほど細い白い糸。それが数本、爪の隙間からゆっくりと伸びている。息が止まった。それは、まっすぐ核片へ向かっていた。

「おい」

 声が出た。止めようとして、手を引こうとする。だが、その前に白い糸が青緑色の核片へ触れた。ぴたり、と。核片の色が変わり始めた。青緑だった表面が、内側から白く濁っていく。水に絵の具を落とした時のように、じわりと色が抜ける。透明感が消え、白い膜が張るように広がり、次の瞬間には全体が真っ白になっていた。

 俺は指を引いた。白い糸は、するりと爪の間へ戻っていく。見えなくなる。何事もなかったように、俺の人差し指は普通の指に戻った。机の上では、真っ白になった核片が、細かくひび割れていた。そして、崩れた。音はほとんどなかった。砂糖菓子を指で押し潰したように、白い欠片がふっと形を失う。机の上に残ったのは、元の体積からかなり減った、わずかな白い粉だけだった。

 俺はしばらく、その粉と自分の人差し指を見比べていた。

「……報酬は山分け制度……」

 口から出た言葉は、かなり間抜けだった。だが、そうでも言わなければ、もう少し嫌な声が出ていた気がする。俺が命がけで持ち帰ったものを、俺の中にいる何かが勝手に食った。食ったのか、吸ったのか、分解したのか、使ったのかは分からない。だが、少なくとも核片は消えた。俺の意思とは関係なく、俺の指から出てきた白い糸によって。

「いや、お前、家賃払う側じゃないのか」

 誰に言っているのか、自分でも分からなかった。返事はない。頭の中に声が響くこともない。目の奥が熱くなるわけでもない。ただ、さっきまで核片だった白い粉が、机の上に残っているだけだった。

 成果を得た。前に進んだ。そう思った直後に、その成果の一部を勝手に持っていかれた。俺は椅子に座り込み、深く息を吐いた。火種に薪をくべたつもりだった。だが、その薪の一部は、俺ではない何かにも燃やされているらしい。それが俺を飲み込む可能性も、常に考えておくべきなのかもしれない。生殺与奪はすでに握られている。

 机の上には、まだ灰色の結晶が残っている。冷蔵庫には、小さな瓶が入っている。そして俺の中には、爪の間から白い糸を伸ばす何かがいる。昨日持ち帰ったものを整理するだけのつもりだった。それだけのはずだった。けれど、俺はまた一つ、分からないことを増やしていた。


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