第317話 足りなかったもの
法案の全文は、まだ公表されていなかった。
議会へ提出される予定の文書も、連邦政府が各州へ送った通達も、一般の人間が読める場所には出ていない。それでも、規制の輪郭までは隠せなかった。異常空間への遺体、生体組織、大量の動物由来物の持ち込み禁止。入口を所有する個人や団体に対する立入検査の拡大。病院、葬儀施設、大学、研究機関が保管する遺体の移送記録と、ダンジョン周辺の車両記録を照合する案もある。
ニュース番組では、あくまで検討中の予防措置として扱われていた。
地下の礼拝室に集まった者たちは、その説明を信じなかった。
「予防であれば、中国の一件が起きた時点で始めていたはずです」
壁へ掛けられたモニターの前で、教団の指導者はリモコンを置いた。画面には、議会関係者を追う記者と、質問へ答えず車へ乗り込む補佐官が映っている。
「エクアドルで二度目が起き、それでも公表せず、今になって急いでいる。彼らは確かめたのでしょう。死者を返せば、向こうが応えることを」
二十五人が長机を囲んでいた。
誰も椅子を鳴らさず、咳払いもしなかった。地下室の換気扇だけが回り続け、古い天井板の隙間から細かな埃を落としている。
十五体。
彼らが半年近くかけて集め、ダンジョンの内部へ運び込んだ遺体の数だった。
教団内で亡くなり、家族が引き取りを拒んだ者。身元の確認に時間がかかり、記録上の扱いを変えられた者。葬儀施設へ勤める信者が、別の移送先を書類へ記入した例もあった。
一度に運べば、必ず見つかる。探索者用の大型回収袋へ一体ずつ収め、装備品や素材の搬入に紛れさせた。内部へ入った後も、活動経路の近くには残していない。
遺体は、一層の外れにある壁の割れ目や、二層の崩れた横道、三層で探索者が使わなくなった古い休憩場所へ分散させていた。密閉したまま、最後の日を待たせている。
最初の一体を運び込んだ夜、入口に変化はなかった。五体目を置いた後も、モンスターの数が増えたという報告はない。十五体目を三層へ残してから二週間が過ぎても、何かが出てきたわけではなかった。
失敗と口にした者はいない。
信仰が間違っているのではなく、足りないものがある。教団内では、その考えだけが残った。
「遺体の封を開かなかったからでは?」
長机の端に座る男が尋ねた。
「その可能性はあります。ですが、それだけなら政府は遺体の持ち込みだけを禁じればよい。なぜ入口の検査を急ぐのでしょう」
指導者は、停止されたニュース映像を指した。
「彼らは、私たちより先に門の価値へ気づいた。だから、誰も届かないように囲おうとしている」
誰かが小さく息を吐いた。
恐怖からではない。これまで信じてきたものが、政府の行動によって証明されたと受け取った者の反応だった。
対象のダンジョンを選んだ理由も、彼らの中ではすでに一つの教義へ組み込まれている。
ハウンド・スリーが最初に名を上げた旧拠点から、車で三十分ほどの場所だった。
ハウンドの活躍が世界へ広まるにつれ、周辺には探索者が集まった。装備店、貸倉庫、修理工房、簡易宿泊所が増え、州外ナンバーの車両が一日中行き来している。血や泥のついた防具を運ぶ者も、大型の袋を荷台から下ろす者も珍しくない。
教団が狙った入口は、旧ハウンドダンジョンとは別の民間開放区域だった。
三層までの攻略情報が揃い、週末には継続探索者が多く入る。入口施設には広い駐車場と荷下ろし用の車路があり、複数パーティーが同時に出入りしても不自然ではない。周囲には住宅地もあり、少し離れれば店舗と宿泊施設が並んでいる。
無名の土地で何かを起こしても、政府は封鎖して終わらせる。
ここであれば、ハウンドの名を追う配信者や報道関係者が来る。事故が起きれば探索者が救助へ集まり、州警察、消防、軍も送られる。入口から何かが溢れれば、その映像は国内だけでは止まらない。
門が開いた後も、捧げるものが自ら集まってくる場所だった。
「本日の入域者は、現時点で三十四名です」
教団の登録探索者の一人が、紙へ書いた数字を読み上げた。
「予約なしで入った固定パーティーが一組あります。駐車場の車両数から見て、三十五名か三十六名と考えた方がよいかと」
「三層まで入っている者は」
「少なくとも二組。片方は五人です。午後までに戻る予定になっています」
指導者は腕時計を確認した。
規制案の内容が漏れたことで、予定は前倒しになった。本来なら、十五体を開放した後に数日待ち、内部の変化を確かめるはずだった。
その時間はない。
遺体の移送記録まで調べられれば、いずれ教団へ辿り着く。入口の検査が始まれば、内部へ置いた十五体も見つかる。これまで運び込んだものを回収する選択は、誰の口からも出なかった。
「死んだ肉だけでは、足りなかったのでしょう」
指導者は、長机を囲む者たちを順に見た。
「自ら歩き、恐れを知り、最後まで意味を理解している者が必要だった。門が求めているものを、私たちは間違えていた」
机の中央には、二十五個の腕時計が並べられていた。
時刻は一秒まで揃えてある。
二十四人が内部へ入る。事前に決めた地点へ分かれ、十五体を収めた袋を開く。内部にいる探索者を浅い階層から順に殺し、定められた時刻になれば、自分たちもその場へ残る。
最後の一人は地上に残る。
入口周辺へ警察や軍が集まり、内部へ続く道を塞ごうとした時、別の役割を果たすためだった。
「正面から戦う必要はありません」
指導者の声は、祈りを読み上げる時より平坦だった。
「彼らはモンスターを警戒します。同じ登録証を持ち、同じ防具を身につけた者が、助けを求めれば近づいてくる。怪我人がいると言えば、救護用品を持って背を向けるでしょう」
登録探索者として活動してきた七人は、誰も否定しなかった。
ダンジョン内で見知らぬパーティーと出会えば、装備の破損や負傷者の有無を確認する。道を譲り、水を分け、逃げてきた者がいれば追っている敵を警戒する。
それは探索者が生き残るために覚えた習慣だった。
今度は、その習慣が殺すために使われる。
「一度に入れば疑われます」
登録探索者の一人が言った。
「四人から六人で分かれます。時間もずらした方がいい。合同訓練を名乗る必要もありません」
「お願いします」
指導者は頭を下げた。礼拝室を出る時、誰も別れの言葉を交わさなかった。
地上には午後の光が残っていた。教会裏の駐車場へ並べた車両へ、装備と回収袋を積み込む。ヘルメット、胸当て、膝当て、ライト、短槍、手斧。大半は探索者向けの量販店で買える品だった。
信者たちは四台の車へ分かれ、それぞれ異なる道からダンジョンへ向かった。
最初の車が入口施設へ着いた時、駐車場には十数台が停まっていた。防具をつけた男女が荷台を開け、帰還したばかりのパーティーが泥のついた靴を洗っている。
教団の登録探索者二人と同行者三人は、受付で登録証を出した。
「今日は一層だけですか?」
係員が画面を見ながら尋ねた。
「二層まで。新しい装備の確認です」
「帰還予定は?」
「夕方前には」
返された登録証を受け取り、五人は入口へ向かった。
その二十分後に、次の車が入った。さらに時間を置いて、三組目が受付を通る。駐車場で互いに顔を合わせても、教団員同士で声をかける者はいなかった。
最後の内部班が入口へ消えた後も、一台だけ車が残った。
運転席に座る男は、入口施設へ続く車路と、建物の壁までの距離を確かめた。後部座席はすでに外され、荷室には厚い布が掛けられている。
男は腕時計を見てから、両手をハンドルへ置いた。
地上にはまだ、何も起きていなかった。




