第316話 地中湖
新ダンジョンの六層扉を開く前に、グラントは四人分の装備と回収品を五層終点の石床へ並べさせた。
政府の管理班へ引き渡した物まで持ち込んだわけではない。確認しているのは、今回の探索で実際に使える装備と、緊急時に消費してよい物だった。
四層ボスの宝箱から出た籠手は、コールの前に置かれている。
黒褐色の金属板を何枚も重ねた片手用で、指先から肘の手前までを覆う。握る動きを妨げるほど重くはないが、銃を扱うには指の感覚が変わりすぎた。
防具としての強度は確認中で、追加効果の有無も分かっていない。今回は左腕へ装着し、戦闘中に外せる固定方法へ変更していた。
五層ボスの宝箱から出たウォーハンマーは、グラントの黒い槍より短く、両手で扱う長さの柄を持つ。一方の打撃面は平らで、反対側は硬い甲殻や骨の隙間へ食い込ませるための細い嘴状だった。
「盾はまだ俺が持つのか」
コールが籠手の指を曲げながら言った。
「籠手を付けて、ハンマーまで欲しいのか」
「全身揃えるなら早い方がいい」
「揃った頃には、歩く武器庫ね」
エレナは籠手の固定具を確認し、指先の動きへ視線を落とした。
「痛み、痺れ、圧迫感は?」
「ない。小銃の引き金は少し遠く感じる、ダンジョン産の防具は自動で調整とか、まさにファンタジーだな」
「少しで済んでいるうちに報告して。戦闘中に慣れるつもりなら外させる」
コールは肩をすくめたが、反論はしなかった。
ケイレブはウォーハンマーの柄へ荷重計を取り付け、持ち上げた時の傾きを確認している。
「重心は先端寄りだ。濡れた床で振るなら、踏み直しが一回増える」
「後ろには立つな、か」
「俺が言う前に分かっているなら助かる」
グラントがウォーハンマーを持ち上げ、肩より高く振り上げずに動きを確かめた。硬い相手へ打撃を通す選択肢は増えたが、黒い槍と同時には扱えない。六層の環境を確認し、持ち替える価値があるか判断することになった。
赤いポーションは二本。
五層攻略までに在庫が増え、政府管理下から二本の持ち出し許可を得ている。使用判断はエレナが持ち、四人のうち誰か一人でも死亡の可能性が高いと判断した時だけ封を切る。
そのほかの回収品は研究施設で解析が続いていた。
用途不明の薄い金属片、熱を加えても温度がほとんど変わらない小石、振ると内側で液体のような音がする密閉容器。用途不明の物は置いてきた。
「新しい階層へ、分からない物を持って入る趣味はない」
グラントが最後に確認した。
「水魔術も同じだ。コール、湖があっても勝手にいじるなよ」
「まだ湖だと決まったわけじゃない」
「扉の下から湿った空気が出ている。水音もする」
ケイレブは扉脇へ置いた小型マイクの波形を指した。
「反響が長い。流れの速い川より、広い水面という想定だな」
コールは扉を見た。
「それなら試す価値はあるだろ」
「条件を決めてからだ、水自体が襲ってくるかもしれんぞ」
グラントは籠手を付けた左腕へ目を向けた。
「お前の水は弾丸にならない。刃にもならない。今の使い道は視界、足場、姿勢の妨害だ。湖の水量に引っ張られて、自分の限界まで変わったと思うな、多少優位になるだけだ」
「分かってる」
「口で分かっていても、目の前に水があれば試したくなるだろうけどね」
「気を付けるよ」
返答を聞いたエレナが、コールの脈拍計を装着し直した。
「なら、疲労が出た時点で自分から言って。気絶する直前まで試すのは禁止」
「気持ち悪くなるんだよ、あれ。言われても断る」
「さっきの返事よりは信用できそうね」
ケイレブは二人の会話を聞き流しながら、扉の先へ入れる小型探査機を確認した。
「水魔術を使う前に、岸と上を調べる。湖が広いなら、水中だけを気にしている方が危ない」
グラントが頷いた。
「全員、同じ理解で入る。六層到達は成果だが、今日は攻略日じゃない。岸があるなら岸だけを見る。水へ入らない。湖上へ出ない。大型反応があれば距離に関係なく戻る」
準備を終え、六層扉を開いた。
冷たい空気が五層側へ流れ込んだ。
扉の先には、緩やかに下る岩棚が続いている。十数メートル進んだところで通路の天井が途切れ、その向こうへ巨大な空洞が広がっていた。
最初に見えたのは対岸ではなく、青白い光だった。
天井、壁面、湖岸に沿って苔が群生し、地中の空洞全体を弱く照らしている。苔の密度にはむらがあり、濃く生えた場所は街灯の下ほど明るく、離れた壁は輪郭だけが浮かんでいた。
照明を消しても、足元と互いの姿を見失うほど暗くはない。
大空洞の中央には湖があった。
水面は青白い光を散らしながら奥へ続き、対岸らしい線は見えない。天井までの高さも測距器の上限を越え、遠い場所では苔の光が星のように点在していた。
エレナが呼吸器の測定値を確認する。
「酸素濃度は正常。刺激性ガスも今のところ検出なし。湿度は高い」
「飲めそうか」
コールが湖を見たまま聞いた。
エレナは測定器から顔を上げた。
「触る前から飲む話をする人には、採水も任せたくない」
「俺が飲むとは言ってない」
「言い方を変えても駄目」
グラントが湖からコールへ視線を移す。
「エレナの許可が出るまで接触禁止だ」
「了解」
今度の返事は早かった。
ケイレブは入口周辺へ小型標識を置いた。粘着式を避け、自重で立つ回収可能な物だけを使う。
湖岸は白灰色の岩棚と湿った砂地が交互に続いていた。
水際へ近づくにつれて苔の光が強くなる。水中にも同じ苔らしいものが生えており、浅い場所では沈んだ岩の形まで見えた。
十メートルほど先から急に底が落ち、その先は光を吸ったような暗い青へ変わっている。
「岸沿いに右へ百メートル。そこまでで引き返す」
グラントの指示を受け、ケイレブが先行した。
最初の三十メートルは何も出なかった。
砂には細い溝が何本も残っていたが、どの程度新しいものか分からない。水際から岩陰へ伸びており、小型生物が往復した跡に見える。
ケイレブが足を止め、短い棒で砂を触った。
砂の下から扁平な甲殻が持ち上がった。
皿ほどの生物が四本の脚を広げ、棒へ挟みつく。表面は濡れた岩と同じ白灰色で、動くまで甲殻と地面の区別がつかなかった。
「一体。棒から離れない」
ケイレブが距離を保ったまま持ち上げる。
甲殻生物は脚の内側に並んだ細い棘を食い込ませた。エレナが採取容器を開き、グラントがウォーハンマーの柄で甲殻の端を押す。
生物は急に棒を離し、水際へ跳んだ。
落ちる前にコールが左手を向ける。
湖面から少量の水が持ち上がり、横から甲殻生物へぶつかった。傷を与えるほどの威力はなかったが、進行方向を変えられた生物は湿った砂へ転がる。
ケイレブが短槍で押さえ、腹側の柔らかい隙間へ刃を入れた。
甲殻生物は数度脚を動かした後、止まった。
「妨害としては使えた」
グラントが水際とコールの両方を確認する。
「操作量は?」
「十リットルもない。疲労もほとんどない」
コールが湖面から手を下ろすと、グラントは甲殻生物の死体を確認した。時間が経っても消失せず、脚の棘も腹側の傷もそのまま残っている。
旧ダンジョンの六層でも、倒した生物の死体は残った。草原でも、ここでも同じなら、六層から先は通路型の階層より、生態圏に近い環境へ変わる可能性がある。
エレナが死体を密閉袋へ収める間、ケイレブは水際の溝を追った。
「同じものが複数いる。サイズはばらついている」
「大きい跡は」
「今の三倍程度なら同種で説明できる。湖へ続く太い跡は幅が違う。そちらは別種として考える」
百メートルの予定を七十メートルで止めた。
湖岸がそこで細くなり、壁と水面の間が二人分ほどしか残っていない。壁面の苔が密集し、その下には細長い黒い塊がいくつも付着していた。
コールが目を凝らした。
「植物か?」
「距離を取れ」
ケイレブが先に制した。
黒い塊の一つが伸び、湖面へ先端を落とした。細い身体の下側から膜が開き、水面を撫でながら滑っていく。
続いて二つ、三つと壁から離れた。
翼というより、皮膜を使って湖面の上を走る小型生物だった。苔の光を避けるように暗い方へ進み、数十メートル先で水中へ落ちる。
「岸だけ見ても、接触方向は三つある」
ケイレブは壁、水面、退路の順に視線を動かした。
「ここから先は隊列を維持しにくい」
グラントが入口方向へ身体を向ける。
「予定を変更。ここで終了する」
「水の確認を一回だけやらせてくれ」
コールの言葉に、グラントはすぐ返事をしなかった。
湖面は静かだった。小型生物が潜った場所にも波紋はほとんど残っていない。
ケイレブが首を横へ振る。
「この位置は狭い。試すなら、さっきの広い岩棚まで戻ってからだ」
コールは湖と退路を見比べた。
「それでいい」
四人は三十メートルほど引き返し、周囲を再確認した。
「十リットルまで。岸から三メートル以内で持ち上げ、その場へ戻す。コール以外は水際へ寄らない。何か変化を感じれば中止だ」
グラントの条件に、全員が応じた。
コールは籠手を付けた左手を湖へ向ける。
浅い場所の水が盛り上がり、透明な塊になって水面から離れた。完全な球形ではなく、表面を揺らしながら胸の高さへ浮いている。
混じっていた細かな砂と苔の切れ端が、内部でゆっくり回った。
エレナが離れた位置から測定器を向ける。
「温度は十一度。毒性と微生物は持ち帰って調べる。コール、保持時間を延ばさないで」
「あと三秒」
「二秒」
コールが水塊を横へ一メートル移して足元の岩へ落とすと、水は薄く広がり、苔の表面を濡らした。その直後、湖の奥で水面が長く持ち上がった。
風で生じた波の動きとは違う。青白い光を受けた水が幅を保ったまま一度だけ盛り上がり、奥へ向かって沈んでいく。距離は測れなかったが、コールが動かした量とは比較にならなかった。
ケイレブは入口方向へ下がりながら、測距器を向けた。
「距離、取得できない。岸への接近も確認できない」
「撤収」
グラントは湖を見続けず、全員の位置を確認した。
四人は死体と採水容器を回収し、同じ経路を引き返した。追跡音はなく、水面が再び動く様子もなかったが、速度は落とさない。
六層扉を閉じ、五層終点へ戻ったところで、コールが籠手を外した。
「俺の操作に反応したと思うか」
「可能性はある」
グラントは装備の損傷を確認しながら答えた。
「湖へ触れたこと、水を持ち上げたこと、別の生物が偶然動いたこと。現時点では分けられない。次回は水魔術を使わず、同じ位置と滞在時間で観察する」
「次はいつだ」
エレナがコールより先に口を開いた。
「その話をする前に、全員の休養を決める」
「今ここでか」
「静かな今ここが最適、地上へ戻った途端に次の装備申請が始まるでしょう」
エレナは記録端末を開き、四人の睡眠と負傷履歴を表示した。
「ケイレブは、この一週間の平均睡眠が六時間を切ってる。コールは魔術検証を訓練日へ追加し続けている。グラントは五層ボス戦で左肩を打ってから、動作確認の回数が増えた」
「支障はない」
「表情に出てるわ、無理はしないで」
グラントはエレナを見た。
「どんな表情だ」
「痛みを隠せていると思っている顔」
コールが何か言いかけたが、グラントに見られて口を閉じた。
エレナは左肩の可動域を確かめるよう指示し、腕を上げた時点で動きを止めさせた。
「ここで庇ってる。治療が必要な負傷ではないけど、休ませる理由には十分」
グラントは腕を下ろした。
「お前はどうなんだ」
「私は眠れてる。けど二層から近接参加を増やした分、手首と腰に疲労がある。それに買い物にも行きたいしね」
ケイレブが記録端末を閉じた。
「一週間が妥当だ」
「長くないか」
コールが言った。
「移動を含めれば短いさ。はあ、前のダンジョン付近から引っ越しておくべきだった」
ハウンド・スリーとして知られる以前から攻略していた、通称ハウンドダンジョン。その周辺へ活動拠点を置き、四人は現在も近くに住んでいる。
新ダンジョンまでは政府施設を経由して移動する必要があり、一度帰れば往復だけで半日以上を使う。
「一週間休むと言っても、我が家で使えるのは五日程度だ」
ケイレブは続けた。
「そのうち二日は、ダンジョン関連の予定を入れない方がいいな」
「何をする」
コールが尋ねた。
「引っ越し」
「賛成だ、俺も適当に見繕ってこっちに移ろう、相談すりゃいい物件紹介してくれるだろ」
「それを休暇に数えるのか?」
「少なくとも、モンスターは出ないからな」
エレナがグラントへ視線を向けた。
「一週間でいい。政府への報告と回収品の引き渡しが終わったら、全員いったん旧拠点へ戻る。映像確認は一日一時間まで」
「一時間で解析できる量じゃないぞ」
「そんな急ぎでもないからな」
グラントは三人を見回した。
六層へ到達したばかりで、新しい環境も湖の中の反応も残している。それでも、急いで再突入する理由はないだろう。
「一週間だ」
コールが口を開く前に、グラントは続けた。
「政府側に湖岸の映像解析と採取物の検査を進めてもらう。次回は岸沿いの別方向を確認する。水魔術は、検証計画を作り直すまで六層では使用しない」
「完全禁止か」
「六層限定だ。訓練施設では続けていい。ただしエレナの管理下で行う」
「それならいい」
コールは籠手を収納ケースへ戻した。
五層側ワープを使い、四人は一層へ移動した。地上へ出ると、乾いた外気が装備の隙間へ入り、湖の湿気が急に遠くなる。
迎えの車両へ荷物を積み込む間、ケイレブは旧拠点までの移動予定を確認した。エレナは赤いポーション二本の返却手続きを始め、コールは籠手と水魔術の使用記録を報告端末へ入力している。
グラントが六層で撮影した最後の映像を開くと、青白い苔の向こうで水面が長く盛り上がっていた。再生を止めた画面には、車内の暗い天井が映る。
「一週間後だ」
コールが聞きつけた。
「休暇中に勝手に見に来るなよ」
「お前に言われるとは思わなかった」
「俺は魔術の練習だけで忙しい」
エレナが車両の扉を閉めながら言った。
「その練習も日程を送ってから」
運転席の職員が予定表を確認した。
「では、一週間は休暇として登録します」
グラントは映像端末をケースへ戻した。
「登録だけは、そうしておいてくれ」




