第315話 総則
中国とエクアドルで起きた二度のスタンピードについて、アメリカ政府が集めた資料は、同じ会議室の壁を半分ずつ占めていた。
中国側の映像には、五層へ投入された大部隊、入口へ向かって押し出された個体群、人間を摂取した後に増殖する甲殻型が残っている。エクアドル側では、倉庫へ運び込まれた遺体と、その処理を続けていた組織の供述が時系列に並べられていた。
国土安全保障省の分析官が、二つの事例を結ぶ線を画面へ引いた。
「共通項として最も強いのは、人間の遺体です。中国では大量の死者と残置者が内部へ集中し、エクアドルでは遺体の搬入が継続していました」
司法省の次官補が資料をめくった。
「それを原因と断定できる段階か」
「そこまでは届いていません。ただ、トリガー候補から外す根拠もありません」
「対象は人間だけか」
「現時点では絞れません」
分析官は、家畜、食肉、血液、臓器、生物実験廃棄物の一覧を表示した。
「人体特有の要素へ反応している可能性があります。神経組織、血液、体温、死後変化、あるいは人間という種そのものです。一方で、大量の生物由来物質を餌として認識している可能性も残ります」
会議室の後方で、農務省の担当者が眉を寄せた。
「有機物という言葉で括れば、携行食まで規制対象になる。探索者が持ち込む干し肉や栄養食品も同じ分類だ」
「量と目的を分ける必要があります」
疾病対策部門の担当者が答えた。
「通常の補給、治療、研究用試料まで、意図的な投入や放置と同じ扱いにはできません。問題になるのは、ダンジョン内部へ大量に置き、個体を誘引し、増殖や流出を招く行為です」
連邦捜査局の代表が、用意していた法案要旨を画面へ出した。
人間の遺体または人体の一部を、正当な救助、回収、研究目的を伴わずダンジョンへ搬入する行為は、結果が生じる前から連邦重大犯罪として扱う。
動物の死体、血液、臓器、食肉、生物廃棄物については、種類、重量、搬入目的、保管方法を基準に許可制とする。モンスターの誘引、増殖、流出を目的とした設置は、物質の種類を問わずテロ関連犯罪の捜査対象へ加える。
「スタンピードが発生してから処罰する文面では遅すぎます」
連邦捜査局の代表はそう言って、未遂と共謀の欄を示した。
「人間の遺体を一体運び込んだ段階で逮捕できるようにします。大量の動物死体や生物廃棄物も、意図と準備状況から介入可能にする。結果責任だけでは間に合いません」
司法省の次官補は文面を読み、指先で一か所を止めた。
「危険量とは何ポンドだ」
「固定値は置けません」
「基準が曖昧なら、法廷で争われる」
「数値を置けば、その一ポンド下まで運ぶ者が出ます」
国土安全保障省長官が二人の間へ入った。
「数量だけで決めるな。継続搬入、分割投入、放置場所、包装、誘引設備、周辺個体の反応まで含めて判断する。通常の食料や医療品は除外対象として明記しろ」
司法省側は不満を残した顔で、修正文案の入力を始めた。
議題は国内法だけでは終わらなかった。
会議室の中央画面へ、国際ダンジョン管理機構の設立草案が表示される。正式名称は各国間で調整中だったが、情報共有と最低限の禁止事項については、大半の参加予定国が合意へ近づいていた。
日本、シンガポール、エクアドル、カナダ、オーストラリア、欧州・アジア各国の多くが、設立準備会への参加を表明している。ロシアも査察権を限定する条件で協議を続け、入口や内部構造への攻撃規制には前向きな回答を返していた。
各国の国内制度や入口管理権は、そのまま各政府が保持する。
新しい機構が担うのは、重大事故の報告、スタンピード兆候の共有、流出個体の越境監視、研究資料の交換、共同支援の調整だった。加盟国の同意を得た場合には、事故調査団や救助支援班も派遣する。
草案の第一章には、総則として二つの禁止事項が置かれていた。
国務省の担当者が読み上げる。
「加盟国は、ダンジョンの入口、階層間通路、転移設備、ボス区画その他の内部構造に対し、爆撃、砲撃、爆破解体または同等の大規模破壊を加えてはならない」
目前の人命救助や、地上へ流出した個体への対処で例外を適用した場合、実施国には映像、使用兵器、対象、結果の提出が求められる。構造破壊を必要とした判断も、事後に加盟国間で検証される。
中国の入口爆撃後に円盤型と赤黒い跳躍型が出現した事実は、因果関係の断定を避けたまま、規則の根拠資料へ残されていた。
続く条項には、遺体と生物由来物質の扱いが記されている。
「加盟国は、人間の遺体、人体組織、または危険量の生物由来物質を、探索、研究、救助その他の正当な目的を伴わずダンジョン内部へ搬入、設置、放置する行為を禁止する」
各国は国内法を整備し、違反行為の準備、共謀、勧誘、資金提供まで処罰対象へ含める。研究や医療目的の搬入には記録と回収計画を義務づけ、所在を確認できなくなった場合は管理機構へ報告する。
国土安全保障省長官は、二つの条項を見比べた。
「これで十分か」
「総則としては」
国務省の担当者が答えた。
「細則では、深層進入時の通報、入口周辺からの住民避難、モンスター死体の越境輸送、病原体検査、回収品の軍事転用も扱います。ただ、最初から全部を揃えれば署名まで一年以上かかります」
「その間に三度目が起きるな」
「だから総則を先行採択します」
設立準備会は、禁止事項と緊急共有制度だけを先に発効させ、査察や制裁については後続議定書へ回す案でまとまりつつあった。
各国が善意で資料を提出するという前提は置かれていない。
事故を隠す国も、軍事情報を理由に映像を伏せる国も想定されている。それでも、入口爆撃と遺体投入を国際的な禁止事項へ置けば、他国のダンジョンを狙った攻撃へ共通の非難と捜査協力を向けられる。
国務長官が、参加国との交渉状況を確認した。
「残っている大きな問題は」
「中国です」
東アジア担当者が、中国側から届いた修正要求を表示した。
禁止条項そのものへの反対は記されていない。中国側が求めているのは、事故の記録方法と機構内での立場だった。
「中国は、入口爆撃後の個体変化を総則の根拠資料から外すよう求めています。少なくとも、中国軍の判断が深層系流出を招いたと読める表現は受け入れられない、と」
「因果関係は断定していない」
「それでも、中国の事例が規制の起点になった構図を嫌っています」
中国側は、設立時の常任理事国相当の地位、初代事務局幹部への中国人登用、総則作成国としての明記も求めていた。事故を起こした国として規則へ従う形ではなく、世界的な危機へ対処する主導国の一つとして参加したい意向が透けて見える。
国務長官は要求一覧を最後まで読んだ。
「地位と人事は交渉できる。事故資料は残さなければ」
「中国側は、公開資料からの削除を最低条件にしています」
「非公開の技術資料へ移す案は」
「それなら応じる余地があります。ただし、中国国内映像の提出範囲で折り合っていません」
国土安全保障省長官が腕を組んだ。
「中国を外したまま始める選択は」
「機構そのものは発足できます。後から参加を促す形も取れますが、あの国がそれをどう受け取るかは別の問題です」
国務省の担当者は、加盟予定国と世界のダンジョン推定数を並べた。
「ただし、中国は確認済み入口数、人口、軍事的影響のどれを取っても無視できません。中国が規則の外へ残れば、事故情報の共有にも、ダンジョンテロの捜査にも大きな穴が開きます。テロリストの逃げ場を作る訳にもいきません」
「参加させれば、資料を都合よく削られるのが目に見えるな」
「その境界を詰めているところです。良い胃薬とか知りませんか?」
国務長官は、中国側要求のうち、設立主導国という表記へ印を付けた。
「名前は譲れる。事務局の席も渡せる。中国が共同提案国として総則を発表する形でも構わない」
その指が、入口爆撃後の観測資料で止まった。
「事実は残すべきだ」
「公開範囲を限定しても?」
「加盟国の事故調査部門が検証できる状態ならいい。中国国内向けの発表文まで、こちらが決める必要はない」
中国の面子を守りながら、中国で起きたことを国際機構の記憶から消さない。その境界を探す作業が、ここ数週間にわたって続いていた。
エクアドルも、自国の遺体処理とスタンピードの関係を公式に断定することには慎重だった。だが、支援を受ける条件として事故資料の提供に応じ、匿名化した供述と現場映像を提出している。
日本は、未申告入口への相談制度、探索者団体を通じた活動記録、入口構造への攻撃回避を共有案へ加えた。シンガポールは、規模の小さい国でも即時に援助要請を出せる条項を求めている。
ロシアは外国調査員の入国と軍施設への接近へ強く制限をかけたが、相手国のダンジョンを攻撃対象から外す相互規制には賛成していた。
国によって守りたいものは違う。
守秘、主権、軍事情報、面子、国内世論。そのどれも手放さないまま、同じ禁止事項へ署名させる必要があった。
「さあ、ここからですね。中国だけに席を譲る話では、もちろん済みません」
監察制度を担当する財務省職員が、別の資料を画面へ重ねた。
「事務局の設置には七か国、共同調達部門には十一か国が正式に名乗りを上げています。事故調査部門と研究情報部門についても、各国から幹部候補が届いています」
国務長官が候補地一覧を眺めた。
「設立前から随分と人気だな」
「各国の事故記録、未知の生物情報、回収品の研究資料へ接触できます。共同備蓄と救助装備の購入先にも影響を持つ。席が権限と契約に繋がることは、どの政府も理解しています」
共同調達の初年度案には、無人機、防護服、通信中継器、医療設備、封鎖用車両、モンスター死体の輸送容器が並んでいた。規模は暫定予算の段階で数十億ドルに達し、その後も加盟国と事故件数に応じて膨らむ。
国土安全保障省長官は、調達部門の権限案を読み進めた。
「企業との接触記録は」
「保存を義務化します。公開入札を原則とし、緊急調達は事後監査の対象。幹部と審査担当者には保有株式、家族の役員就任、過去五年間の顧問契約を申告させます」
「退職後は」
「調達先や研究提携先への就職を、職務に応じて二年から五年制限する案です」
司法省の次官補が顔を上げた。
「その期間、職を選ぶ権利だけ奪うのか」
「補償を付けます」
財務省職員は、職員報酬案を開いた。
事故調査官には危険地域手当、情報分析官には機密取扱手当、現地救助要員には死亡・負傷補償と家族給付を設ける。任期終了後も守秘義務と就業制限が続く職員には、その期間に応じた補償金を支払う。
「国際公務員に高すぎる報酬を与えると、各国議会で批判されます」
予算担当者が言った。
「安く雇って、数十億ドルの契約と国家機密を扱わせる方が危険です」
財務省職員の返答は早かった。
「民間企業や出身国の情報機関が、その差額を埋めることになります」
職員が出身国の指示を受けることも想定されていた。機密情報の単独閲覧を避け、重要資料の持ち出しには複数部署の承認を求める。閲覧履歴と編集記録を保存し、提供国が自国に不利な情報を最高機密へ押し込んだ場合には、機構側の分類審査へ回す。
情報を集めすぎれば機構そのものが諜報目標になり、権限を絞りすぎれば事故共有の意味が薄れる。
国務長官は、総則草案の横へ積み上がった運用規則を見た。
「この辺りも各国と合意できているのか」
「給与水準、職員枠、調達監査は総則より揉めています」
「中国は」
「幹部枠と情報分類部門を求めています。アメリカ企業は共同調達への参入条件を聞いてきていますし、欧州側は退職後規制をさらに長くするよう主張しています」
「結局、全員同じ穴を見ているということか」
「落ちる穴ではなく、予算の出る穴として見ている者もいます。その穴にどれほどの遺体があるのか、知ろうともしないで」
財務省職員は表情を変えずに答えた。
国土安全保障省長官は国内法案へ視線を戻した。
「国際機構の発足を待たず、こちらは先に施行する」
「州との調整が残っています」
「連邦管理区域、州管理区域、私有地で扱いが分かれる部分は後から詰めろ。遺体の投入と構造爆破だけは、どこで行っても同じ罪にする」
連邦捜査局には、葬儀施設、食肉処理場、大学研究施設、生物実験施設、農場、廃棄物処理業者からの不審な搬出を、既存の未申告入口情報と照合する準備が命じられた。
司法省の次官補が、法案名の候補を読み上げる。
「異常空間安全保障及び危険物投入防止法」
「長いな」
「議会がさらに長くします」
会議室の何人かが資料から顔を上げたが、笑った者はいなかった。国務省の担当者だけが口元をわずかに動かし、その横で国土安全保障省長官は総則草案の承認欄へ署名した。
人間の遺体がスタンピードを起こすという証明は、まだ完成していない。動物の死体や血液、その他の生物由来物質が同じ反応を招くかも、現時点では判断できなかった。
証明を待つ間にも、誰かが試す可能性はある。
中国で起きた入口爆撃と、エクアドルで行われた遺体搬入は、別々の国で生じた別々の判断だった。その二つを、次からは国境を越えて禁じる。
署名を終えた総則草案が送信待ちの資料へ移されると、画面には事務局長、副事務局長、事故調査部長、共同調達部長の候補者名簿が表示された。総則への署名を保留している中国からも、三人の名前が提出されている。
国務長官はその名簿を一度下まで送り、総則草案より長い給与規程と利益相反申告書を開いた。
「次はどれだ」
「危険手当の算定と、調達部長の株式処分期限です」
中国の署名欄は空いたままだったが、会議はそちらを待たずに続いた。




