第310話 奪還作戦 第一目標
夜明け前の占拠区域は、遠くから見れば眠っているように見えた。
照明の消えた集合住宅、道路へ乗り上げたままの乗用車、焼けて骨組みだけになった商店。その間を、監視用無人機の赤外線映像では複数の熱源が動いている。
梁雪梅は臨時指揮所の画面を切り替え、病院へ続く幹線道路を拡大した。
入口のある管理施設からは二・七キロ。占拠区域全体から見れば外縁だが、軍が後退してから一度も人間が入っていない。無人機と遠隔車両は何度も送られ、そのたびに破壊されるか、建物の陰へ引き込まれていた。
道路上には灰白色甲殻型が十三体。暗赤色四脚獣が六体。屋根と街路樹の間には、黒い小型滑空種と思われる反応が散っている。
入口周辺で観測されている円盤型と赤黒い跳躍型は、動いていなかった。
「深層系に変化なし」
梁雪梅の報告を受け、現場指揮官は卓上の作戦図へ指を置いた。
最初の目標は、病院ではない。病院前交差点から八百メートル手前にある高架下まで道路を確保し、両側の建物を確認する。そこへ固定陣地を作り、救助と次の前進に使える線を一本引く。
作戦図には、その先が描かれていなかった。
「第一段階の境界は高架下だ。病院に人影が見えても越えるな。地下へ逃げた個体を追うな。入口方向へ走る個体も追うな」
集められた部隊の前に、改修防護盾と長柄武器が並んでいた。
日本の先遣隊が使った装備の模造品。素材も構造も違い、軽さも耐久性も及ばない。中国側は不足する性能を人数、車両、工兵設備で補うことにした。
盾班が敵の向きを変える。長柄班が脚と接地位置を崩す。拘束班が索を掛け、道路脇へ設置した工兵車両で引く。射撃班は正面装甲を撃ち続けず、側面や露出した下部へ火力を集中する。
一体を少人数で片づける技術が足りないなら、一体を処理する場所そのものを先に作る。
「損害が出た場合も、救護線を越えて前進させない。負傷者を運ぶために戦闘班を崩すな。深層系の反応、車両二両以上の喪失、死傷者十五名。このいずれかで作戦停止だ」
現場指揮官は全員を見回し、最後に付け加えた。
「今日、入口は取り戻さない。町も取り戻さない。八百メートルだ」
午前五時十二分、先頭の装甲車が封鎖線を越えた。
道路の両側には、軍が置き去りにした車両と住民の乗用車が折り重なっていた。工兵車両が手前から一台ずつ押し出し、空いた幅へコンクリート障害物と鋼製柵を置いていく。
百メートル進んだところで、灰白色甲殻型が動いた。
平たい胴体を低くし、六本の短い脚で道路を滑るように近づいてくる。先頭の射撃班は撃たなかった。
以前なら、見えた時点で弾を浴びせていた。命中はする。甲殻も砕ける。それでも勢いを残した個体が防衛線へ入り込み、射撃方向を乱した。
盾班が道路中央へ出た。
最初の一体がぶつかり、三枚の盾がまとめて後ろへ押された。兵士たちは止めようとせず、左側だけを下げる。向きを変えた甲殻型の前脚へ長柄が差し込まれ、金属製の鉤が関節へ引っかかった。
「索!」
二本の拘束索が飛び、工兵車両が後退する。
甲殻型の腹側が浮いた。
そこで初めて、側面の射撃班が撃った。
銃声が狭い道路に重なり、灰白色の甲殻が内側から崩れた。完全に動きを止めるまで二十秒以上かかったが、後続は固定障害物の間で進路を絞られている。
梁雪梅は画面上の反応を数えた。
「北側路地から四脚獣三。屋根上、滑空種が移動」
警告が前線へ届くより先に、黒い影が街路樹から落ちた。
掌ほどの小型個体が十数体、防護盾の上を越えて兵士へ取りつく。防護服の表面で弾かれたものもいたが、一体が首元の重なりへ入り込んだ。
兵士が喉を押さえ、隊列から外れる。救護員が引き倒すように地面へ伏せさせ、小型個体ごと防護服の襟を切り開いた。
細い出血が見えた。
「血液露出、後送!」
その声に反応したように、路地から暗赤色四脚獣が飛び出した。
盾班が向きを変えるには近すぎた。
先頭の一人が体当たりを受け、盾ごと後方の車両へ叩きつけられる。別の兵士が長柄を口元へ突き込み、四脚獣の頭を横へ向けたが、二体目が脇を抜けた。
射撃班が撃つ。
弾丸で身体を削られながらも、四脚獣は止まらなかった。救護員へ跳びかかる直前、装甲車の側面から伸びた固定索が胴へ巻きつき、進路を半歩ずらした。
半歩で足りた。
救護員は負傷者を引きずって車両の陰へ入り、四脚獣は装甲板へ肩から衝突した。射撃が側腹部へ集中し、ようやく脚が崩れる。
残る一体は盾列へ正面からぶつかった。
右端の兵士が倒れ、後ろにいた長柄班員の膝が逆方向へ折れた。それでも列は開かず、隣の二人が盾の角度を変えた。四脚獣を道路脇の鋼製柵へ押し込み、拘束班が索を掛ける。
最初の接触から七分で、負傷者は六名になった。
作戦停止基準には届いていない。
前線指揮官は道路に落ちた血へ吸着材を撒かせた。灰白色甲殻型が人間の血へ反応することは分かっている。負傷者を後送するだけでは、残った血が次の敵を呼ぶ。
「第一班を後退、第二班を前へ。盾の固定具を全交換しろ」
壊れていない固定具まで外された。
時間がかかった。
後方の指揮所では、予定より遅いという報告が二度上がったが、前進命令は出なかった。
午前六時三分、部隊は最初の交差点へ入った。
右側の薬局跡から灰白色甲殻型が五体、左側の立体駐車場から暗赤色四脚獣が二体現れた。上空の無人機が立体駐車場の屋上で、白い長大節足生物の一部を捉える。
梁雪梅は映像を拡大した。
白い節が建物の縁を越え、黒い小型個体を路上へ落としている。全長は建物の裏へ隠れ、確認できない。
「白色長体を確認。上部から滑空種を放出」
前線では対空用の散弾と防護網が展開された。
黒い影が網へぶつかり、絡まったまま蠢く。全ては止められず、三体が装甲車の上へ降りた。一体が開いた観測窓へ入り、車内から短い悲鳴が上がる。
装甲車は急停止した。
直後、立体駐車場の壁面から白い長大節足生物が落ちてきた。
車載機関砲が撃ち、白い胴体を途中で切断する。前半部は路上へ落ち、後半部は壁に張りついたまま動き続けた。
切断された前半部が装甲車へ巻きつく。
車両が傾き、乗員が脱出する前に横転した。救助へ向かった兵士へ、駐車場から暗赤色四脚獣が飛びかかる。
「救護線を前へ出すな!」
前線指揮官の命令で、救助班はその場に伏せた。
横転した車両の内部から、乗員が一人ずつ這い出してくる。最後の一人だけが動かなかった。近づける距離ではない。
盾班が四脚獣を押さえ、長柄班が白い長体の前端を車両から引き離す。機関砲は撃てない。人間と車両が重なりすぎていた。
工兵車両が前へ出た。
排土板で白い節足生物を道路脇へ押しつけ、そのまま壁との間で潰す。切断面から液体が溢れ、路上へ黒い小型個体が散った。
防護服の上から踏み潰し、散弾でまとめて処理する。その間に横転車両の乗員が回収された。
一人は死亡していた。
前線指揮官は報告を聞き、作戦図を見た。
高架下まで、残り三百四十メートル。
死者一名、重傷三名、軽傷七名。装甲車一両行動不能。停止基準まで残り四名だった。
「継続する」
命令はすぐには復唱されなかった。
通信に雑音が入ったわけではない。各班が、自分たちの損害を数えたためだった。
「第一目標まで継続。第二段階への移行はしない」
今度は復唱が返った。
道路の先では、灰白色甲殻型が倒れた四脚獣へ集まり始めていた。人間の遺体だけを狙うわけではないらしいが、損傷した生物へ黒い糸状器官を伸ばす個体がいる。
射撃班は距離を保ち、工兵班が路上の車両を使って進路を二本に絞った。
次の戦闘は、最初ほど崩れなかった。
盾班が受け、長柄班が向きを変え、拘束索で一体ずつ射線へ引き出す。灰白色甲殻型が後部を割る前に火力を集中し、小型個体を増やさせない。
それでも、最後の一体が死角から盾列の内側へ入り込んだ。
青白い裂け目から伸びた黒い糸が、倒れた兵士の脇腹へ突き刺さる。隣にいた兵士が長柄で引き剥がした時には、防護服の内側まで血が広がっていた。
甲殻型は射撃で砕かれたが、負傷者は後送の途中、高架下へ着く前に心肺停止となった。死者は二名に増え、重傷者を含む負傷者は十二名。あと一班で停止基準に達する。
午前七時十一分、先頭部隊は高架下へ入った。
工兵班が両側へ鋼製柵を展開し、装甲車二両を道路へ斜めに置く。背後では回収車両が負傷者と損傷した装備を運び、後続部隊が弾薬と新しい拘束索を下ろしていた。
高架の向こうに病院が見えた。
上階の窓に、白い布のようなものが掛かっている。風では動かなかった。
「病院六階、窓際に反応」
無人機の映像には人間らしい熱源が二つ映っており、現場から救助許可を求める通信が入った。梁雪梅は入口周辺の監視画面へ目を移した。
円盤型深層個体は動いていない。赤黒い跳躍型も、瓦礫の上で姿勢を変えていなかった。
だが、入口周辺にいた灰色六腕大型個体の腕が一本、道路の方向へ向きを変えていた。
「深層側に姿勢変化」
指揮所の空気が止まった。
梁雪梅は映像を巻き戻し、同じ動きを二度確認した。
「移動はしていません。反応だけです」
現場指揮官は、病院の窓を見上げていた。
八百メートル先へ進めば、助けられるかもしれない。そこまでの道路には、まだ複数の熱源がある。現在の部隊は停止基準まで三名しか残っていない。
「第一目標達成。固定陣地を構築し、前進を停止する」
病院へ向かいたいという通信が、複数の班から上がった。
現場指揮官は許可しなかった。
「救助は第二段階だ。今日の部隊を、明日の救助対象にするな」
高架下へ医療所と弾薬集積所が置かれた。道路上のモンスター死体はすぐには回収せず、血液と小型個体の反応を監視するため、無人機を残した。
確保した区域は、作戦図の上では細い帯にすぎなかった。
死者二名、重傷四名、軽傷八名。装甲車一両、無人機三機、改修防護盾十一枚、拘束索十七本を失った。
それでも、高架下までの道路は人間側へ戻った。梁雪梅は病院六階の熱源と、入口側で向きを変えた灰色の腕を別々の画面に表示する。
病院側の熱源は揺らぎ、入口側の腕も道路を向いたままだった。二つの画面が示しているのは、次の作戦を急がせる材料ばかりだった。




