第295話 余力の先
四本の腕が、ほとんど同時に動いた。
上側の二本が長柄の武器を左右へ振り開き、下側の二本は黒い胴体の前で構えられる。背中に折り畳まれていた膜がわずかに広がり、六つの目が別々の方向からデプスチームを捉えた。
「散れ!」
六人が左右へ分かれた直後、長柄の先端が床を薙いだ。重い音とともに石片が飛び、扉の前に残った大盾へ当たる。直撃を外しても衝撃は重く、シールドの靴底が石床を滑った。
ボスは追わず、中央に立ったまま四本の腕を戻す。上側の右腕には湾曲した刃、左腕には先端の尖った棒状武器。下側の手は、それぞれ短い石剣と厚い板のような防具を持っていた。
「目は六つとも動いてる。死角を期待するな」
「腕も別々に来る。正面へ集まるな」
隊長の指示を受け、ヴァンガードが長槍を構えて右へ回る。反対側では、小型盾と短槍を持つリーコンが距離を詰めていた。
最初に伸びた短槍を、ボスは下側の石剣だけで弾いた。続いて入った長槍には板状の防具を合わせ、そのまま上側の湾曲刃をシールドへ振り下ろす。三方向への反応に、ほとんど間がない。
シールドは受け止めたまま耐えず、大盾を傾けて刃を横へ流した。床へ当たった刃が石を削る。その腕が戻る前に、ブリーチャーが大型槌を低く振り、ボスの右膝を狙った。
下側の防具が槌の前へ割り込む。
鈍い衝突音が部屋へ響き、厚い板を持つ腕が外側へ弾かれた。
「今だ」
空いた脇腹へヴァンガードの槍が伸びる。黒い皮膚へ穂先が入りかけたところで、背中の膜が開いた。
羽ばたきとは呼べない短い一振りだったが、巻き起こった風に槍の軌道がずれた。ボスの身体が床を離れ、半歩分だけ後ろへ滑る。
追おうとしたヴァンガードへ湾曲刃が返り、リーコンには尖った棒が向けられる。二人はそれぞれ外へ退き、間へ出たシールドが長い武器の進路を大盾で塞いだ。
ボスは着地すると、今度は自分から踏み込んできた。
長柄で逃げ道を狭めながら、下側の二本が接近した者を狙う。大盾を正面へ向ければ横から湾曲刃が入り、左右へ散れば六つの目がそれぞれを追った。
「上をシールドへ集める。下は受けずに流せ」
隊長の声で、ブリーチャーがシールドの背後へ入った。
湾曲刃と棒状武器が大盾へ向く。その間に、リーコンが小型盾で石剣を外へ押し、ヴァンガードが下側の防具へ槍を突き込んだ。
二本の下腕がわずかに開く。
大型槌が横から入り、ボスの右膝を打ち抜いた。
黒い脚が揺れたものの、巨体は倒れない。六つの目のうち二つがブリーチャーへ向き、尖った棒が大盾の上を越えようと持ち上がる。
隊長がシールドの肩を叩いた。
「押せ」
大盾が前へ出た。
尖った棒を持つ上腕ごと押し上げ、ボスの胴体を傾ける。ヴァンガードの槍が右脚の外側へ入り、リーコンの短槍が膝裏を狙った。
短槍の穂先が深く沈む。
右脚へ体重をかけたボスの身体が、初めて目に見えて沈んだ。
「動きを止める。倒し急ぐな」
リーコンは短槍を残したまま手を離し、小型盾を構えて離れる。ボスが脚を引こうとするたび、膝裏に残った柄が床へ当たり、傷口を広げた。
デプスチームは傷ついた側へシールドを置き、反対へ回ろうとする動きを塞いだ。ヴァンガードは上半身へ踏み込まず、右脚へ短い突きを重ねる。ブリーチャーも大型槌を振り回さず、石剣や板状の防具を持つ下腕へ当て、力を逃がしていった。
ボスも止まらない。
背中の膜で身体の向きを変え、四本の腕で大盾と槍を順に弾く。尖った棒が盾の上を越え、後ろにいたサポートの兜を掠めた。首が大きく振られたが、隊長が装具を掴んで転倒を防ぐ。
「見えるか」
「見えてる。耳も問題ない」
サポートは自分の状態を答えると、すぐにシールドの盾帯へ目を移した。外側の留め具が一つ裂けかけている。
「左の固定具、次は持たない」
「聞いた。右へ流す」
隊長が指示を変える。
次に湾曲刃が振り下ろされた時、シールドは刃を左へ逃がさず、大盾の厚い右端で受けた。その一撃でボスの上体が開き、ヴァンガードの槍が右脚へもう一度入る。
膝裏に残っていた短槍が深く押し込まれ、巨体が大きく体勢を崩した。背中の膜が床へ触れ、四本の腕がそれぞれ身体を支えようと動く。
「ブリーチャー、脚を折れ!」
シールドが板状の防具へ全体重を預け、下側の二本を胴体へ押しつける。リーコンは小型盾で石剣を止め、ヴァンガードが湾曲刃を持つ上腕へ槍を絡めた。
空いた右脚へ、大型槌が振り下ろされる。
最初の一撃で黒い膝が床へ着き、二撃目が同じ場所へ落ちた。硬い物が内側で砕ける音とともに、ボスの右脚が不自然な角度へ折れる。
巨体が傾いた。
それでも上側の腕は動き、尖った棒がサポートへ向けられる。隊長がその前へ入り、武器の柄を横から蹴り飛ばした。
「胸を狙え!」
ヴァンガードの長槍が、腹部と胸の境目へ突き込まれる。
ボスは残る脚と膜を使って身体を起こそうとしたが、シールドが板状の防具ごと下腕を押さえ続けている。リーコンも落ちた短槍を拾わず、小型盾で石剣を床へ押しつけた。
ブリーチャーが槌を持ち直す。
振り下ろされた槌頭が、長槍の刺さった箇所より少し上へ入った。
黒い胸部が大きくへこみ、六つの目の動きが揃って止まる。槍を掴もうとしていた指から力が抜け、四本の腕が持っていた武器は、ばらばらの音を立てて床へ落ちた。
誰もすぐには近づかなかった。
シールドは大盾を前に残し、ヴァンガードも槍を抜かない。リーコンが落ちた武器を長柄で遠ざけ、サポートは六つの目と指先の動きを見ながら、兜を打たれた箇所を手で確かめていた。
「停止確認」
ブリーチャーが槌の柄で上腕を押しても、反応は返らなかった。六人はそこで一度呼吸を整え、サポートが順番に負傷と装備の状態を確認していく。
「首は?」
「少し痛む。意識と視界は正常」
「シールド」
「盾の外板が一枚割れた。固定具は交換する」
戦闘時間は三十分を少し超えていた。
事前に姿も能力も分からなかった相手としては、損耗は軽い。全員が自力で歩け、主装備も残っている。短槍一本を置き去りにしかけ、大盾と肩当てを傷めたが、帰還を妨げるほどではなかった。
ボスの身体が薄く崩れ始めると、部屋の奥で石が擦れた。
宝箱が現れても、六人はすぐに触れなかった。周辺と床を確認し、記録を残してから一人が蓋を開け、残る五人は距離を取る。
中には、透明な瓶を満たす赤い液体と、指揮棒ほどの長さしかない細い杖が収められていた。
「赤いポーション……か?」
「候補だ。見た目だけで決めるな」
赤い液体は瓶を傾けると緩やかに動き、光を受けた部分だけ明るく透けた。
海外の先行探索者が持ち帰り、重傷からの回復に使ったとされる品とよく似ている。映像では何度も見てきたが、デプスチームが現物を手にするのは初めてだった。
「負傷者への使用は必要ないな」
サポートの確認に、兜を打たれた隊員も自分で頷く。
瓶は緩衝材で包み、専用ケースへ固定した。
小杖は暗い褐色で、木にも骨にも見えなかった。表面には細い溝が走り、先端だけがわずかに太い。隊長が持ち上げても変化はなく、軽く向きを変えた程度では何も起こらない。
「魔術道具には見える」
「見えるだけだ」
「指揮棒だったら?」
「六人もいるんだ。これ以上、指揮する物を増やすな」
小杖も別の固定具へ収めた。
六人は改めて装備と身体を確認した。大盾の固定具は予備へ交換でき、重傷者もいない。応急用品と帰還予定時刻にも余裕が残っていた。
第四層ボスを撃破し、条件を満たした場合に限り、次階層の入口周辺を確認する。そこまでは出発前に決めてある。
「第五層へ入る。進むのは入口から見通せる範囲までだ。接敵した場合は、最初の反応で継続を判断する」
六人はボス部屋の奥に開いた通路へ入った。
緩い下り坂の先で空気が変わる。第五層は黒い石壁に囲まれた広い通路で、天井は低く、ところどころに淡い黄色の苔が張りついていた。風はないが乾いており、息を吸うたび喉の奥が少しざらつく。
入口付近に生物の姿は見えない。
階層表示と周囲を記録し、六人は三十メートルほど進んだ。曲がり角の先へ入る予定はなく、壁と床の状態を確認したところで引き返すつもりだった。
床に残る細い足跡が、壁際で途切れていた。
「止まれ」
シールドが大盾を前へ出し、リーコンが小型盾を構えながら壁へ視線を走らせる。
石壁の一部が剥がれるように動いた。
灰色の皮膚を持つ細身の人型が、亀裂の前から立ち上がる。腕は長く、垂らした指先が膝より下まで届いていた。顔には二つの黒い窪みがあるだけで、口らしきものは見当たらない。
見えている範囲では一体だった。
灰色の人型が右手を持ち上げる。
「術かもしれない。散開準備」
ヴァンガードとブリーチャーが左右へ開き、リーコンは盾の端から敵の手元を見る。掌に灯った赤い光を確認した瞬間、隊長が前進を止めた。
「魔術!」
敵は赤い光をこちらへ投げず、そのまま床へ叩きつけた。火の筋が石の継ぎ目に沿って伸び、盾の正面を避けるように足元へ這ってくる。
「下だ!」
シールドが足を引いた時には、炎が大盾の下へ入り込んでいた。
右の脚甲が赤く照らされ、革製の固定具から焦げた臭いが上がる。足を振っても火は落ちず、金属板の表面へ貼りつくように燃え続けた。
「固定具を切れ!」
サポートが前へ入り、焼けた留め具へ救護用の刃を差し込む。シールドは大盾を構えたまま片膝をつき、脚甲が外れた瞬間に足を引き抜いた。
落ちた脚甲には、まだ赤い火が残っている。
リーコンが小型盾の裏面を押し当て、石床との間に挟んだ。何度か火が縁から漏れたが、空気を断たれるにつれて光が弱まり、やがて焦げた革だけが残る。
その間にも、灰色の人型は次の光を集めていた。
「ブリーチャー、止めろ!」
大型槌が床を叩いた。
砕けた石片が敵の脚と胴へ飛び、右腕がわずかに下がる。二射目の火は通路の端へ落ち、黄色い苔へ燃え移った。
細い煙が低い天井へ広がり始める。
シールドは歩けたが、右脚の防具を失っている。代わりにリーコンが小型盾を前へ出し、ヴァンガードがその横から長槍を敵へ向けた。
「押せるか」
「一体なら可能性はある」
ヴァンガードの答えを聞いた隊長は、敵ではなく天井へ昇る煙を見た。炎がどこまで床を伝うのか、次に同じ術を使う保証はあるのか、壁に擬態している個体が他にもいるのか。そのどれにも答えがない。
「継続戦闘は不利だ。退路へ火を置かれる前に戻る」
リーコンとヴァンガードが敵を牽制し、ブリーチャーは大型槌を通路いっぱいに振れる位置へ下がる。サポートはシールドの脛を確認しながら、外した脚甲を回収袋の外へ固定した。
灰色の人型は歩いて追ってきたが、距離を詰める速度は速くない。
三度目の赤い光が掌へ集まり始める。
ブリーチャーが大型槌を横へ振り抜き、壁際の石をまとめて砕いた。落ちた破片が敵の進路を塞いだ隙に、六人は坂道を抜けて第四層のボス部屋へ入る。
追跡がないことを確かめるまで、隊列は解かなかった。
「火傷を確認する」
サポートがシールドの前へ座り、焦げた靴と脛の装具を外していく。皮膚の一部は赤くなっていたものの、水疱や深い損傷は見られなかった。
「歩ける」
「帰還中に悪化したら交代する。痛みは隠すな」
他の五人も呼吸が荒くなっていた。
体力が尽きたわけではない。消火、脚甲の解除、隊形変更、後退を短時間へ詰め込み、ボス戦後に残していた余裕を削られた結果だった。
「報酬は無事か」
「問題ない」
赤い瓶と小杖を収めたケースに異常はなかった。
記録映像を短く確認すると、床を走る炎は大盾の前で一度向きを変えている。シールドの動きを追ったのか、石床の継ぎ目を選んだだけなのか、映像からは判別できない。
「煙も調べる必要があるな」
焦げた脚甲を見ながら、シールドが言った。
「今回は火が小さかった。燃える物が多い場所なら、あれだけでは終わらない」
「防煙具だけで足りるか?」
「煙の成分次第だ。燃焼が続いて酸素まで減れば、フィルターではどうにもならない」
「空気を持ち込めば重量が増える。容器を壊された時も面倒だな。先手を打って倒すか、とにかくあれを使わせない立ち回りが必要だな。」
答えは、帰還後に専門側へ回すしかなかった。
隊長は固定具に収まった小杖を見たあと、まだ煙の臭いが残る通路へ一度だけ目を向ける。
「映像と焼損装備を持ち帰る。第五層の装備案は、それを見てからだ」
「小杖もか?」
「それも含めだな、今回の収穫は上々だ。」
シールドが自分の足で立ち上がり、軽く体重をかける。歩行に支障がないことを確認すると、六人は帰還用の隊形へ戻った。
先頭に立ったリーコンの小型盾は、大盾の代わりにはならない。来た時より速度を落とし、シールドを中央へ置いたまま進むことになった。
ボス部屋を離れる直前、ブリーチャーが回収袋の外へ固定された脚甲を見た。
「帰ったら、まず装備の担当が喜びそうだな」
「焼けた脚甲を見て喜ぶ奴がいたか?」
「新しい課題を持ち帰った、と言えば喜ぶだろ」
隊長は返事をせず、帰路の確認を続けた。




