第294話 デプスチーム
シンガポール中央異常空間第四層、その最奥。
ボスチャンバーへ続く通路の手前で、六人のデプスチームは最後の装備確認を行っていた。
扉までの距離は十二メートル。床に引かれた黄色い線から先には、必要がない限り近づかない。扉そのものへ触れなくても戦闘が始まった例はなかったが、「例がない」は安全を保証する言葉として扱われていなかった。
「シールド、固定具」
ヴァンガードの声を受け、先頭右側の男が腕を上げる。
肩から腰へ回したベルトには、四層用に作られた複合盾が接続されていた。人間の上半身をほぼ隠す大きさがあるものの、背面の補助機構によって重量の一部が腰と脚へ分散される。
「異常なし。予備留め具、二組」
「ブリーチャー」
「槌頭、柄、接続部に異常なし。交換用楔、四本」
盾の半歩後ろに立つ女が、長柄の槌を床からわずかに持ち上げた。
金属製の柄に取り付けられた槌頭は、正面だけが厚く、反対側は狭い嘴状になっている。大型個体の甲殻を叩き割るための装備だが、今回の相手に通用する保証はなかった。
「リーコン」
「室内反応は扉越しでは取得できません。温度、振動、音響、全て前回と同じです」
通路脇にしゃがんでいたリーコンが、小型端末から顔を上げる。
「つまり、何も分からない」
サポートが言った。
「正式には、扉越しに得られる情報が変化していない、です」
「長くしただけだろ」
「報告書に『何も分からなかった』とは書けないので」
ヴァンガードは二人のやり取りを止めず、端末に表示された時刻を確認した。
第四層のボスチャンバーへ挑むのは、これが初めてだった。部屋へ入れば、ボスを倒すまで扉は開かない。外部から扉を破壊する試験も禁止されている。中国で起きた事例以降、入口や階層構造への攻撃を試そうとする者は、シンガポール国内にはほとんどいなくなった。
第三層攻略後、デプスチームは第四層へ二十三回進入している。ボスチャンバーまで到達したのは七回。そのうち五回は扉周辺を測定し、残る二回は帰路の予備時間が不足したため、黄色い線にも近づかず撤収した。
積み重ねた慎重さが役に立つのは、ここまでだった。一度でも室内へ入れば、途中で判断を変えて帰ることはできない。
「日本では、ボス部屋と呼ぶそうです」
リーコンが端末を収納しながら言った。
「今する話か?」
「緊張を下げるための会話です」
シールドが盾の下端を床へ置く。
「ボスチャンバーの方が強そうでいいだろ」
「部屋の名前に強さは必要か?」
「必要だ。会議室よりウォールームの方が強そうに聞こえる」
「中で待っている相手が強くなるのは困るんだが」
ブリーチャーが槌の柄を肩へ乗せた。
「ゲームなら、ここで装備を確認してセーブするところなんだけどね。光る円とかない?」
「残念ながらご覧のまんまだ」
「知ってるさ。ダンジョンが聞いて答えてくれるかなって」
「その場合、誰がコンテニューボタンを押すんだ?」
「サポートが念入りに気分を下げてくる」
「緊張を下げる会話ではなかったのか?」
短いやり取りの間にも、手は動いていた。
サポートは各自の止血具と回復薬を確認し、背負った袋の外側へ識別札を固定する。リーコンは胸部カメラの角度を調整し、シールドの背面へ小型の振動計を取り付けた。ブリーチャーは予備の楔を抜きやすい位置へ移し、ヴァンガードは全員の動きを一つずつ見ていた。
最後尾のサポートが一人ずつ肩を叩き、携帯端末へ測定値を入力していく。
「心拍、全員許容範囲。ブリーチャーだけ少し高い」
「楽しみにしてたから」
「恐怖でも興奮でも、数値は数値だ」
「報告書には格好よく書いて」
「高心拍。本人申告、楽しみ」
「子供扱いは勘弁して」
ヴァンガードが手を上げると、会話が止まった。
「確認する。入室後、扉は閉鎖される。撤退はない。シールドが正面を固定し、ブリーチャーが破壊可能部位を探す。リーコンは観測を優先。サポートは後方維持と負傷対応。想定外の能力が確認された場合、俺が隊形を変更する」
全員が頷いた。
「ボス撃破より生還を優先するとは言えない。今回は撃破しなければ生還できない」
これまでの探索では、負傷者が出た時、予備時間が規定を割った時、装備の主機能を一つ失った時など、帰還へ切り替える条件を先に決めていた。今日、それらは使えない。部屋に入るか否か、その判断そのものが最後の撤退判断になる。
「役割を捨てて成果を取りに行くな。倒すのは個人じゃない。デプスチームだ」
「了解」
重なった返事を聞き、ヴァンガードは黄色い線を越えた。残る五人も、決められた間隔を保って続く。
扉は黒い石でできていた。高さは四メートル近くあり、中央には縦方向の溝が一本だけ走っている。取っ手も鍵穴もなく、押して開く構造にも見えない。
ヴァンガードが右手を伸ばす前に、扉の表面へ青白い線が浮かんだ。
「接触前反応」
リーコンが即座に告げ、全員がその場で止まる。
青白い線は中央の溝から左右へ枝分かれし、扉全体へ広がっていった。過去七回、同じ位置まで来ても起きなかった反応だった。
「理由は」
「不明。人数、装備、到達回数、滞在時間のいずれか。あるいは複合条件」
「映像と計測を継続」
「継続中」
石同士が擦れる低い音が通路全体へ響き、扉の中央に細い隙間が生まれた。
「触ってないぞ」
シールドが盾を上げる。
「見れば分かる」
ブリーチャーも槌を構え、笑いを含んでいた声だけが消えた。
隙間の向こうは暗い。床があることまでは確認できるが、奥行きも天井も室内の形も見えず、照明を向けても光は途中から吸われるように弱まった。
リーコンが手のひらほどの車輪付き探査機を床へ置き、開きかけた扉の隙間へ送り込む。
「投入します」
届いた映像は三秒間だけだった。黒い床の上に白い柱が並び、天井から何本もの細い影が垂れ下がっている。画面が揺れた直後、通信表示ごと消えた。
「通信喪失。機体反応も消失」
「破壊された?」
「音はありません。映像上の接触も確認できません」
「回収は」
「扉を越えなければ不可能です」
サポートが探査機の管理番号を損失一覧へ移し、機体の状態を喪失へ変更する。
「この前支給された奴だよな?」
ブリーチャーが聞いた。
「新品だった」
「帰ったら申請書を書くよ」
「生きて帰ればな」
扉は、人一人が通れる幅まで開いたところで動きを止めた。全開を待っていた六人の前に、装備を横へ向けなければ通れない隙間だけが残る。
「歓迎されてないみたいだ」
シールドが言った。
「歓迎される前提で来たのか?」
「ゲームなら扉はもっと派手に開くんだけど」
「これはゲームじゃない」
「何回聞いた言葉だか」
ヴァンガードは隙間と各自の装備を見比べた。
シールドの盾は、そのままでは通らない。横へ向ければ通せるが、入室直後に正面へ構え直すまで時間がかかる。大型装備を持つブリーチャーも同じだった。偶然とは考えにくい幅だった。
「順序を変更する。リーコンが先行。続いてヴァンガード、シールド。ブリーチャー、サポートは後ろ。リーコンは入室後三歩で停止し、左右だけ確認。奥へ進むな」
「了解」
シールドが顔を向けた。
「リーコンを最初に入れるのか」
「盾が通らない。俺が先に入れば、見えないまま選択することになる」
「分かった」
反対はそれだけだった。
リーコンは普段の観測装備を背へ寄せ、右手に短い槍を持つ。左腕には狭所進入用の小型盾を固定し、身体の向きを変えずに通れることを確かめてから、扉の隙間へ滑り込んだ。
約束どおり三歩目の手前で止まり、床へ目を落とす。
「待て」
低い声が通信へ流れた。
「何が見える」
「床に線があります。扉と平行。越えると、何か起きる可能性があります」
「左右」
「右、壁まで約八メートル。左は確認不能。柱が遮っています。正面……」
リーコンの声がそこで途切れた。
「正面、距離十五メートル。対象一体。こちらを見ています」
ヴァンガードは扉の隙間から室内を覗き、探査機の映像に映っていた白い柱の正体を知った。
骨だった。
人間の胴ほどの太さがある骨が、床から天井へ向かって何本も伸びている。巨大な肋骨に似た構造の中央には、四本の腕を膝へ置き、頭を垂れた黒い人型が座っていた。背中には、折り畳まれた膜のようなものが重なっている。
怪物が顔を上げると、暗闇の中で六つの目が順に開いた。
「対象、覚醒」
リーコンの声と同時に床の線が赤く光り、背後の扉が閉じ始めた。
「入れ!」
ヴァンガードの号令で、残る全員が隙間へ走る。
シールドは盾を横へ向けて通し、室内へ入ると同時に身体をひねった。ブリーチャーは槌頭を先に差し込み、長い柄を引き寄せるようにして滑り込む。最後のサポートが扉を越えた直後、背後で石が噛み合う音が響き、出口だった場所は黒い壁へ戻った。
シールドが盾を正面へ戻し、ブリーチャーがその半歩後ろへ入る。リーコンは床の線を越えずに右へ退き、サポートは壁際から全員の位置と状態を確認した。
「ボスチャンバー進入。全員生存」
「確認」
中央の怪物が六つの目をシールドの盾へ向け、四本の腕で床を押しながら立ち上がった。折り畳まれていた脚が伸びるにつれ、頭の位置は事前に想定していた高さを越えていく。
「シールド、前へ。ブリーチャー、右脚を狙え。リーコンは膜と腕の動きを追え。サポート、距離維持」
ヴァンガードが槍を構える。
「デプスチーム、戦闘開始」
盾が前へ出た瞬間、怪物も最初の一歩を踏み出した。




