第283話 新居と提案
あの後のことは、あまり覚えていない。
村瀬が手配した車で候補地へ向かい、警備員のいる入口を抜け、案内された家の中へ入ったところまでは覚えている。母は玄関の収納を確かめ、居間を見回し、まだ態度を決めていない顔のままキッチンへ向かった。
そこから先が早かった。
「ここ、食洗機ついてるの?」
「標準設備です」
「収納も全部引き出し式?」
「はい」
「コンロの掃除は?」
「天板を拭いていただければ」
案内役が答えるたび、母の声から警戒が抜けていった。
作業台の高さを確かめ、換気扇を覗き込み、備え付けの棚を端から開けていく。最後に奥の食品庫を見つけた時には、昨日まで口にしていた近所付き合いも、長年使った家具も、通い慣れた店も消えていた。
「旧い家は、もういいかね」
長く悩んでいたはずのものを、母はキッチン一つで吹き飛ばした。
その後、警備担当者から周辺施設の説明を受け、近くに管理された異常空間があると聞いた母は、俺を上から下まで見た。
「透、会社員の頃より痩せたよね」
「筋肉が増えただけだよ」
「私も入れば痩せるかしら」
「血迷うな」
母は冗談で言ったのかもしれないが、目が少し本気だった。父が横で笑い、すみれは突然鞄からノートを出した。
そこからは拷問だった。
ダンジョンでは本当に身体能力が上がるのか。兄の性格に変化はあったか。危険な場所へ進みたくなる心理は依存に近いのか。死ぬかもしれないと思った時、人間は何を考えるのか。モンスターを倒した時に罪悪感はあるのか。
答えを濁せば理由を聞かれ、短く答えれば具体例を求められ、黙れば観察対象にされる。
「これは世に言う尋問なのでは」
答えの代わりに返ってくるのは、捗っている妹のにんまりとした笑顔だけだった。
確かな結果として、引っ越しは恙無く終わった。
旧宅から運び出す物は母が選び、父は必要最低限でいいと言いながら趣味の道具をかなり持ち込み、すみれは大学へ通えることを確認すると自分の部屋を確保した。警備上の手続きも、住所変更も、近隣への説明も国側が大半を処理してくれた。
俺が手伝った記憶は薄い。
たぶん、運んだ。何か重い物を持った気はする。
新居の居間では、母が食器の位置を決め直していた。父はまだ箱の残る部屋でテレビを見ており、すみれは大学へ戻っている。
家族の生活が落ち着いたところで、俺は外へ出た。
敷地内の管理棟にある面談室では、村瀬が先に待っていた。
「この度は、色々とありがとうございました」
「いえ。ご家族にも納得していただけたようで何よりです」
「母はキッチンで落ちました」
「設備担当に伝えておきます」
「たぶん誇っていい実績だと思います」
村瀬は真顔のまま書類を閉じた。
机の端には、いつもの胃薬とペットボトルの水が置いてある。家族の引っ越しを担当したことで増えたのか、元から減っていないだけなのかは分からない。
「襲撃に関してですが、拘束した者たちから得られた情報の整理が進んでいます」
「中国側は?」
「現時点では、放置に近い静観へ戻ったと見ています」
前回の襲撃を正式な国家行動として認める材料はない。使われた人員も、組織も、表向きには中国政府と切り離されている。
ただし、こちらが何もしてこないと判断しているわけでもないらしい。
「戸張さんの装備や能力に対する関心は残っています。ですが、強引に確保するには負担が大きいと、改めて理解したのでしょう」
「七人返って来ませんでしたからね」
「全員、生きて返しています」
「警察にですけど」
「それで十分です」
村瀬は胃薬へ手を伸ばしかけ、途中でやめた。
「しばらくは、直接的な動きより情報収集を優先する可能性が高いでしょう。ご家族の居場所についても、こちらで管理します」
「お願いします」
「それと、国内側にも進展があります」
村瀬が別の資料を開いた。
映っていたのは、見覚えのない草原だった。
遠くまで続く緑の中に、巨大な岩が浮いている。小さな岩片ではない。建物ほどもある塊が、地面から何十メートルも離れた場所に留まり、その影が草の上へ落ちていた。
「六層ですか」
「はい」
国側の選抜部隊が、五層ボスを突破して到達したらしい。
俺が知っている六層は森だった。
木々が密集し、寄生させた小動物を散らしても、奥に何がいるか分からない場所だ。小人たちの拠点があり、森砕きがいた。
目の前の映像には、木がほとんどない。
「同じ六層でも、ここまで違うのか」
「戸張さんから提供された情報と一致しないため、ダンジョンごとに階層環境が異なる可能性が高まりました」
「浮いてる岩は?」
「原理不明です。落下するのか、移動するのか、内部に空洞があるのかも確認中です」
「上には行きました?」
「まだです」
行けるのか。
どうやって浮いているのか。近づけば本当に影が動くのか。浮岩の下に生物がいるのか、上に巣でもあるのか。
映像を止めてもらい、浮岩の一つを拡大する。下側は滑らかではなく、地面から引き抜いた岩山をそのまま空へ置いたような形をしていた。表面には草のようなものも見える。
「それで、本題なのですが」
村瀬の声で、画面から顔を上げた。
「戸張さんに、この六層へ入っていただけないかという提案が出ています」
「俺が?」
「単独で行動していただいても構いません。国側の部隊と共同で動いていただく形でも調整できます」
「入っていいんですか」
「正式には、協力をお願いする形になります」
こちらから頼みたいくらいだった。
俺のダンジョンとは別の六層で、草原と浮岩がある。未知の生物もいる。国側が管理しているなら、入口や帰還手段の心配も少ない。
「どこまでやっていいんです?」
「危険度を確認しながらになりますが、行動範囲についてはかなり広く認める方向です」
「戦闘は?」
「必要であれば」
村瀬は資料を一枚めくった。
「冗談半分ですが、現地で確認されている鶏に似た大型個体を、ボスであるなら倒していただいても構いませんよ」
「鶏?」
画像が切り替わった。
遠距離から撮られたらしく輪郭は荒い。それでも、二本脚で立ち、丸みのある胴体と短い翼のようなものを持っているのは分かる。
鶏というには大きすぎた。
浮岩の下にいる別の生物と比較すると、背丈だけで数メートルはある。
「いつ行けます?」
村瀬が黙った。
「少しは考えていただけると思っていました」
「浮島みたいな場所を見せられて、鶏っぽいボスまでいるんですよね」
「まだボスとは確定していません」
「倒していいんですよね」
「状況次第です」
「じゃあ行きます」
共同で動くか、単独で先行するか。装備の持ち込み範囲、現地部隊との合流方法、情報の共有条件。
決めることはいくつもあったはずだ。
だが、いつの間にか話は進んでいた。
単独行動を基本としつつ、国側部隊の活動区域へ入る場合は接触する。彼らの任務を妨げず、危険な大型個体を確認した場合は共同対処も可能。回収品の扱いは事前協議。核については、俺が吸収する可能性を前提に記録を残す。
気づいた時には、装備を持って車へ乗せられていた。
窓の外を流れる街並みを見ながら、どこへ向かっているのかを聞く必要すらなかった。
車が止まり、扉が開く。
懐かしい湿った空気と、コンクリートに囲まれた水路が見えた。
水門ダンジョンの入口前には、警備員と国側の職員、それから見覚えのある装備を着けた六人が待っていた。




